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Lies and Truth


夜更けのベッドで短い夢を見て、固く閉じていた目を開けた。俺を呼ぶ声は夢と違っていた。
尖った三日月の落とす薄青い光をやけに明るく感じる。闇が月明かりを凌駕すればいい。意識を無にした眠りに落ちてしまえたら、その方がいっそ楽ではないかと詮ないことを考える。
だが心の反対側で夢を見たいと望むのは、ささくれたこの乾きに水を与えられるのにも似た刹那の癒やしが欲しい為で、強欲かもしれぬと思えどそれさえも許されぬとしたならば、戒めた身がどうして生きてゆけるというのだろう。
頭の芯がずきずきと鈍く傷んだ。少し酒を過ごしたようだ。
「はじめさん」
左隣りから呼ぶ声が、戻れない道を己が歩いていると教える。隣に横たわるのが何故彼女ではないのか。
覚醒すれば儚い幻は霧のように跡形もなく消えるのだ。夢は所詮夢に過ぎない。これが現実だ。




一は元々無口だけれど、その日はいつも以上に口数が少なかった。ばったりと鉢合わせた社食で、自然と一緒になって昼食をとっていたら、少し遅れて総司がやって来たので私はとてもホッとした。けれどそれもつかの間、ストンと腰を下ろすなり箸を取った総司の放った明るい一言が私をひどく打ちのめした。
「婚約したってほんと、一君?」
「……本当だ」
やっとのことで作った笑顔がどうしようもなく引き攣って誤魔化しが効かなくなりそうで、私はまだ半分も食べていないトレーを持ち上げて椅子を引く。ガタッと不自然に大きな音が鳴った。
「へえ、おめでと。ってちょっとナマエ、どこ行くの」
「頼まれてた急ぎの資料、作るの忘れてた。ごめん、お先」
私を振り仰ぐ総司。だけど向かい側の一は表情を変えずに、綺麗な箸使いで定食の魚をほぐしている。
「貧乏症だね。そんなの若い子にしてもらえばいいのに」
「ナマエ、食事は三食きちんと……」
「わかってるってば。でもファイル、私のPCの中なんだもの」
一の声に被ったの、少しわざとらしかったかな。言い方が可愛げなさすぎたかな。総司は笑って「まあ頑張ってね」と手をひらひらさせたけど、どうせ一は顔を上げないし、その表情は見えない。
「言い忘れちゃった。……婚約おめでとう、よかったね、一」
「……ああ」
一はすっきりと伸びた正しい姿勢を保ったままテーブルの自分のトレーを見つめていた。
努力でなんとか再びの笑顔を作ると「二人はごゆっくり」と言って社食を出て、真っ直ぐに屋上に向かう。ちょっと気持ちを落ち着けなきゃと思った。
会議の資料が必要なのは本当だ。でもそれほど差し迫ってたわけでなく月曜の朝までに揃えれば良いもので、総司の言うとおり後輩達に割り振れる類いの仕事でもあった。私はいつからかこうして小さな嘘をよく吐くようになった。
私も一応は女子社員にカテゴライズされる身、一や総司本人達の知らない噂話もしばしば耳にしている。一に恋人がいることも、婚約の噂も聞き知ってはいた。だけど本人に聞いたわけじゃないからと考えないようにしていた。だからあれ以上は聞きたくなくて。自分の中で単なる噂として片付けていた情報の裏付けなんて私は欲しくなかったのだ。
一と総司はそれぞれ企画部と営業部のスペシャリストで、しかも揃って容姿がずば抜けて整っているせいか、女子社員の間では知らない子がいないほど有名だった。私は二人と同期で、入社すぐの長い研修を三人で受けてからすっかり意気投合、というと語弊があるけれど、部署が違ってもそれなりに何となく仲の良い友人関係を続けてきた。
隠然と人気のある一はクールで社内の女性には無関心、言い寄る子は一刀両断に瞬殺した。一方の総司は一見人懐こいけど次々に押し寄せる女の子をのらりくらりと躱し、絶対に特定の誰かのものにはならない。そういう彼らのファン達は常に牽制しあっているけれど、男勝りな総務のお局候補の私はどういうわけかその攻防の輪から完全に除外されている。実際に私達三人の関係は入社以来5年、色っぽいことなんてまるで起こらなかったのだ。
