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うたかたゆめまぼろし


「まだまだぁ……」
「ふんっ。なにがまだまだだよ、すっかり寝こけて。おーい、起きろ。飲め」
「そのくらいにしておきなさい、次郎太刀」
「ええ、まだ酒が足りないよ……、あっ、ちょっと、みんな寝ちゃってる」

開け放たれた広間に面した庭から秋の虫の音が鳴っていた。
次郎太刀が床に伏した薬研の身体を乱暴に揺する。揺すられながら短刀の漏らす寝言に鼻を鳴らす。
それまで黙ってみていた太郎太刀がかけた声は、至極あっさりと流された。ごく小さく息を吐き、しかしそれ以上は続けず自身の傍らに微かに視線を走らせる。
次郎太刀が酒を呑むのはいつものことで特に珍しくはない。犠牲となった短刀たちは元から弱いのにしこたま酔わされ、散々絡まれた挙句にぐったりとそれぞれが板間の床に伸びていた。しかしそれも日常見慣れた光景である。
いつもと少し違うことと言えば、そこに太郎太刀の姿があったことだ。彼は本来であれば早くに部屋に引き取るのが常であった。

「じゃあ、主は、」

次郎太刀が酒の瓶を掲げ勢いよく振り向けば、足を崩さずに座る太郎太刀の大きな身体に凭れるように審神者がうたた寝をしていた。主と呼ばれた彼女は審神者装束を解いた浴衣姿である。長い黒髪も寛がせていた。
太郎太刀が次郎太刀を見、静かに首を振る。
弟につきあって僅か口を湿した彼の盃は疾うに干されていた。

「主は女子ですよ」
「ちっ、なんだよ。酒に強いような事言ってたじゃないか。そんなら、ここからは兄貴が付き合ってよね?」
「呑むなとは言いませんが加減をしなさい。遠征に出ている者達もいるのです」
「アタシだって戦に出ればちゃんとやってるよ」
「…………、」
「固いこと言わないでさ……ねえ?」

太郎太刀には本心から弟を咎める気など本当はなかった。それだと言うのに何故いつまでもここに座して、このような余計なことを言うのか。言ったところで由無し事を。
次々と過去へと送り出されてくる敵と過酷な戦闘を繰り返す日々である。
権力を振るう検非違使が現れた。こちらにも容赦のない攻撃を仕掛けてくる。敵の脅威に苦戦を強いられる。負け戦も増えたし手入れ所は休む間もない。
どの刀剣も同じ、いつ身を無惨に折られても不思議はない。誰よりも強く大きな刀身で敵を薙ぎ払う太郎太刀とて例外ではない。
こうした中、本丸で過ごすささやかな休息のとき、少しばかり酒を過ごしたところで誰に責められよう。羽目を外したくなる気持ちなど、生真面目な太郎太刀であっても理解に余りある。

「おかわりを取ってこようっと」

眠りを妨げることだけが愁事であった。
この主の。
今度こそ口を閉ざし、審神者に再び視線を落とす。珍しいことだ。いつもならとっくに自室に引き上げている刻限である。何故主は今宵に限って酒に付き合う気になどなったのか。
太郎太刀がこうしていつまでもここに残っているのはただの酔狂ではなかった。





我々は審神者の力によって長い眠りから呼び覚まされ、こうして人の姿を借り顕現した。
しかしこの身は泡沫である。
歴史を歪めようとする者らを制圧する目的で時の政府に送り出された審神者。彼女はそのひとりであった。太郎太刀の目から見れば膝にすっぽりとはまり込んでしまうだろうほどに小さな身体。この儚げな女子の一体どこにその力が宿るのか。
出陣のたびに背を伸ばし唇を引き結び、ひとりひとり皆の顔を見つめる。つよい光を宿した目は迷いなく常に凛としている。だがその瞳の奥に憂いを隠していることを疾うに知っていた。影のようにひそやかな視線を常に彼女に送るようになったのはいつからだったか。
すっかり夢に沈んだ寝顔を見下ろし、太郎太刀の口許がそれとわからないほど僅かに歪む。
望んだわけではない。現世になど還りたくはなかった。
太郎太刀が主のもとにやってきたのはまだ彼女が審神者となって日の浅い時分だった。久遠と思われた眠りから覚醒させられて、審神者が年若い女と知ったときはいささか面食らったものだ。
彼には何かを求めるなど端からなかった。詮無い事を思い煩うは不毛であると心を閉ざしていた。
元より刀剣に審神者を選ぶ権利などはなく、ならばこの主の命に従うが与えられた己のさだめと心得るまでのこと。
そうして宿世を受容したあの日から、共に過ごし共に闘った幾多の日々だった。
いつしか芽生える得体の知れぬ感情を畏れながら。
人ならざる身の恰も人であるような感情を持つことを畏れ、そして何よりも付喪神である己の身に一抹の寂寥を感じながら。
私のような無粋な者までを分け隔てなく扱い、こうして近侍として傍に置かれる主。
酒瓶をぶらさげた次郎太刀が厨から戻ってくる足音を聞き、太郎太刀は宙に浮かせかけた手を我が膝に戻す。

