ブランニューデイ
恋なんてたいてい他愛のないきっかけで始まって、その間はどんな脳内物質が出てるのか無意識に盛り上がってしまうものだ。あの頃の僕はまさにそんな感じで、流行りの風邪なんかとよく似てるそれにうっかり罹患して、否応なしに踊らされる羽目になった。
でももしも誰かに彼女のどこを好きだったの? 本当に好きだったの? なんて聞かれたりしたら、案外答えられないかも知れない。後になれば憑き物が落ちたみたいにばかばかしくなった。あれはもしかしたらただの嫉妬、或いはコンプレックス。そういうものに近かったのかもしれない。はじめ君に? それとも彼女に?
ほんの少しだけ切ないような感覚が心のどこかに残りはしたけど、それもどうせ単なる感傷できっとそのうちに消えていく。結局のところ恋なんて僕にはまだよくわからないし、やっぱり面倒くさいシロモノだ。なくたって僕の毎日は十分に楽しい。
そんなふうに考えようとしてた。
ナマエと出逢うまでは。
今日ものどかな地上界でパトロールとは名ばかりの散歩中。賑やかな休日の繁華街、アーケードで欠伸をしながら歩く僕の目を引いたのは。
「総司、そろそろ帰んぞ」
「ちょっと、平助、見てよ。メロンクリーム味だって」
「は? メロン? 今日は定例会議だろ。もう戻らねえと時間、」
「プレリリースだよ。味見しようよ」
カフェの店頭にちらっと見えた、新作フラペチーノ試飲キャンペーンの看板に僕の心は奪われた。
「遅刻するとまた土方さんの雷が落ちんだろ」
「じゃ平助は帰れば。僕はパス。土方さんにうまく言っといてよ」
「ええ、勘弁してくれよ、総司い!」
先を急ぐ平助から身をかわせば、紛れた人混みの中から情けない声が聞こえてきたけど、僕はいつもここの新作を楽しみにしてるんだから仕方ない。
差し出された小さなプラスティックのコップには太い緑色のストローがささっていて、どうやらそれは最後の一つだったみたいだ。うわ、危なかったとそのコップを受け取る。その時、横から僕とほぼ同時に伸ばされていた手。その手は小さくて白い手で、だけど思いのほか強い力でフラペチーノのコップを持った僕の手首をぐいと掴んだ。
「それ、わたしのなの」
「なんなの君……」
「並んでたんだから」
手首を取られムッとして手の主を見やった僕は、瞬間冷凍されたかのように固まった。
「君……なまえ……ちゃん?」
彼女は僕の手から難なくフラペチーノを取り上げた。呆然として逆らうこともせずに僕は固まったまま。ふいと踵を返した彼女はあっという間に僕の視界から人並に消えた。
「すぐに新しいものをお持ちしますから」なんて背後でお店のスタッフが慌てたように言ってる声は耳を上滑りした。
「あれから大変だったんだぜ! 総司のせいだかんな! ちゃんと手を動かせよな! 土方さんもさあ、遅刻のペナルティがトイレ掃除とか中学生かっての!」
僕はその夜いつのまにかHEAVENの神殿のトイレにいて、平助に持たされたブラシと洗剤に目を落としやっと我に返る。
あ、ほんとだ。こんなことやってる場合じゃない。平助を一度見やり「君は身長が中学生じゃない」と言えば顔を真っ赤にして「はあ!?」とわめいた。手にしたものを放り出せば「自由すぎんだろ! 総司!」と平助は背後で叫んだけどごめん、今だけはほんとにごめん、僕は確かめなきゃいけないんだ。確かめずにいられない。
まあ、十中八九違うだろうとは思うんだけど。なまえちゃんは間が抜けてて、他人の物を奪うというよりはどっちかといえば奪われる側のタイプだった。
『え、今日ですか? 今日は一日中はじめさんと一緒で……』
「そう。そうだよね」
スマホの向こうで困惑した声を出すなまえちゃんに代わって、今度は憮然としたはじめ君の声が聞こえてきた。
『なんの用だ、総司』
「今日もべったり仲良くふたりで一緒にいたんだね。それならいいんだ」
『……?』
当たり前だろう、意味がわからないと言わんばかりに黙ったはじめ君。終話ボタンをタップする。これであれが他人の空似ということははっきりした。
だけど。
僕からカンタロープメロンを奪ったあの子は、今思い出してもまるで生き写しみたいになまえちゃんにそっくりだった。
