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 01


右側が寒いと感じるようになったのはいつからだろう。
俺の手はいつも冷えていたが、なまえはよく手を繋ぎたがった。彼女にそれを言えば「この冷たさが好きだ」と微笑んだ。
他人と手を繋ぐ習慣などなかった俺は面映ゆく思いながら、それでも気づけばいつもなまえの手を握って歩いた。そうして俺は知った。その他愛ない行為が、これほどに心を温めるのだと。
それだというのに。
なまえの手にしばらく触れていないと気づいたのはいつからだっただろうか。





いつもの年よりも訪れの遅い冬を最初に感じた日だった。
腕時計を覗く俺にちらりと目線を寄越したなまえは、グラスをテーブルに置くとわずかに乱暴な仕草で隣りに腰を掛ける。向かい側の総司は楽しげに笑っている。

「この寒いのにまたアイスコーヒー?」
「……まだ飲む気か。腹を壊す。あんたは昔から……、」
「もう! お腹なんて壊さないよ。子供じゃあるまいし」

総司が言うのに俺が言葉を足せば、氷をたっぷり入れた新たなグラスの中身をストローでつつきながら、彼女はこちらを見もせずに眉を寄せた。

「なまえちゃんは昔からそれ、好きだよね。真冬でも飲んでる」
「うん、大好き」

遅れて合流した俺のカップのホットコーヒーはとっくに空になっていた。先客の二人の食事もとうに済み皿はすでに下げられ、卓上には空のグラスがいくつか載っていた。
テーブルの下で足を組んで、ぶらぶらさせた足先のローファーを履き直した総司が腰を浮かせる。「僕もおかわり」とドリンクバーへ向かおうと席を立つところを、なまえがにこにこと見上げる。
大学時代をともに過ごした俺達は、当時いつも入り浸っていたファミリーレストランで久しぶりに顔を合わせていた。
一般企業に勤務する俺と、いくつかアルバイトを掛け持ちする所謂フリーターの総司、やはりアルバイトをしながら就活をしているなまえ。
社会人になってこのような店を使うことのめっきり減った俺であるが、この三人で会う時は暗黙の了解のように当時通ったこの場所になる。
仕事上がりに呼び出しを受け、俺がここにやってきたのは三十分ほど前だ。こちらに戻ってくる総司を見ずに隣のなまえの肘を引く。

「明日もあるゆえ、そろそろ帰るぞ」
「えー、もう?」
「もうではない。23時になる」
「来たばかりじゃない」
「あんたを迎えに来ただけだ」
「まだ帰りたくないなぁ」
「なまえちゃん、明日フリーだよね? 僕もなんだ」
「俺は仕事だ」
「ならさ、一君独りで帰ったら?」

総司が向かい側の席に座りながら笑い、なまえも「そうすれば?」と笑った。
その瞬間、心のどこかに燻っていた何かが爆ぜた気がした。

「そうか。……ではそうさせてもらう」
「え、一? 冗談でしょ?」
「あんたは総司が送ってくれるだろう」
「…………、」
「僕は構わないけど」

俺には持ち帰った仕事もある。スーツの胸ポケットに手を入れ、財布から出したなまえの食事代を無造作にテーブルに置いてビジネスバッグを取り上げた。隣のなまえを退かせ独り席を立てば、なまえは少し驚いたような顔をして見上げてきたが、小さく息をついた俺は見返した視線をゆっくりと外した。
正直に言えばその時は、彼女が追いかけてくるのではないかと思わなくもなかった。店のドアを押し外に出、歩き出す前に一度だけ振り返る。
しかし誰一人出てくる者はなかった。
片手に提げた鞄は重く、吹き付ける風は殊更に冷たく、それは身体だけでなく心も強張らせていくようだった。




玄関ドアが控えめに解錠される音を聞く。ずっと開けていた瞼を閉じる。息を潜め気配を伺うように、なまえが寝室のドアを細く開けた。隣室の灯りはついておらず暗闇の中、ほんのかすかにアルコールの匂いがする。吐息のような声が聞こえる。

「一……寝てるの?」
「…………」

このような時間まで何をしていた。ずっと総司といたのか? 就活中の身でそのように遊んでいる場合なのか?
言いたいことは山ほどあった。しかしそれを口にするには、俺は疲れ過ぎていた。
ごそごそとクローゼットを開ける音がする。隣室との境のドアはすぐに閉じられた。
一向に睡魔はやって来ない。疲れていたのは身体ではなく心の方だったのかもしれない。
程なくして隣の部屋で鳴っていた控えめな衣擦れの音が止まる。静寂が戻る。
なまえはソファで夜を明かすつもりらしい。
起きていって一言言うべきだったのだ。寝室で眠れと。そのような場所では風邪を引くかもしれぬし疲れが取れぬだろう。本当はそう言ってやりたかった。
それでも何も言えぬまま、俺は身を固くして黙っていた。





***





「追いかけなくていいの?」と沖田君は言った。わたしは追いかけたいと思った。このままでは取り返しのつかないことになりそうな気がして。
それなのに沖田君は言葉と裏腹に、立ち上がりかけたわたしの腕を掴んだ。さっきと打って変わった真面目な顔で、いつになく静かな口調だったのでわたしは思わず動きを止める。