あまり女性らしいと言えない性格なのは自分でも認める。入社直後は可愛いと言われたこともあったけれど、いつの間にか化粧も最小限、パンツスーツしか着なくなった。
私達の均衡は私の密かに秘めた想いを誰にもただの一度も漏らさなかったから保たれていた。それはこの先も変わることがないと思い込んでいたけど、そんな嘘っぱちは薄氷の上に乗っかっていただけだと今初めて思い知る。




こんなことでもなければまだ続くのかなと僕は思ってた。だけど危うい関係がいつか壊れるなんてのは定石で、それがたまたま今だっただけのことだ。
高校時代に剣道部でマネージャーをしてたあの子。千鶴ちゃんて言ったかな。一君とあの子の関係は長い。そして少し複雑だ。
そのへんの詳しいことを知ってたのはその頃からの腐れ縁の僕だけで、今の会社の人達はもちろんナマエだってこれまで知らなかった筈だ。
一君の事情はこの際どうだっていい。でも結婚なんて笑っちゃうくらい突拍子もないことを本当にしようっていうんだからね、そこそこ親しい付き合いの僕達に真っ先に報告しないなんて水くさいにもほどがあるじゃない。他で小耳に挟んだ時は流石の僕も驚いた。でも一君が年貢を納めるって言うんならそれはそれでとってもおめでたいことだよね?
昼休みの後、てっきり総務部のデスクかコピー室のどっちかにいると思ったナマエの姿を見つけることが出来なかった。
午後からは客先に出向いて商談をひとつ済ませ、その会社が無駄に大きかったものだから帰り際にうっかり迷って、給湯室みたいなとこを通りかかった僕の耳に気になる話が飛び込んできた。それは聞き覚えのある声だったんだ。これは本当に稀有な偶然なんだけど、この日の客先は一君の婚約者の勤務先だった。なんてタイミングだろうと思わず笑いがこみ上げた。
帰社の途中にかけた電話にナマエは出なくて、何度かけても虚しくコールは途切れた。こんなことは初めてで、僕は少し焦る。応答のないスマホが胸ポケットに戻すなり震えて、やっと繋がったと期待して取り出せばそれは営業事務の女の子からのラインで、くだらない合コンのお誘いに無性に苛ついた僕はいつものように既読スルーをした。
今日の昼休みに一君とナマエがいたテーブルにわざわざ同席してあの話をしたのは気まぐれなんかじゃない。はっきりと意思を持って僕の口から一君の婚約をナマエに知らせるつもりだった。その時に一君が、そしてナマエがどんな顔をするのか、僕はそれを知りたかったんだ。




総司からの着信を無視したつもりじゃないけど、手が離せない時だってあるし、正直気が進まない時もある。だけどライン通知を知らせるバイブで何度もしつこく振動したスマホがついに机の下に落ちた時は、一体何事なんだと開いてしまった。
スタンプ爆撃。
トーク画面を見てイラッとした私は尚も送られ続けるスタンプについに我慢の限度を超え、右下の受話器マークをタップした。あとから数えたらスタンプは33個送られてきていた。
電波の先の声は少しムッとしている。
『午後何してたのさ』
「仕事だけど? それよりスタンプうるさいんだけど、なんの嫌がらせ?」
『ナマエが電話出ないからでしょ。それより今夜暇だよね? 飲みに行こう。もう出られる? どこにする?』
「は?」
しれっと笑う総司の悪びれのなさに私は思わず脱力する。どうして暇と決めつける。事実予定はないけれども。それにその流れ、どうして私が行く前提なの。まあ、結局は行ってしまったんだけれども……。
そうして私は今、総司お気に入りのバルのカウンターに彼と並んで座っている。
「一君も誘ったんだけど」
「……そう」
「予定あるって。金曜だからかな」
意味深な言い回しをした総司は、ピンチョスをつまみ上げミニトマトを無造作に口に放り込むと、小さな皿の上で分解した生ハムの切れはしとブラックオリーブをピックでつついたり転がしたりしている。見るともなくその仕草を眺めていれば、オリーブをぶすりと刺したピックをこっちに向けた。