再会は思ったより早くにやってきた。
「君……、」
「…………」
あの日と同じ街。黄昏どきを過ぎたショットバー。
あれから僕はこの街ばかりを歩いてた。いつもなら誰かを呼び出してるか合コンをしてるかそんな感じで楽しく過ごしてるはずの時間だけど、ここのところはなんとなくそんな気にもなれなかった。初めてのこのバーに入ったのは全くの無作為で、独りで考え事をしたいっていう、その程度にはあのことが気になっていたせいだ。
綺麗な後ろ姿の女の子が独りでカウンターに座ってたから、二つくらい間を開けたスツールに近寄って、軽い気持ちで彼女の方を見た。細身のジーンズにハイヒール。少しだけこっちに向けられた顔を見て僕は目を見開く。まさかここで会えるなんて思わなかった。
服装からも雰囲気からも、この子がなまえちゃんじゃないことはもうわかってる。でももう一度会ってみたいって、別に恋とかそういうわけじゃないけど、頭の隅でとにかくずっと気になってたから。
だけど彼女の口調はすごくよそよそしかった。
「誰?」
「……僕、憶えてない? ほら、この間カフェで……」
「さあ」
その反応に意表を突かれつつ僕は気を取り直して、彼女の隣に腰掛けた。ちらりと視線をよこしただけで彼女はいいとも悪いとも言わずにまた前を向く。まるで無関心とでも言うように。女の子にこういう態度って、正直僕はこれまであんまりされたことがない。
彼女の前に置かれていたのはごくごく小さくて細長いワンショットグラスで、中の酒は無色透明。それに並んだチェイサーはトニックウォーターなのか僅かな気泡を上げている。そしてそれは全然減ってない。この子はお酒に強いようだ。
「それなに? 僕、同じのにしようかな」
「スピリタス……」
「ストレートで?」
彼女はおもむろに煙草を取り出した。
この子、煙草まで吸うんだ?
それにもまあ驚いたけど、それより何よりスピリタスって確か90度以上あるかなりやばい酒じゃなかったっけ。
「冗談でしょ。口が火事になるよ」
「ナンパ目的のお子様はやめといたほうがいいかもね」
「お子様って誰のこと?」
「メロンクリームがお気に入りの」
「なんだ、やっぱり憶えてるんだ。て言うか、それなら君だって同じでしょ」
彼女は皮肉っぽい笑みを片頬に乗せてちらっと僕を見る。自分で言うのも何だけど、僕はモテないわけじゃない。なんだか見下したようなその横目が腹立たしい。
バーテンダーが僕の前に静かにショットグラスを置いた。一呼吸してからそれを持ち上げれば咽るような強いアルコールが鼻先に香る。
目を閉じてスピリタスのストレートを流し込めば、少量の液体はまるで喉から食道までをじゅっと焼くような痛みさえ感じさせて胃に滑り落ちていった。顔を顰めた僕をみて彼女は声を上げて笑う。笑いながら僕に向かってトニックウォーターのグラスを指先で押した。なに、その態度。
また腹が立ったしすごく不本意だったけど、涙目になった僕はそれを一息に飲みほした。
「無理しなくていいのに」
「あのさ、コホ……、なんかバカにしてる?」
「これ、ほんとはズブロッカ」
「は?」
「負けず嫌い。やっぱりあなた、子供じゃない」
「…………」
指先に挟んだ細い煙草の吸い口を唇につけ、そうしてから顔を少し背けて紫煙を吐き出して、彼女は自分のグラスを指差した。
ほんとに何なのこの子。
大体見たとこ年は僕と同じか少し下くらいでしょ。そう言いたかったけど僕の喉からはコホ……ともう一つ小さく咳が出ただけだった。
向き直って見つめればやっぱりなまえちゃんとよく似てる。それはもう見れば見るほど。ただし顔の造形だけ。話し方や仕草は随分違ってる。こんなにそっくりな顔をしていながら中身はまるで違う。正反対といってもいいくらいに。僕が言うのもなんだけどちょっと意地悪でシニカルで、スレてるって言うわけじゃないけどどこか醒めた口調と無表情。無表情がデフォルトの友人は一人いるけど(つまりそれがなまえちゃんの彼氏だけど)もちろん彼とも違ってる。
僕の頬にも知らずに笑いが上ってくる。テンポのいい会話は楽しい。今までに会ったことのないタイプの女の子だから、なんだか面白いような気分になってきたんだ。