「兄貴……?」
「……主はお疲れのご様子。部屋にお連れしましょう」
「うーん、そうだね。飲ませたのはアタシだ、それじゃ」
「お前は酒を過ごしています。私が行きます」

せっかく酒瓶を置いて手を貸そうというのに制止され、思いの外きっぱりとした返答を受け、意表を突かれた気持ちで太郎太刀を見下ろす。次郎太刀はいつにない兄の口調と表情に僅かだけ眉を上げた。
この程度の酒で足元がふらついたりなんてアタシはしないのに。
しかし審神者を抱き上げ立ち上がるのを黙って見つめた。やがて少し目元を緩ませて床に伸びる短刀たちを見やる。

「まあいいや。あんた達ももう、部屋に戻りな。ちっこい子はアタシが運んでやろう」
「もう、もう…………飲めませんんん……」
「わかったからさ」

ぐずぐずとする乱や秋田の髪を大きな手でかき混ぜながら、広間を出ようとする兄の背に再び目を向ければ、いつもと変わりない大きな黒衣の背が静かな佇まいでいちど立ち止まり、低く声を残した。

「次郎太刀、我々はみな、主の為に」
「うん」
「余計なことを言いましたね」
「いいや。そっちは頼んだよ、兄貴」

今となれば兄の中にある逡巡が見えるようだった。ほどほどにしろ節度を保てと太郎太刀が口にしたのは寧ろ、彼本人に向けた言葉であったかもしれないと思う。
敷居の向こうに消えた背に目を細めた。
長い廊下を渡りながら太郎太刀は腕の中の小さな身体を見つめる。主の意識のあるときにはこのような不躾な視線を向けたことは一度もない。
強さを誇る彼の、決して表には出さないが時として揺れる心。向き合うことを避け蓋をして深部に仕舞いこんできた想い。
為すべきこと、為すべきでないこと、わかっていた筈だったのに。
私は主にすこし近づき過ぎたようだ。
隊の編成も誰を近侍とするかも全ては主の考えひとつ。誰もがそうであるように、いまこの身が彼女から離されることを、私は確かに恐れている。





審神者を褥にそっと下ろし、腰から下に薄い夏掛けを掛けてやる。
今宵は新月。逡巡ののち枕元の行燈に灯を入れた。
広間から距離を置いた彼女の私室。静寂に包まれた深更。
この明かりが消えるまでの僅かなひとときだけ見守り、そして去るつもりでいた。
行燈の油がじじ、と小さく音を立てる。
褥の足元に正座をし暫くは規則正しい寝息を聞いていたが、次第に胸が塞がれるような心地がしてくる。
火皿のすこしばかりの灯心はもう間もなく燃え尽きよう。
明日の朝まで主が健やかな眠りのなかにあるように。
薄く息をつき腰を上げ障子戸に手をかけた。

「……ん、」

耳に届くそれは殆ど吐息ばかり。微かな呼吸音は何一つ意志を持たない。審神者は深い眠りの中にいる。そこには許容も拒絶もないのだ。それだというのに俄かに胸が騒ぐ。
ふと火が落ちた。衣擦れの音がした。
ゆっくりと振り返る付喪神の金色の瞳が漆黒の暗闇の中でその姿を捉える。
制御の利かない大きな力が働く。あの時と同じように、なんの前触れもなく目覚めていく。閃光に貫かれるように身の裡に湧き上がるこれは、一体何か。
自身の中で相反する二つの矛盾する心に裂かれそうな思いで再び膝をついた。
寝返りを打ったのであろう、夏掛けのずれて身体を横に向けた寝姿はしどけなく、細く白い脚が露わになっていた。

「私を、」

否応なく突き動かされ、我知らず伸ばした手ですべらかな下肢に触れた。
身じろぐ気配にまだわずか躊躇いを感じながら、衝動が太郎太刀の理性を殺し、匂い立つような内腿を手で持ち上げて顔を寄せた。

「あるじ、あなたが、」

このようにした……などと言ったところで、それこそが甲斐なきことだ。
次郎太刀よりもずっと。

私のほうが遥かに欲深いのだろう。

人ならざる身の、これほどに業の浅ましいことと気づいてももはや手遅れで、誰に誹られてもかまうことかと白い肌に唇を落とす。
本当はずっと、いつからかずっと、望んでいた。かりそめでもいいと、ただひとつだけを願っていた。

我がものに。このひとを。



泡沫夢幻
20150927


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