「食べる?」
「いらない。肉が食べたい」
「食べれば」
「メニューちょうだい」と差し出した手にパサと載せられたそれを開き「ローストビーフ……牛タン、どっちにしよう。リブロースのグリル美味しそう」とパラパラめくれば「肉食」と言いながら、総司はまだオリーブを弄っている。彼はもともと食が細い。お酒を飲むときは特にあまり食べないみたいだ。
「ねえ、ナマエは一君の彼女と面識あったっけ」
「…………ないよ」
ジョッキのビールをごくごくと流し込むと「飲み方が男前だよね」と言ってクスクス笑う。そうして持ち上げたピックの先のオリーブを赤い舌でぺろりと舐めた。
「女の子ならさ、もっとワインとかカクテルとか、何かあるでしょ」
「もう女の子じゃないもの。ビールが好きなの。あと日本酒」
「それほど強くないくせに」
「…………ねえ、総司。なんで急に飲みに誘ったの?」
「別に? 僕も暇だったから」
「あ、そ」
「ほんとは一君の婚約パーティーでもって思ったんだけどね」
「嘘ばっかり」
そう言うと総司はスッと翡翠色の瞳を細めてから、フンと鼻を鳴らした。私はジョッキに残ったビールを飲み干す。
私の話し方、不自然じゃないかな。ちゃんと誤魔化せているかな。こう見えて総司は人の心の機微に敏感だ。
「ビール、おかわり」
「何杯目? 自分の分、払ってよね」
「ケチ! なにさ、トップ営業! 高給取り!」
「そっちこそ貯めこんでるんでしょ、お局様」
「枯れててすみませんね!」
うん大丈夫、私、いつも通りにやれてる。総司といる時は気が楽だから。
「年収で言えば僕より一君の方が稼いでるよ」
「……そう?」
一の名前が出るたびに勢いの落ちる私に気づいてるのかどうなのか、総司はまたくすりと笑い翡翠色を細めてオリーブを口に入れ、小ぶりのグラスを持ち上げた。
彼の瞳の色と同じ澄んだグリーンのお酒に、アロマティックビターとシロップを垂らしたそれはほんのりとパステルがかったグリーンに変化する。グラスに唇をつける総司の横顔はなんだか見たことのない人みたいに見えて、何でだろうほんの少しだけ淋しげに見えた。それはきっとややヤケクソ気味に早いピッチで生ビールを飲み過ぎた私の、いつもよりもアルコールの回りが早いせいだと思う。見慣れないその表情をついじっと見つめてしまった。





「そうじ……」
「もう、三人ではいられないね」
総司ってこんなに綺麗な顔をしてたんだな、なんて酔った頭は場違いなことを考える。
だけど眠くて。とても眠くてたまらない私は、夢と現実の境目を漂っている気分で、至近距離で揺れる翡翠色と肩越しの天井クロスをぼんやりと見つめた。
「そうじ……?」
「元々、おかしかったんだ、こんな関係」
薄い唇は重なる直前にそう言った。





――全文は年齢条件を満たす方のみBehind The Scene* にて閲覧ください――





仕事が立て込んでいた為昨夜の誘いは辞退した。休日にしては早い朝と言える時間に一人でオフィスにいた俺のところへ、昨日と同じ服装で顔に疲れを貼り付けた総司がやってきた。
「何か急用か。昼には終わる故、待……、」
「一君の人生ってくだらない。それで責任をとってるつもり?」
何か話があるのだろうとは思ったが、俺を遮り前置きもなくあまりにも唐突に投げつけてきた言葉を、どう受け止めればよいのかわからなかった。
俺と総司は長い付き合いだ。高校時代に同じ剣道部に所属していた頃からもう10年程になるだろうか。
総司の言う責任とは、恐らく当時の話だろうとそのことだけはすぐに思い当たる。ある時に部活中に起きた事故で、当時の女子マネージャーが足に小さな傷を負った。負わせたのが俺だった。
「何が言いたい」
「あの頃からみんな知ってたよ。あんなの一君の気を引く為にあの子が自ら仕掛けただけだって」