「なんて名前なの。僕は総司」
「ナマエ」
「ナマエちゃんていうんだ……ふうん、いい名前。君にぴったりだね」
「これナンパなの?」
「いけない?」
「別に」
「君、性格悪そうだけど顔が僕の好みなんだよね」
そう言うとナマエちゃんは一度目を見開いてから、ものすごく不快そうな顔をした。
その日以来、ぽつぽつと時間が空けばそのバーに行った。そのうちLINEを交換して僕のオフの日は待ち合わせをするようになった。直に会うよりもLINEの時の彼女はスタンプなんかいっぱい使って結構人懐こいんだけど、実際に会えば全然好意的に見えなかったから、なんで付き合ってくれるのかはよくわからなかった。だけど彼女はとりあえず僕の誘いを一度も断らなかった。
僕のほうは初めのうちどこか無意識になまえちゃんの面影を追っていたところがあったかもしれない。でもそんな感傷はすぐに、本当に呆気なく薄れていった。
僕が合コンに誘わなくなったから山崎くんあたりはガッカリしてるかもしれないけど、そんな遊びよりもナマエちゃんと飲んでる方がずっと楽しい気がした。どこからか「何ふざけたことを言ってるんですか。俺がいつ誘ってくれと言いましたか。冗談じゃない」なんて聞こえてくる山崎くんの苦々しげな台詞も僕にはもうどうでもいい。
今日のナマエちゃんはいつにも増して一段と機嫌が良くなかった。いや、最初はそうでもなかったんだけど。
このバーで初めて会った日にどうしてナマエちゃんに声をかけたのか、その理由を話せば呆れたような顔をして、酒の肴に僕のお粗末な失恋物語を話して聞かせたら途中から向こうを向いてた。
「それが前から話に出てくるなまえちゃんて子のことなの? バカじゃない」と彼女は冷たく吐き棄てた。
「ひどい言い草」
「だって恋愛なんて三人でするものじゃないでしょ。普通は二人でするものでしょ」
「……なかなかいいこと言うね」
何を言っても反抗的でとても聞き上手とは言えない彼女だけど、そのときの言葉は思わず動きを止めるほど僕の心に染みた。じっと見つめれば彼女はハッとしたように口を閉じてまたそっぽを向く。柔らかそうな髪から覗く耳たぶが少し赤く染まってたから、何気なく指先で触れると「やめてよ!」と今度はすごい勢いでこっちを振り返る。
実際にこの子の顔は可愛いんだ。でもいつになく真っ赤になったその顔はもっと可愛くて僕は目を瞠る。こんな表情は初めて見た。
くすくすと漏れる笑いを我慢しないで横目で伺えば、ナマエちゃんはぷりぷりしながらズブロッカの入ったショットグラスを綺麗な唇に当てる。それを見ながら僕も同じものを口にする。いつのまにかこの時間は僕にとって一番の楽しみになっていた。
「お腹空いてるんじゃない? そのイライラ」
「……ムカつく」
「何か食べればいいでしょ」
「お酒飲むときは食べないの」
「ふうん、僕と同じだ。そう言えば君って料理が出来そうな顔じゃないよね」
「前から思ってたけど、あなたって本当に失礼だよね」
「君ほどじゃないと思うけど?」
「……出来るよ、料理くらい」
「へえ。なら証拠見せてよ」
「証拠って?」
まだそんなに酔ってたわけじゃないけど、そんなやり取りがきっかけになって、僕はナマエちゃんの部屋に来ていた。キョロキョロと見回せば一人暮らしの彼女の部屋は綺麗に片付いていて、いつもの印象とは違う行き届いた女の子らしさを感じた。
整頓されたキッチンに目をやればどこかで見たことがあるなと思う。そうだ、これってはじめ君のキッチンと似てるんだ。調味料もたくさん揃っている。
別にほんとに疑ってたわけじゃないんだけど、ナマエちゃんはちゃんと料理をしてる子なんだと改めて納得した。はじめ君の彼女を思い浮かべて思わず可笑しくなった。
「で、何が食べたいのよ」
「……こんぺいとう?」
「ねえ……、怒らせたいの」
「違う。本当に食べたいものを言ったら、きっと君はもっと怒るから」
「…………」
ジュージューと何かを炒める後ろ姿を見ながら15分も経った頃、ネギが嫌いと言ったのに山ほどのネギの入った炒飯が出てきた。「いきなりだったから食材があんまりなかったのよ」と小さなテーブルの前に座った僕の前にそれがコトリと置かれる。立ち上る湯気はたしかに美味しそうな香りを立ててるけど。
