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檻の中の金魚


「お武家さま?」
「……あんたは、」

その娘に再び出会ったのは巡察の帰路だった。
薄っすらと頬を染め愛らしく微笑むのを見て、俺の頬にも我知らず笑みが上る。

「ああ、やっぱり。先日はありがとうございました」
「……これから、稽古か」
「はい」
「あの折りは名乗りもせず、すみませんでした」
「いや、こちらこそ。俺は斎藤だ」

風呂敷包みを抱え薄化粧を施しただけの、稚いと言っても差し支えないその面差しはすぐに、俺の脳裏に焼きついたあの娘のそれとぴたりと一致した。
娘の口にする平坦な言葉が心を擽る。
しかし娘などと言ってはいけないかも知れぬ。
彼女は先日ある人物に随行した揚屋の廊下で見かけた芸妓だった。
花街などに興味のなかった俺があの夜登楼したのは単に任務の為であり、酒を口にしながらも警戒を怠らずに時々廊下の様子を伺っていた俺の目に移ったのは、酔客に絡まれ当惑する美しい芸妓の姿だった。
捨て置く事が出来ずに腕を軽く捻り上げ一睨みすれば、男は慌てふためいて逃げ去る。
それを見届け彼女を振り返り声を掛けた。

「大事ないか」
「へえ、おおきに、すんまへん」
「勝手な事をしたが、あの男は、馴染みではなかったのか?」
「いいえ。ほんまに助かりました。おおきに」

艶然と腰を落とし、少しだけ下げられたおすべらかしを八本の笄と豪奢な花簪で飾り、前帯を心に結い赤襟を返したその姿は一目で太夫と知れた。
顔を上げた彼女は真っ白な白粉、下唇に施された紅が印象的な弧を描いて微笑んだ。
それが思いの外あどけなく見え、瞬時にして俺の心を捉える。
後に知った彼女の名は東雲と言った。
何故、俺は。
非番が来るたびに角屋の座敷で胸を高鳴らせ、味も解らなくなった酒を飲み、気持ちを鎮める為に外を眺めながら東雲を待つ。
まだ夜には間がある。
あれからもう幾日此処へ通ってきただろう。
今でも自分が何故こうしているのか、解らない。
だが此処へ足を運ぶのは紛れもなく俺本人であり、来る事を止められないのも俺自身である。
俺がこうして東雲に逢いに通っている事をあの人は知らない。
あの人は多忙だ。
そして俺は、あの人が東雲を愛している事など、知らなかった。





引船は、いつ見ても美しいこの東雲太夫を、琉金のようだと思った。
赤を基調とした錦に金糸銀糸で織られた華麗な色遣いの衣裳を纏いきらびやかに着飾りながら、端整な細面の瞳はいつだって笑ってはいない。
空気を求めて水面近くをパクパクと喘ぐ金魚のようにどこかくるしげで、それでも悲しい程に美しいのだった。
輪違屋の豪華な居室で、髪結いも化粧も終わった東雲は物憂げに脇息に凭れ、茶を喫しながら雛妓の話し相手をしていた。
憂鬱に沈んだ彼女には雛妓の話が耳を素通りしてしまう。
そこへ控えめに声が掛けられた。

「東雲太夫さん、逢状がかかりましたえ」

小女郎が捧げ持って来たそれを受け取った彼女は、ちらりと横目で中身を見遣る。
確かめると仄かに笑み、逢状を帯に挟んで引船に手を引かれ、小さな禿ふたりと傘もちを従え角屋へと赴く。
しかし出がけにいつもかけられるおかあさんの「おきばりやす」に、今日はひどく気が重くなった。
もう馴染みと言ってもいい客を「そろそろ、何とかしはらな、あきまへんえ」と言われているのだと思った。





待ちくたびれた頃すっと音もなく襖が開き、逢いたかった女が其処に控えているのを目に留めて、俺は思わず相好を崩した。

「斎藤さま」
「…………、」
「ようお越しやした」

彼女は座敷に入って来ると必ず作法通りに傍に侍り、膳の銚子を取り上げて小首を傾げ俺を見つめる。
それは間違いなく芸妓が客に科を作る為のそれだ。
その姿にいつでも俺は胸を締めつけられる。
此処へ来ても話す事は他愛のない事ばかり。
もとより彼女に芸妓としての接待など求めてはいない。
俺は何時の間にか、いや、もしかしたら最初から一人の女として彼女を見ていたのだと、今更のように気付く。
彼女の太夫としての顔に胸が苦しくなるのはそのせいだ。

「なまえ、いつも言っているがお前の郷里の言葉で話してくれ。俺の事も、」
「……はじめ……さん」

俯いて目元を染め言いなおした彼女の、白粉の下に隠された素顔がやっと少し綻んだ気がした。
話の流れから少しずつ聞き覚えていった中から、俺は彼女が廓育ちではない事を知る。
なまえは元々出身は江戸であるらしく、詳しくは聞かぬが女衒によって此処へ来ることになったのだろうと推察された。
歳は俺より一つ下だから二十三。
芸に秀で客受けもよかった彼女は、みるみる太夫にまで上り詰めたが、年季明けまでまだ三年程を残していた。
島原の芸妓の最高位と呼ばれ、置屋でも揚屋でも下にも置かない扱いを受ける太夫であっても、所詮はこの島原と言う巨大な檻の中の囚われ者なのである。
生い立ちを詳しくは知らぬが、なまえの内面を知れば知るほどに俺は彼女に惹かれ、この檻から自由にしてやることが出来たならばと、どれ程願っているか知れない。
これまで生きて来て初めての、ただ一人の好いた女。
しかし苟も太夫を身請けるなどそう簡単にいかぬ事を、俺もなまえも知り過ぎる程知っていた。
せめて一時だけでも、なまえが身も心も休めてくれればいい、その想いだけで俺は此処にいる。
だからなまえの躰に触れる事はしない。
ゆるゆるとした時間の流れを楽しんでいれば、間もなく声がかかった。
解っていた事だ。
仕切り花はいつものことである。
どれ程の金を積んでも東雲に逢いたいという後口が後を絶えぬ。
ブツリと切り取られたようなこの瞬間に、心臓を掴まれたような気持ちになる。
短いひとときの後二度と戻らぬなまえを待ち呆け、再び逢う事も叶わず、終いに此処を後にするのが俺の常の習いであった。