「…………」
「ついでに言えば、あの子のお腹に一君の子供なんていないよ」
「…………」
「驚かないの」
「…………ああ」
「まさかの実は知ってたってオチ? 浮気も?」
又聞きではなくそれはまさに昨日、本人の口から出たのを耳にしたのだと総司は言った。
俺にしてみれば知るも知らぬもない。愛情のない行為は虚しいだけだとわかっている。だから長い間指一本触れることをせず、請われて初めて同衾したあの夜も事は成らなかった。
妊娠に繋がる行為が一度もなくそれでも子を孕んだと言われれば、それが意味するものは一つしかない。だとしてもそうさせたのは俺の煮え切らぬ態度が原因だと思っている。つまりは全てが俺の責任なのだ。
「一君があの子と付き合ってるのって誠意より自己満足に見える。君もあの子もどっちも滑稽だ」
核心をついた物言いに鼻白んで見返せば、その表情は揶揄でも蔑みでもなく、憐れみのようでもなく、言うなれば悲しみの滲んだような色をしていた。
「嘘吐かれてもわかってて言いなりに結婚? むしろ一君のそういうところが傷つけてたりするんじゃない?」
「…………」
「感情が動かないのは端から愛がないって言ってるのと同じ。でも君は本心から目を逸らしてるだけ。君がそんなふうだから、だからみんな……だから僕は……」
「何の話をしている?」
「君なんかと話しても無駄だよね」
総司は一方的に捲し立て、最後に吐き捨てて荒々しくオフィスを出て行った。
だから、何だ?
彼の真意を測りかねながら仕事を続け、だが考え事に占められた頭はいつしか一つの答えを導き出す。総司の話は俺の婚約についてのようでいて、恐らく本当に言いたかったのはそれとは別のことだ。
総司は俺よりも俺の心を見抜いているのか?そして彼もナマエを?
俺の足は昼前にはある場所を目指していた。
恋愛も結婚も、そういった事をまともに考えたことなどこれまではなかった。人との関わりによって乱される己の心に向かい合うことが煩わしかった。
あの事故を切っ掛けにして俺の人生は責任を果たすためにあるのだと割りきり、それ以上考えることを放棄してきたのだ。誰に強要されたわけでもなくすべて決めたのはこの自分だ。総司に愚かだと嘲笑われるのも致し方ない。
気づかない間に少しずつ胸に芽生えていた感情がある。無機質な心に時折与えられる微かな癒やしで、だが手に入れるなど叶うわけもないもので、だから望むこともしなかった。言わばそれは夜更けに見るただの夢だ。
感情が動かないのは、自分で自分をそう仕向けてきたからだ。総司の言うとおり俺は本心から目を背け、無意識に抑えてきた。
だが裏切りを知った今、これまでの自身に虚しさを感じる。その努力になんの意味があるのかと急激な葛藤が生じる。
あの夢を現実に出来るなら。一度だけ彼女に確かめたい。




昼近くなって目覚めた私は自分のベッドに横たわっていて、汗でべたつく不快感と寝覚めの悪さを味わっていた。着ていたシャツもスラックスも皺くちゃで、辛うじて嵌ったボタンは掛け違っていて、とんでもない夢を見た羞恥とお酒の残って痛む頭を抱えのろのろと起き上がれば、当然ながら部屋には私以外誰もいない。
這うようにバスルームに行ってシャワーを浴びながら、ふと右の胸の先端近くにそれを見つけた。それは真っ赤な鬱血痕で、つけた人は一人しか思いつかない。
多分本当はわかってた。あれが夢なんかじゃないことを。あの傷ついたような翡翠色の瞳が目の裏に焼き付いている。
薄氷はとっくに割れて私達はもうどこへも戻れない。危うい均衡なんて粉々に砕けてきっとこれで何もかも終わりなんだ。
濡れた髪から雫を垂らしたまま、Tシャツと短パンを身に着けて気だるい身体を引きずってバスルームを出れば、突然鳴り響いたインターフォンに肩がビクリと跳ね上がる。
総司が戻ってきた?
恐る恐るドアスコープを覗いた私の目に映ったのは総司じゃなくて、一だった。
どうして? なんで一がここにいるの?