…………ネギ。僕はちょっとだけ白目になる。
「…………」
「食べて」
「…………これ、どれだけネギ入ってるの」
「一本」
「…………」
「食べないの?」
彼女の視線に負けて覚悟を決め、僕はスプーンを取った。言っておくけど、これがほかの誰かの作ったものなら僕は絶対に口にしなかったと思う。
ネギのたっぷり入った炒飯を掬って口に入れて、目を閉じて咀嚼すれば……あれ、意外にも美味しい。
自分でもびっくりするほどあっという間に僕のお皿は空になった。こんなにネギを食べたのはこれまでの人生で初めてだ。
カチャンとスプーンをお皿において「ご馳走様」と言えば、ナマエちゃんは形のいい唇の端を上げかけて、だけど僕の次の言葉で急に頬を強張らせた。
「驚いた。同じ顔でも随分違うんだね」
「総司、」
「……え、」
急に名前を呼ばれて僕はどきりとした。上目遣いで見上げる彼女は腹が立つほど可愛い。
まったく腹が立つな。そういうの、反則だと思うんだよね。
「わたしはわたし。ナマエだよ」
「うん」
いつもと違うなんだか思いつめた目を見てたら僕の身体は勝手に動いて、彼女の指先に挟まっていた吸いかけの煙草を取ってテーブルの上の灰皿に揉み消していた。「……ちょっと、」と声を上げる彼女の手をテーブルごしに掴む。引き寄せられるまま僕の腕に収まったナマエちゃんは、それでも素直に胸に顔なんて埋めないで反抗的な目つきで僕を見上げてる。
「ナマエはナマエだよ。わかってる」
「わかってないよ。まだ、その子のこと、好きなんでしょ」
「は? まさか」
「…………ならもう、彼女の話、聞きたくないんだけど」
「……もしかして、ヤキモチ?」
「うるさい、バカ!」
ナマエちゃんが僕の腕の中で僕を睨み付ける。愛しくてたまらない気持ちになる。だからそんな目で見ないでよ。
もうずいぶん前からわかってたよ。
僕としたことが、全くの心外なんだけどね、君のことを、ナマエちゃんのことばっかりを考えてた。
そうだね。君にはちゃんと説明をしてなかった。だって、僕自身だってそれを理解したのはごく最近だ。
そうなんだ。いつのまにか君のいる明日が、まっさらな明日が僕にとって楽しみで仕方のないものになっていた。
この気持ちはあの頃の痛くて苦しかったあの感じとは似ても似つかない。なまえちゃんのことは今となれば不確かな思い出で、あれを恋とはもう呼べない気がしたし、他愛ないきっかけで始まって知らない間に盛り上がるそれが恋かどうかなんて、そんな理屈はこの際もうどうだっていい。
ナマエちゃんをすごく好きになっちゃって、今の僕は君に夢中になっている、確かなのはそれだけ。
あの時とはっきりと違うところがある。目の前にナマエちゃんがいて、ナマエちゃんの前には僕がいる。僕の心にはナマエちゃん以外の誰かが入る余地なんて1ミリもない気がする。これは当たり前のようでいて、結構大事なことだと思うんだ。
恋愛は三人でするものじゃない。二人でするものだ。
君の言った通り、つまりはそういうことだ。
覗きこめば拗ねたみたいに尖らせた唇に「君だけだよ」って触れたら反抗的な目つきのままのくせに目元を真っ赤にする。なにそれその反応。君って本当に反則だよ。
回した手で彼女の頭の後ろを押さえて僕の胸に押し付ければものすごく切なげな声が胸元でくぐもった。
「ムカつく」
そういう君がたまらないから、小さな頭のてっぺんに向かってもう一度繰り返した。今の僕なら迷わずに言える。君のどこを好きなのか。
君は僕だけを真っ直ぐに見てくれてるんだ。その反抗的な、だけどたまらなく可愛い瞳で。ナマエちゃんといる僕は、普段よりも素直になれる気がする。
「僕はナマエだけだよ。これから多分、ずっと」
だからゆっくりと、本気の僕の身の上話をしようか。
2016/04/20
でももしも誰かに彼女のどこを好きだったの? 本当に好きだったの? なんて聞かれたりしたら、案外答えられないかも知れない。後になれば憑き物が落ちたみたいにばかばかしくなった。あれはもしかしたらただの嫉妬、或いはコンプレックス。そういうものに近かったのかもしれない。はじめ君に? それとも彼女に?