「でもそれをしたら、一君の思う壺だよね」
「…………え、」
「窮屈なんでしょ? あれだけ過干渉な男と一緒に暮らしてたら誰でもそうなるよ」
「一は心配してくれてるだけだと思う……」
「それもわかってる。でも過ぎたるは及ばざるが如しって言うでしょ。一君も少しは気づくといいんだ。君が大切なら、君の気持ちにね」
「…………」
「明日は休みだよね。飲みに行かない?」

本当にこのまま、飲みになんて行ってしまっていいの? それも沖田君と二人でなんて。
いいわけがない。一は納得をして先に帰ったわけじゃない。だけどその時のわたしは、沖田君の言葉のひとつひとつを、そうかも知れないと思ってしまった。
一という人は知り合った大学時代からずっと生真面目で、主張はいつもたいてい間違っていなくて、そして本人も自身の言葉以上に在ろうと努力を惜しまない人だった。
お互いに好きになって自然に一緒に暮らすようになった日々の中、もちろんわたしだって彼の言い分の正しさを十分理解していた。成績もよく品行も方正な彼の辞書には、就職浪人なんて載っていなかったに違いない。難なく有名企業に入社した。彼に私の立場や気持ちはわからない。
だからといって一は驕ったり見下したりなんてことをわたしにしたわけじゃない。いつだって心から気遣ってくれているのはよくわかっている。
だけど。
そうなんだ。
いつからなのかな。わたしは沖田くんの言うとおりに感じるようになっていた。
今日だけのことじゃない。わたしの行動に苦言を言う時、彼はわたしの言葉や言い訳をあまり聞かない。就職に関してもそうだ。だけど、どうしたって彼の言うことはやはり正しいのだ。そしてわたしはいつの間にか正論に縛られていると感じるようになっていった。
以前はそうじゃなかったのだ。たくさんの時間を一緒に過ごし、話をしてお互いを理解して、そして抱き合って、わたし達は同じ時を生きていると思っていた。もともと表情の豊かな人ではなかったけれど、私の前では時々彼はその頬を緩めた。大好きと言えば不器用な笑顔を見せてくれた。
彼がそういう顔をしなくなったのはいつからだったのだろう。
それははっきりと思い当たる。一が就職をしてからだ。あれ以来全てが変わったような気がしていた。
わたしに比べ、彼にとっての自由な時間は驚くほど減った。大学生の頃に好んで着ていたラフなシャツやジーンズがビジネススーツに変わった。長かった髪が少し短くなった。そして彼はいつの間にか自分の、というよりそれよりももっと大きな社会のスケールというようなものでだけ、物事を測るようになったと私は感じた。
笑うと綺麗な青い瞳が少し細まって、形のいい唇の両端が僅かに上がる一の、大好きだったその顔をもうどのくらい見ていないだろう。
小さな諍いのたび、彼は忍耐強く私を諭した。でもその挙句に意地になって拗ねた口を利いたり睨みつけたりすれば、やがて口を閉じ貝のように黙りこむ。
一が一度だけわたしを冷たく見下ろしたことがある。あの時の声の響きを憶えている。彼はわたしにこう言ったのだ。

羨ましいやつだな。

あの時、わたしの中のどこかが凍りついた気がした。
いや、一度じゃない。二度目だ。
さっきの一の目もあの時と同じだった。

「ねえ、どうするのさ。やめとく?」
「……飲みに、行く」

沖田君は私の答えを聞いて満足気に笑った。





口にしたカクテルに私は酔えなかった。正確に言えば酔ってはいたと思う。
沖田君の行きつけのショットバーで、本来は飲めばふわふわと気持ちがよく楽しくなる筈なのに、心地よい酔いなんて一向に来てはくれず、心の中に何かおもりのようなものが詰まっていて、グラスに口をつければつけるほどそれが重くなっていく。
バーテンダーの背後の棚に置かれた金色の時計の針は、午前一時を過ぎていた。
ふいに一のことを思う。彼はきっとまだ眠っていない。
時計を見つめにわかに落ち着きをなくす私を、沖田くんが覗きこんでくる。

「なに、もう帰りたい?」
「うん、ごめん」
「じゃ送ろうか」
「…………ううん、いい」
「電車、もうないけど?」
「わかってる。ごめんね」

アルバイトで稼いだなけなしのお小遣いだ。だけどタクシーを使っても独りで帰らなきゃいけないと思った。
帰り着いた部屋は、玄関に小さい灯りが一つ灯るだけで、しんと静まり返っていた。
リビングから寝室に続くドアをそっと開けば、一の身体の形に盛り上がったベッドがあり、それは微動だにしない。
一はきっと眠ってなんかいない。けれどその静寂は、彼がどれほど怒っているのかを静かに伝えてくるようだった。
だけど。
その時の私にはどうしたらいいのか、よくわからなくなっていたのだ。そこにあったはずの何もかもが、見えなくなっていた。



This story is to be continued.




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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