昨日からのめまぐるしい色々に私の頭の中はショート寸前になる。少しの間息を詰めていたら、もう一度インターフォンを鳴らした一が拳でドアを叩いた。
冷静沈着が服を着て仕事をしてるみたいな一の、こんな顔を今まで見たことがない。ドア越しにもわかる余裕のない瞳が刺すように見ている。それでもまだ動けずにいたら一が再び拳を握った。
想像したこともない一の姿に暫く呆然としてたけれど、ちょっと待って、今って土曜の真っ昼間だよ。我に返った私は慌てて鍵を開ける。と同時に向こうから開かれる。新聞受けに落とし込まれていた鍵が金属音を立て、一が手をかけたドアをぐいと強く引いて素早く身体を滑り込ませてきた。
「……おはよう……どうしたの?」
心臓はどくどくと打っていたけど、あまりに真剣なその顔に気後れをして私は平静を装う。
「ナマエ」
次の瞬間、伸ばされた彼の腕に囚われた。私には自分の身に起きている状況がなかなか飲み込めない。
靴を履いたままの一に引き寄せられて、玄関の三和土の化粧タイルに落ちた素足の裏はシャワーを浴びたばかりでまだ湿っていたせいで、ざらざらととても奇異な感触がした。
「は、離して」
「少しだけでいい。このまま……頼む」
一は憔悴しきった様子で、しばらく私の身体を抱きしめていた。どうしていいかわからず身じろぎもできずされるがままの私の背を、きつく抱いていたその手がやがて撫で上げる。首の後ろから濡れた髪に五指を差し入れ、左手は頬に当てられた。青ざめたような顔で私を見つめる瞳は頼りなく揺れて、まるで縋るように私を見つめていた。
「俺と共にいて欲しいと言ったら、あんたは……」
「ちょっと、ほんとにどうしたの? ……何かあった?」
パンクしそうな頭の整理がつかないまま曖昧に笑って彼の手を掴もうとすれば、真剣な目で私を見据える一の指は私のささやかな抵抗にはお構いなしに頬から首筋へと移って、腕を撫でおろして私の指に絡ませて壁に貼り付ける。
一度もそんな素振りを見せたことがないのに急にこんなことをする一の心が読めなくて困惑する。
「待って、落ち着いて。あの、友達として話を……」
「友達……ではない」
「だって結婚するんでしょう? 彼女のこと、愛しているんでしょう?」
「……俺は」
「私を心配してくれてるの? それ、同情?」
「違う」
「一は優しいよね。だけど身勝手だ」
「そうだ、俺は身勝手だ。それが周りをずっと苦しめてきたのだとわかっている」
「……身勝手だけど、でもやっぱり一は優しい」
「優しさじゃない。俺はずっとあんたを好いていた。今頃気づいても遅いのか?」
私は目を見開いて、信じられない言葉を紡ぎだした唇を凝視する。それはずっと好きだった人からの夢のような言葉だった。手が届くなんて思っていなかったから、こんな想像したことのない場面ではどうしていいか本当にわからない。私は戸惑ってただ固まる。
「…………」
「ナマエを愛してはいけないか?」
ずっとずっと、一を好きだった。彼の絞り出すような切ない声を拒絶しきれずに流されそうになりながら、でも私の口からは心と裏腹な言葉がこぼれだす。
「何言ってるのかわかんない……不倫なんて私は御免だよ」
「違うのだ、俺は……」
痛いくらいの力で両肩を掴まれて、一の整った顔がぐいと近づく。あと少しで唇が触れそうな距離で私は僅かに顔を背けた。一は動きを止めてその相貌を苦しげに歪める。
「もう、帰って」
「ナマエ」
こんなふうに名前を呼んで欲しかった。そう願ってきた。それなのにどうして受け入れることが出来ないんだろう。
「でもそういうとこ、初めて見せてくれて嬉しかったよ」と呟けば一は俯いた。長い睫毛が濃い影をその引き締まった頬に落として、彼のそんな表情が切なくて胸が痛んだけれど、私にはどうすることも出来ない。上辺の思いやりなんてきっとこの人も私をも救ってはくれないんだ。
「すまない……」
肩にある彼の手を外そうとすれば、一も我に返ったみたいに手の力を抜いた。
「もっと早くにあんたと出会えていたら……」
「…………」
そうだったらどうだったのだろう。一と私は恋人になれていたのかな。
でも何かが違う気がする。
私にはやっとわかり始めていた。