ほんの少しだけ切ないような感覚が心のどこかに残りはしたけど、それもどうせ単なる感傷できっとそのうちに消えていく。結局のところ恋なんて僕にはまだよくわからないし、やっぱり面倒くさいシロモノだ。なくたって僕の毎日は十分に楽しい。
そんなふうに考えようとしてた。
ナマエと出逢うまでは。
今日ものどかな地上界でパトロールとは名ばかりの散歩中。賑やかな休日の繁華街、アーケードで欠伸をしながら歩く僕の目を引いたのは。
「総司、そろそろ帰んぞ」
「ちょっと、平助、見てよ。メロンクリーム味だって」
「は? メロン? 今日は定例会議だろ。もう戻らねえと時間、」
「プレリリースだよ。味見しようよ」
カフェの店頭にちらっと見えた、新作フラペチーノ試飲キャンペーンの看板に僕の心は奪われた。
「遅刻するとまた土方さんの雷が落ちんだろ」
「じゃ平助は帰れば。僕はパス。土方さんにうまく言っといてよ」
「ええ、勘弁してくれよ、総司い!」
先を急ぐ平助から身をかわせば、紛れた人混みの中から情けない声が聞こえてきたけど、僕はいつもここの新作を楽しみにしてるんだから仕方ない。
差し出された小さなプラスティックのコップには太い緑色のストローがささっていて、どうやらそれは最後の一つだったみたいだ。うわ、危なかったとそのコップを受け取る。その時、横から僕とほぼ同時に伸ばされていた手。その手は小さくて白い手で、だけど思いのほか強い力でフラペチーノのコップを持った僕の手首をぐいと掴んだ。
「それ、わたしのなの」
「なんなの君……」
「並んでたんだから」
手首を取られムッとして手の主を見やった僕は、瞬間冷凍されたかのように固まった。
「君……なまえ……ちゃん?」
彼女は僕の手から難なくフラペチーノを取り上げた。呆然として逆らうこともせずに僕は固まったまま。ふいと踵を返した彼女はあっという間に僕の視界から人並に消えた。
「すぐに新しいものをお持ちしますから」なんて背後でお店のスタッフが慌てたように言ってる声は耳を上滑りした。
「あれから大変だったんだぜ! 総司のせいだかんな! ちゃんと手を動かせよな! 土方さんもさあ、遅刻のペナルティがトイレ掃除とか中学生かっての!」
僕はその夜いつのまにかHEAVENの神殿のトイレにいて、平助に持たされたブラシと洗剤に目を落としやっと我に返る。
あ、ほんとだ。こんなことやってる場合じゃない。平助を一度見やり「君は身長が中学生じゃない」と言えば顔を真っ赤にして「はあ!?」とわめいた。手にしたものを放り出せば「自由すぎんだろ! 総司!」と平助は背後で叫んだけどごめん、今だけはほんとにごめん、僕は確かめなきゃいけないんだ。確かめずにいられない。
まあ、十中八九違うだろうとは思うんだけど。なまえちゃんは間が抜けてて、他人の物を奪うというよりはどっちかといえば奪われる側のタイプだった。
『え、今日ですか? 今日は一日中はじめさんと一緒で……』
「そう。そうだよね」
スマホの向こうで困惑した声を出すなまえちゃんに代わって、今度は憮然としたはじめ君の声が聞こえてきた。
『なんの用だ、総司』
「今日もべったり仲良くふたりで一緒にいたんだね。それならいいんだ」
『……?』
当たり前だろう、意味がわからないと言わんばかりに黙ったはじめ君。終話ボタンをタップする。これであれが他人の空似ということははっきりした。
だけど。
僕からカンタロープメロンを奪ったあの子は、今思い出してもまるで生き写しみたいになまえちゃんにそっくりだった。
再会は思ったより早くにやってきた。
「君……、」
「…………」
あの日と同じ街。黄昏どきを過ぎたショットバー。
あれから僕はこの街ばかりを歩いてた。いつもなら誰かを呼び出してるか合コンをしてるかそんな感じで楽しく過ごしてるはずの時間だけど、ここのところはなんとなくそんな気にもなれなかった。初めてのこのバーに入ったのは全くの無作為で、独りで考え事をしたいっていう、その程度にはあのことが気になっていたせいだ。
綺麗な後ろ姿の女の子が独りでカウンターに座ってたから、二つくらい間を開けたスツールに近寄って、軽い気持ちで彼女の方を見た。細身のジーンズにハイヒール。少しだけこっちに向けられた顔を見て僕は目を見開く。まさかここで会えるなんて思わなかった。
服装からも雰囲気からも、この子がなまえちゃんじゃないことはもうわかってる。でももう一度会ってみたいって、別に恋とかそういうわけじゃないけど、頭の隅でとにかくずっと気になってたから。
だけど彼女の口調はすごくよそよそしかった。
「誰?」
「……僕、憶えてない? ほら、この間カフェで……」
「さあ」
その反応に意表を突かれつつ僕は気を取り直して、彼女の隣に腰掛けた。ちらりと視線をよこしただけで彼女はいいとも悪いとも言わずにまた前を向く。まるで無関心とでも言うように。女の子にこういう態度って、正直僕はこれまであんまりされたことがない。
彼女の前に置かれていたのはごくごく小さくて細長いワンショットグラスで、中の酒は無色透明。それに並んだチェイサーはトニックウォーターなのか僅かな気泡を上げている。そしてそれは全然減ってない。この子はお酒に強いようだ。
「それなに? 僕、同じのにしようかな」
「スピリタス……」
「ストレートで?」
彼女はおもむろに煙草を取り出した。
この子、煙草まで吸うんだ?
それにもまあ驚いたけど、それより何よりスピリタスって確か90度以上あるかなりやばい酒じゃなかったっけ。
「冗談でしょ。口が火事になるよ」
「ナンパ目的のお子様はやめといたほうがいいかもね」
「お子様って誰のこと?」
「メロンクリームがお気に入りの」
「なんだ、やっぱり憶えてるんだ。て言うか、それなら君だって同じでしょ」
彼女は皮肉っぽい笑みを片頬に乗せてちらっと僕を見る。自分で言うのも何だけど、僕はモテないわけじゃない。なんだか見下したようなその横目が腹立たしい。
バーテンダーが僕の前に静かにショットグラスを置いた。一呼吸してからそれを持ち上げれば咽るような強いアルコールが鼻先に香る。
目を閉じてスピリタスのストレートを流し込めば、少量の液体はまるで喉から食道までをじゅっと焼くような痛みさえ感じさせて胃に滑り落ちていった。顔を顰めた僕をみて彼女は声を上げて笑う。笑いながら僕に向かってトニックウォーターのグラスを指先で押した。なに、その態度。
また腹が立ったしすごく不本意だったけど、涙目になった僕はそれを一息に飲みほした。
「無理しなくていいのに」
「あのさ、コホ……、なんかバカにしてる?」
「これ、ほんとはズブロッカ」
「は?」
「負けず嫌い。やっぱりあなた、子供じゃない」
「…………」
指先に挟んだ細い煙草の吸い口を唇につけ、そうしてから顔を少し背けて紫煙を吐き出して、彼女は自分のグラスを指差した。
ほんとに何なのこの子。
大体見たとこ年は僕と同じか少し下くらいでしょ。そう言いたかったけど僕の喉からはコホ……ともう一つ小さく咳が出ただけだった。
向き直って見つめればやっぱりなまえちゃんとよく似てる。それはもう見れば見るほど。ただし顔の造形だけ。話し方や仕草は随分違ってる。こんなにそっくりな顔をしていながら中身はまるで違う。正反対といってもいいくらいに。僕が言うのもなんだけどちょっと意地悪でシニカルで、スレてるって言うわけじゃないけどどこか醒めた口調と無表情。無表情がデフォルトの友人は一人いるけど(つまりそれがなまえちゃんの彼氏だけど)もちろん彼とも違ってる。
僕の頬にも知らずに笑いが上ってくる。テンポのいい会話は楽しい。今までに会ったことのないタイプの女の子だから、なんだか面白いような気分になってきたんだ。
「なんて名前なの。僕は総司」
「ナマエ」
「ナマエちゃんていうんだ……ふうん、いい名前。君にぴったりだね」
「これナンパなの?」
「いけない?」
「別に」
「君、性格悪そうだけど顔が僕の好みなんだよね」
そう言うとナマエちゃんは一度目を見開いてから、ものすごく不快そうな顔をした。
その日以来、ぽつぽつと時間が空けばそのバーに行った。そのうちLINEを交換して僕のオフの日は待ち合わせをするようになった。直に会うよりもLINEの時の彼女はスタンプなんかいっぱい使って結構人懐こいんだけど、実際に会えば全然好意的に見えなかったから、なんで付き合ってくれるのかはよくわからなかった。だけど彼女はとりあえず僕の誘いを一度も断らなかった。
僕のほうは初めのうちどこか無意識になまえちゃんの面影を追っていたところがあったかもしれない。でもそんな感傷はすぐに、本当に呆気なく薄れていった。
僕が合コンに誘わなくなったから山崎くんあたりはガッカリしてるかもしれないけど、そんな遊びよりもナマエちゃんと飲んでる方がずっと楽しい気がした。どこからか「何ふざけたことを言ってるんですか。俺がいつ誘ってくれと言いましたか。冗談じゃない」なんて聞こえてくる山崎くんの苦々しげな台詞も僕にはもうどうでもいい。
今日のナマエちゃんはいつにも増して一段と機嫌が良くなかった。いや、最初はそうでもなかったんだけど。
このバーで初めて会った日にどうしてナマエちゃんに声をかけたのか、その理由を話せば呆れたような顔をして、酒の肴に僕のお粗末な失恋物語を話して聞かせたら途中から向こうを向いてた。
「それが前から話に出てくるなまえちゃんて子のことなの? バカじゃない」と彼女は冷たく吐き棄てた。
「ひどい言い草」
「だって恋愛なんて三人でするものじゃないでしょ。普通は二人でするものでしょ」
「……なかなかいいこと言うね」
何を言っても反抗的でとても聞き上手とは言えない彼女だけど、そのときの言葉は思わず動きを止めるほど僕の心に染みた。じっと見つめれば彼女はハッとしたように口を閉じてまたそっぽを向く。柔らかそうな髪から覗く耳たぶが少し赤く染まってたから、何気なく指先で触れると「やめてよ!」と今度はすごい勢いでこっちを振り返る。
実際にこの子の顔は可愛いんだ。でもいつになく真っ赤になったその顔はもっと可愛くて僕は目を瞠る。こんな表情は初めて見た。
くすくすと漏れる笑いを我慢しないで横目で伺えば、ナマエちゃんはぷりぷりしながらズブロッカの入ったショットグラスを綺麗な唇に当てる。それを見ながら僕も同じものを口にする。いつのまにかこの時間は僕にとって一番の楽しみになっていた。
「お腹空いてるんじゃない? そのイライラ」
「……ムカつく」
「何か食べればいいでしょ」
「お酒飲むときは食べないの」
「ふうん、僕と同じだ。そう言えば君って料理が出来そうな顔じゃないよね」
「前から思ってたけど、あなたって本当に失礼だよね」
「君ほどじゃないと思うけど?」
「……出来るよ、料理くらい」
「へえ。なら証拠見せてよ」
「証拠って?」
まだそんなに酔ってたわけじゃないけど、そんなやり取りがきっかけになって、僕はナマエちゃんの部屋に来ていた。キョロキョロと見回せば一人暮らしの彼女の部屋は綺麗に片付いていて、いつもの印象とは違う行き届いた女の子らしさを感じた。
整頓されたキッチンに目をやればどこかで見たことがあるなと思う。そうだ、これってはじめ君のキッチンと似てるんだ。調味料もたくさん揃っている。
別にほんとに疑ってたわけじゃないんだけど、ナマエちゃんはちゃんと料理をしてる子なんだと改めて納得した。はじめ君の彼女を思い浮かべて思わず可笑しくなった。
「で、何が食べたいのよ」
「……こんぺいとう?」
「ねえ……、怒らせたいの」
「違う。本当に食べたいものを言ったら、きっと君はもっと怒るから」
「…………」
ジュージューと何かを炒める後ろ姿を見ながら15分も経った頃、ネギが嫌いと言ったのに山ほどのネギの入った炒飯が出てきた。「いきなりだったから食材があんまりなかったのよ」と小さなテーブルの前に座った僕の前にそれがコトリと置かれる。立ち上る湯気はたしかに美味しそうな香りを立ててるけど。
…………ネギ。僕はちょっとだけ白目になる。
「…………」
「食べて」
「…………これ、どれだけネギ入ってるの」
「一本」
「…………」
「食べないの?」
彼女の視線に負けて覚悟を決め、僕はスプーンを取った。言っておくけど、これがほかの誰かの作ったものなら僕は絶対に口にしなかったと思う。
ネギのたっぷり入った炒飯を掬って口に入れて、目を閉じて咀嚼すれば……あれ、意外にも美味しい。
自分でもびっくりするほどあっという間に僕のお皿は空になった。こんなにネギを食べたのはこれまでの人生で初めてだ。
カチャンとスプーンをお皿において「ご馳走様」と言えば、ナマエちゃんは形のいい唇の端を上げかけて、だけど僕の次の言葉で急に頬を強張らせた。
「驚いた。同じ顔でも随分違うんだね」
「総司、」
「……え、」
急に名前を呼ばれて僕はどきりとした。上目遣いで見上げる彼女は腹が立つほど可愛い。
まったく腹が立つな。そういうの、反則だと思うんだよね。
「わたしはわたし。ナマエだよ」
「うん」
いつもと違うなんだか思いつめた目を見てたら僕の身体は勝手に動いて、彼女の指先に挟まっていた吸いかけの煙草を取ってテーブルの上の灰皿に揉み消していた。「……ちょっと、」と声を上げる彼女の手をテーブルごしに掴む。引き寄せられるまま僕の腕に収まったナマエちゃんは、それでも素直に胸に顔なんて埋めないで反抗的な目つきで僕を見上げてる。
「ナマエはナマエだよ。わかってる」
「わかってないよ。まだ、その子のこと、好きなんでしょ」
「は? まさか」
「…………ならもう、彼女の話、聞きたくないんだけど」
「……もしかして、ヤキモチ?」
「うるさい、バカ!」
ナマエちゃんが僕の腕の中で僕を睨み付ける。愛しくてたまらない気持ちになる。だからそんな目で見ないでよ。
もうずいぶん前からわかってたよ。
僕としたことが、全くの心外なんだけどね、君のことを、ナマエちゃんのことばっかりを考えてた。
そうだね。君にはちゃんと説明をしてなかった。だって、僕自身だってそれを理解したのはごく最近だ。
そうなんだ。いつのまにか君のいる明日が、まっさらな明日が僕にとって楽しみで仕方のないものになっていた。
この気持ちはあの頃の痛くて苦しかったあの感じとは似ても似つかない。なまえちゃんのことは今となれば不確かな思い出で、あれを恋とはもう呼べない気がしたし、他愛ないきっかけで始まって知らない間に盛り上がるそれが恋かどうかなんて、そんな理屈はこの際もうどうだっていい。
ナマエちゃんをすごく好きになっちゃって、今の僕は君に夢中になっている、確かなのはそれだけ。
あの時とはっきりと違うところがある。目の前にナマエちゃんがいて、ナマエちゃんの前には僕がいる。僕の心にはナマエちゃん以外の誰かが入る余地なんて1ミリもない気がする。これは当たり前のようでいて、結構大事なことだと思うんだ。
恋愛は三人でするものじゃない。二人でするものだ。
君の言った通り、つまりはそういうことだ。
覗きこめば拗ねたみたいに尖らせた唇に「君だけだよ」って触れたら反抗的な目つきのままのくせに目元を真っ赤にする。なにそれその反応。君って本当に反則だよ。
回した手で彼女の頭の後ろを押さえて僕の胸に押し付ければものすごく切なげな声が胸元でくぐもった。
「ムカつく」
そういう君がたまらないから、小さな頭のてっぺんに向かってもう一度繰り返した。今の僕なら迷わずに言える。君のどこを好きなのか。
君は僕だけを真っ直ぐに見てくれてるんだ。その反抗的な、だけどたまらなく可愛い瞳で。ナマエちゃんといる僕は、普段よりも素直になれる気がする。
「僕はナマエだけだよ。これから多分、ずっと」
だからゆっくりと、本気の僕の身の上話をしようか。
2016/04/20