『土方様ゆへ東雲とにても早々おこしのほど待ち入り候』

なまえは小女郎の運んできた後口の逢状には目を向けない。
見る前から誰なのかは解っている。
彼に線引きされた期限は今日だった。
暫く無駄な逡巡をするがやがて小さく息をついて、衣擦れの音を立てながらゆっくりと斎藤の元を去る。
ひらひらと水中を舞い泳ぐ金魚のように、掴む事の出来ない美しい生き物が、斎藤の切なげな瞳から目を逸らしながら、その表情をまた東雲太夫へと戻すのだ。
本来のあどけない顔に太夫の仮面をつけ、きらびやかな鎧を纏って。
しずしずと廊下を進み一つの座敷の前で手を付いてから滑り入れば、憮然とした男が彼女を迎えた。

「お越しやす」
「遅かったじゃねえか、東雲」
「すんまへん。お待っとおさんでした」
「俺があまり来られねえからって、他の男に懸想でもしたか?」
「そない、えげつないことを、」
「今日こそは、いい返事を貰えるんだろうな?」

引き寄せられる肩をそのままに、彼女が土方の銚子を取ろうとすると、その手を拘束された。
間隔を置いてはいるが、もう長く通ってくれる馴染みのこの男から落籍の話が出てからもうかなりの時が経つ。
置屋のおかあさんが言ったのはこの土方のことであった。
“東雲”を幾らで落籍してくれるつもりなのか彼女は知らないが、大層な額である事は間違いないだろう。

「土方はんのおっしゃること、嬉しおす。でもこないしょうもないうちのこと、」
「そんな言葉が聞きてえんじゃねえんだよ。お前、もしかして本当に、他に」

更に力を込めて強く抱き締めれば、その瞳から雫が伝った。
そんな儚げな素の表情を見せる東雲は初めてだった。
土方の前での彼女はどこか悲しげな影を落としながらもいつでも凛としていた。
思わず息を飲む。

「お前……、」

自由にしてやると、言っているのに。
もとより自分がこの女に強烈に惚れているのは確かだ。
しかしそれよりもこの美しくも悲しげな女を、己の傍に置く事でこの島原という檻から解き放ってやりたいと、土方はそう考えていた。
和泉守兼定を購う為に国元の義兄から借りた金も返していない。
それを避け置き貯めた金も池田屋事変で得た金も、全てを東雲に充て家も用意している。
土方の整った相貌がひどく歪んだ。

「そんなに、俺が嫌か」
「違います。あんたはんのこと、好きどす。でも……かんにん……、」

言葉と裏腹にその身は土方に囚われる。
落籍してくれると言う土方を拒絶する事が出来ない。散々世話になった輪違屋のおかあさんの意に背く事も出来ない。
しかしいつも口数少なくひたすらに自分を待ち、郷里の言葉で話せと言い、安らぎを与えてくれる心優しい斎藤を愛し始めている事に、なまえはとうに気づいていた。
新選組において、土方が斎藤の上役である事を知っているなまえには、どちらかを選ぶことなど出来なかった。
何年にもわたり身に染みついた筈の、芸妓としての矜持が俄かに崩れ去っていくのを感じた。





一刻も待っただろうか。
大きく溜め息をつき、傍らの刀を引き寄せ立ち上がろうとした斎藤の耳に、襖の外から微かに聞こえてきた声は震えていた。

「……斎藤さま、おいやすか、」

襖を開ければ、泣いたのだろうか目元を赤く腫らしたなまえが指をついているのだった。
矢も盾もたまらずに彼女の肩を引き寄せる。

「なまえ、」
「はじめさん、少しだけ、」
「なまえ、何故、泣いている?」
「……あなたに会えなくなるのが、寂しい」
「そのようなことを……、ずっとこのまま、俺はなまえを離さぬ」

掻き抱くようになまえを胸に閉じ込めれば、着流しの胸を彼女の涙が濡らした。
偽りを言っているわけではない。しかしそれは願望に過ぎない。
好いている。
例えようもない程に好いている。なまえの細い身体は頼りなく、腕に抱きしめて初めて心底から愛おしい気持ちが、抑えようもなく溢れだす。
しかし本当の想いを口にする事がどちらにも出来ない。
なまえの涙を止める術もなく、斎藤は困惑しながら強く抱きしめるしか出来ない。
一度だけ見たなまえの素顔を、もう一度見たい。
それがどうあっても能わぬ事だととっくに知っている。
そして、なまえにも解っている。
芸妓が檻を出る事も叶わずに男を好きになっても、それは詮無い事だと。
好いた人と結ばれるなど。

「夢のまた夢」

斎藤には、小さく身じろぎ呟かれたなまえの言葉を、聞きとることが出来なかった。
切なげに眉を寄せ、ただ愛しい躰を抱きしめること、それだけしか。


2013.07.16




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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