いつだってどこか息をつめる気持ちで私は一を見ていた。本当に好きだったけど、でも一を見つめることは辛くて苦しくて、しんどかった。好きなのに重ねられない想いってあるのかもしれない。
だけどそんな緊張をいつも溶かしてくれていたのが総司で、あのシニカルな口調や悪戯っぽい仕草に私はいつもいつも怒ったり呆れたり、キーキーと文句を言ったりしながらもそれでも総司といる時には一番自然な自分でいられて、だから彼の存在にずっと支えられていた。
「総司か」
「…………、」
「あんたは総司を……」
総司を愛していると、一を前にしてはっきりと自覚した。だけど、今気づいてももう遅い。総司は出て行ってしまった。
私の目から意図せずに涙が零れ出る。側にいてずっと見つめてくれていたのに、大事なその人に気づけなかった罪深さはこうして悲しみの形となって残される。
今更なのは私も同じ。
一は痛みを滲ませた目を一度伏せて、そうして目を上げて静かな声で言った。
「俺もあんたも、正面から自分と向かい合わねばならんな……」
「…………」
「あんたは総司といるのがいい」
「……そんな虫のいいこと、」
「だがあいつは」
その時、大きな音を立ててまたドアが開いた。飛びあがるほどに驚いて振り返れば、コンビニ袋を片手に提げた総司がそこに立っていた。
息を呑む私を無視して低い声で「それ以上言わなくていいよ、一君」と言って、一の肩を引く。苦笑した一が身体を横にして総司を通せば、大きな手が伸びて来て私の腕が掴まれ強い力で引き寄せられる。




そして総司と私は二人きりで残された。総司は一をしばらく見送っていたけど、彼の姿が消えると先に立って部屋の奥に入っていって、無表情でソファに座る。私はいたたまれないような身の置きどころのないような気持ちで、さっきから同じ場所に立ち尽くしていた。
「朝も食べてないでしょ。昼ごはん買ってきた。ナマエは焼き肉のおにぎりね、肉食だから」
「……あの、総司、」
チラとこっちを見て、そうしてプイと向こうを向いた総司がコンビニ袋の音をガサガサとたてながら、リビングのテーブルに並べていくのはいくつかのおにぎりと、ペットボトルのお茶と、プリンや袋のお菓子みたいなもの。それとは別の袋から取り出してコトリと置かれたのは胃薬と二日酔いの薬だった。
「頭痛いんじゃない。昨日のこと、少しは悪いと思ってるけど僕は反省なんかしないよ。君の方が悪いんだからね」
総司の乾いた声に何て応えたらいいのかわからないけど、とりあえず何か言わなきゃと焦る私はしどろもどろに言葉を押し出す。
「……私、ずっと何も気づかなくて……ごめんね。嫌われても仕方ないよね……」
「は?」
「だけど、傷つけるとかそんなつもりはなくて、私……」
総司は動きを止めて目を見開いて私を見た。
「片想いで、いい。これからは私が、総司のこと、追いかける……」
「ねえ、まさかと思うけど、僕が好きじゃない子を抱く男だって本気で思ってるわけ?」
「え?」
「ナマエってどうしてそんなに頭悪いの? なんでわからないの? その言い方、ものすごく心外なんだけど。ほんっとに感じ悪い」
「は?」
総司はソファから立ち上がると、玄関に立ち尽くしたままの私のところに大股で戻ってくる。そうして私の手を引いた。
「だいたい君って素直じゃないよね。僕を好きになったならそう言えばいいでしょ。イライラするなあ、もう!」
「はあ?」
「僕は最初から……きっと明日も明後日も、ずっとね。多分嫌いになることなんてない」
「……総司」
「わかったの? まだわかんないなら、わかるようにしてあげようか、もう一回?」
総司は口からポンポンと飛び出す憎まれ口とは裏腹にとても優しい手つきで私に腕を回し、抱きしめて包み込む。一度乾いた涙がまた私の頬を流れてきた。
「うぅ……っ」
「なに、泣いてんのさ」
「う……、大好き、総司……」
小さな声でそう言えば、長身の腰を少し折るようにして私の首に顔を埋めた総司がふうと深い息を吐いた。そして聞いたこともないような声で「うん、僕もだよ」と言った。それがすごく切なくて甘くて優しい声だったから、私はもう何も言えずに総司の胸を濡らし続けていた。




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE