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愛も幻想もすべて


深夜。少々酒を過ごしたなまえは自宅近くでタクシーを降り、数時間前から覗くのをやめていたスマートフォンを取り出した。案の定LINEもメールも入っていない。それは確認するまでもなく想像のついていたことで小さくため息が漏れた。もう三ヶ月ほどになる。
「やっぱり終わりかな……」
口の中で呟いてスマフォをバッグに戻す。飲み会では歯に衣着せない女友達にありがたくない称号をもらった。
「なまえは美人なのにどういうわけかダメンズウォーカーだよね」
思い出して苦笑が漏れる。酔っていたおかげでいつも程には傷ついていない自分に少しホッとしつつ、自宅アパートの小さなエントランスに近づきかけたその時、潜めたような声が聞こえた。
「そのように鳴くな。住人が起きてしまうだろう」
見れば、門脇の植え込みの影に屈むスーツ姿の男性がいる。若いサラリーマン風だった。
素面ならきっと声など掛けなかった。時刻は午前二時を回っている。なまえはごくありふれた普通のOLでこうして酒を飲んで遅く帰宅することがそうあるわけではない。しかしこの日は酔って気が大きくなりすぎていた。投げやりな気持ちも少なからずあった。
「あの、どうかしたんですか?」
なまえの声に驚いたように男性が立ち上がる。その両手は小さな犬の両脇に差し入れられ、仔犬は「くうん」と鳴いた。仔犬がいることにも少し驚いたが、その男性の姿に釘付けになった。
こちらを向いた彼はビジネススーツをきっちりと着込んだすらりと均整の取れた体躯。長めの前髪のかかった顔ははっきりとは見えず、エントランスの灯りを逆光に受けているが、それでもとても端整な相貌だとわかる。彼の手の中で仔犬がくんくんと鳴く。
「あ、仔犬……」
「あんたの犬か?」
可愛らしい仔犬に頬を緩ませかけたが、低く静かな声にどこか鋭さを感じ、整った容姿にそぐわないその声の調子に僅かにたじろぐ。
「ち、違いますよ。このアパート、ペット禁止ですし」
「では迷い犬か」
仔犬は可愛らしい首輪をつけていた。安心したように彼の腕に収まっている。
「あなたもこのアパートの人ですか?」
「通りかかっただけだ。この犬は足を怪我している。だがこの時刻に病院はやっていない。俺には今あまり時間がなく、その……困っている」
今度は先刻の鋭い調子ではなく、本当に困ったような声音だった。
「じゃあ、私、預かりましょうか? すぐ近所に動物病院があるし、明日は土曜日で仕事が休みだから」
なまえには後で考えてもさっぱりわからなかった。
何故咄嗟にあんなことを言ってしまったのか。酒に酔っていたから。それは確かにそうだがそれだけではない気がした。犬も好きだが飼ったことはないし、まさか自分がこうして連れてきてしまうなんて。
小さなバスケットにバスタオルを敷いて寝かせじっと見つめていると、しかしその可愛らしい寝顔は心を和ませた。指先で頭をそっと撫でながら先程の男性のことを思い出す。
彼はなまえの言葉に二つ返事で喜んだわけではなく困惑したふうだったが、しばしの沈黙の後、徐に上着の内ポケットに手を入れ「すまんが、これで」と黒い財布から一万円札を二枚抜き出した。「病院代くらいありますよ。それに、こんなにかからないし」と固辞したが譲らず「後日様子を見にくる」とだけ言い残し、二枚の札をなまえの手に押しつけると足早に闇に消えた。
財布を取り出すときに少し開けた上着の内ポケットに白っぽくネームの刺繍があった。暗かったし見えたのは一瞬だったがFUJITAと読めた気がした。あの人は藤田という名なのだろうか。
テーブルの上に置いたお金をちらりと見る。とりあえず仔犬の診療代は折半ということにして半額だけ貰おうか。残りは次に会った時に返せばいい。その時はそう思っていた。
翌朝はスマートフォンの着信音で目覚めた。枕元を探り手に取れば、画面には公衆電話と表示されていた。心臓が急に早鐘を打ち、慌てる指先をもどかしくスワイプさせる。
『連絡できなくてわりぃ』
三ヶ月待った男の声が開口一番にそう言った。
「いま、どこ? スマフォは?」と問うのには応えず『しばらくそっち行けねえから』それだけを言うと電話は一方的に切られた。
「ちょっと、ちょっと待ってよ!」
まだ付き合ってるつもりでいたのは、こっちだけだったってこと。気乗りのしない合コンで知り合い、しつこい程に想いを告げられ押しに負けた。恋人のつもりなのだから何度か抱き合いもした。そして少しの情も湧いた。だけど向こうからの連絡が途切れた頃には電話番号が変わっていた。
思えば相手の部屋に招かれたことは一度だってない。最初だけは優しくて、恋人と思い込みこの部屋に招き入れたその男は私に飽き、こうしてテイよく棄てられたってわけか。
もう出ないと思った涙が少しだけ目尻に滲んだ。悲しかったからではなく、多分悔しかったのだ。見抜けなかった自分の浅はかさが。
ベッドの下から「くうん」と仔犬の声が聞こえた。なまえはふとまた昨夜の顛末を思い出す。あの人はまた来ると言っていた。
「そうだ、病院に行かないと」
つい引き受けてしまったこととは言え、小さな命を預かったのだ。今は泣いている場合じゃない。「ごめんね。足、診てもらおうね」仔犬の頭をそっと撫でてから、なまえはアドレス帳を呼び出し、躊躇わずに男の名前を削除した。どうせもう繋がらない番号だ。
予想に反してその日もその次の日も、新しい週に入ってからも「様子を見に来る」と言ったあの男性は現れなかった。後日というのは曖昧で、なまえにとっては一日か二日後という感覚だったがあの男性には違ったのだろうか。
仔犬は軽い捻挫ですぐに治ると言われて安堵し、動物病院の先生が待合室に貼り紙をしてくれたおかげで翌日には飼い主も見つかった。仔犬は無事に元の家に帰れてもう何も問題はない。出来ればそういうことを報告したかった。それにあの人が置いていったお金、手をつけないままで封筒に収めたそれだけは、なんとかして返したいとなまえは思った。
しかし彼は一向に訪れず、なす術もなくそうして日々だけが過ぎた。


その日仕事を切り上げ定時に帰宅しようとしたなまえは、都心にある職場近くのオフィス街を歩いていた。歩きなれた道、いつもと変わらないビル群。人の行きかう歩道。空模様が怪しかった。今日に限りバッグに折り畳みの傘を入れ忘れたことに気付いた時には雨粒が落ちてきたが、いつも使う地下鉄の駅はすぐそこだからとパンプスの足を急がせようとした一瞬に、横合いから伸びてきた腕に片腕を取られる。
驚くよりも先に身体が引かれた。何が起こったのか理解できないまま、なまえは引きずられるようにビルとビルの隙間に連れ込まれていた。と同時に「畜生、どこ行きやがった!」と、たった今まで歩いていた歩道の方から大きな濁声が聞こえてくる。
え、何?
すぐに身体を後ろから拘束され手で口を塞がれた。
「声を立てないでくれ」
耳元に吐息がかかる。先刻の濁声とは種類が違う。
この声はあの時の。どこか鋭いけれど、低くて静かな。……そうだ、間違いなくこれはあの人の声。
それだけを認識したものの、どうして自分が今こんなことをされているのかわからず、振り向いて顔を確認したいと思ったが、それが許されるような雰囲気ではなかった。
雨は容赦なく本降りになる。ビルとビルに挟まれた場所に連れ込まれている。わけがわからないながら口を覆われたまま目だけを巡らせば、雨の中垣間見える表の通りに騒々しい足音を立てうろつくのは、身なりも口調も明らかに真っ当とは言いがたい人相の男達だった。つまりなまえにとってみれば全く異質の世界の人間達。男のうちの一人が低く唸る。
「ゼロだ。殺せ」
常には聞いたことのないような衝撃的な言葉が耳を打った。
この人は追われてるの?
ゼロって何?
そんな疑問が浮かぶも一時だけで、思考は恐怖に霧散する。その男達のうちの一人がふとこちらに視線を寄越した。状況は呑み込めないが自分がとんでもなく危険な状態に置かれていることだけはわかる。この人はあの男達に追われている。だからってどうして私までが?全身から血の気が引く気がした、その刹那。
「………!」
顔の半分を覆っていた彼の手が外されたかと思うと振り向かされて顔が近づいた。頭の後ろに手を当てられ引き寄せられて、あり得ないほどに強く接合された口唇。こじ開けるように割り開かれ、差し入れられた舌がなまえの咥内を蹂躙する。
雨は土砂降りになっていた。何もかもが信じられない。想像を絶する展開に眩暈さえ起こってくる。抵抗して両手を突っ張ろうとしても男の力は強く、胸は硬くびくともしない。口唇は離されなかった。
「…………ん、……んんっ」
片腕で身体を強く抱きしめられもう片手で頭を固定され、そのまま長い口づけが続いた。初めは奪うように激しかったそれが、徐々に優しく甘く、そして官能的なものに変わっていく。雨の音に紛れて唾液の絡まる音が耳をなぶった。
やがて「チッ!」と大きな舌打ちを残して男達の足音と騒ぎは遠ざかっていった。それはものの数分にも満たなかったのかもしれないが、なまえにとっては全身が凍り付くような長い時間に感じられた。
酸欠になりかけた頃、身体に回されていた腕の力がやっと緩む。
「すまなかった」
「……あ、あ、あなた、いったい、ど……どういう……っ」
「説明すると長くなる」
「じょっ、冗談じゃないです、こんな、こんな……」
震え声で抗議しようとしたなまえの言葉が止まった。
目の前にいるのは確かにあの日の男性だ。しかし今日の彼の服装はあの日とはまるで違っている。Tシャツに黒い革ジャンを羽織り擦り切れたようなジーンズで、どことなく荒んだような姿に見えた。あの日はふわりとしていた髪も雨で濡れそぼっていたが、しかし前髪の隙間から覗いた瞳が深く澄んだ藍色で、視線が交わると心の底まで覗かれるような心地がした。思いがけずに心臓がどきりと音を立てる。
こんなに綺麗な目をしてたんだ。その瞳に目を奪われながら、たった今までこの男の人とキスをしていたのだと思い至り、こんな異常な状況であるというのにふいに顔に熱が上る。
ふと目についた彼の右の上腕のあたりが、革のジャケットごと切れて赤い血を滲ませていた。
「腕……、怪我してる」
「大したことはない」
「でも、」
呼び止めたタクシーの運転手は全身濡れ鼠の二人を見て嫌な顔をした。運賃を余計に払うからと乗せてもらい、なまえは自宅の場所を言う。
これだから私はダメンズウォーカーなんて言われてしまうんだ。そう心の中で自嘲しながらもタクシーの中で黙ってしまった男性をちらりと横目に見た。彼は片手で反対の上腕のあたりを掴み、そこには手渡したなまえのハンカチが当てられていたが、薄い水色のそれは見る影もなく真っ赤に染まっていた。



シャワーを使ってください、と言われたが流石にそこまで厚かましいことはしかねると、渡されたタオルで髪を拭きながら斎藤は俯いたまま思案していた。
当局があの男を確保していればそれでこのヤマは解決したようなものだった。末端の微罪逮捕だがいかようにも口を割らせる手があり、そこから芋づる式に組織を暴くことが出来た筈だ。しかしあと一息のところで男は逃走した。
マル暴ならば本音と建前とを多少は使い分けている。警察にとっても必要悪として存在する部分がないとは言えないからだ。何となればこの自分であってもそうだ。だが現在被疑者を隠匿している組織はあまりにもルール無視だった。なりふり構わずに直接自分を消しにかかってくるとはいささか驚いた。面が割れた以上個人的には動きにくくなる。
それに。
彼女はどうやら本当に何も知らないようだ。
つい先ほど隣室に入ったみょうじなまえの面差しを思い浮かべる。暗さを微塵も感じさせない純粋な瞳をしていた。直接に口を利いたのは先日が初めてだが彼女の反応で裏が取れた気がした。
視察や追尾を繰り返し十二分に観察したところからも、間違いなくなまえは男の正体を知っていない。彼女には例の役割は不向きと斎藤は判断した。だからもう自分がここにいる意味はない。
着替えを済ませ薬箱と清潔な新しいスウェットを手にして出てきたなまえは、ソファではなくフローリングの床に直に座って考えにふける斎藤をついじっと見つめた。
「シャワーは?」
「いや、このタオルで十分だ」
「じゃせめて、傷の手当します」
「無用だ。邪魔をした」
「待ってください。そんなに血が出てるのに」
立ち上がり今さっき入ったばかりの玄関に向かおうとする斎藤の無傷の方の腕を、なまえが引き止めるように掴んで床を見る。言われて彼女の視線の先に目を落とせば、上腕から皮のジャケットを伝った血液が先ほど座っていた床の一部に点々と落ちていた。だがもう出血は止まっている。なまえが強引に反対の腕を取り、斎藤は顔を顰めた。
「あの、藤田さん、上着を、」
「フジタ?」
「あ、名前、違いますか?」
「いや、」
フジタとは斎藤が特殊任務に就く時の偽名だった。警察庁警備局警備課、民間には秘匿された俗称ゼロはスパイや協力者獲得工作も取り仕切る命令系統のトップであり、捜査官である斎藤は作業班に属していた。場合によっては身なりを変え潜入捜査も行う。
Tシャツの半袖から顕になった斎藤の腕の創傷は痛々しかったが、着衣からはわからなかった滑らかに隆起した上腕筋になまえは瞬時目を瞠る。引き締まった頬や節の目立つ細く長い指を見て、この人の手足も細いものと勝手に思い込んでいたのだ。消毒液を浸した脱脂綿で傷を拭われた斎藤は眉を寄せた。
「痛みますか」
「大丈夫だ」
斎藤は無心に手当を続けるなまえを見つめていた。彼にとってはかすり傷みたいなものでもナイフで切られた部分はやはり生々しく、普通の女性だったら嫌がるか恐れるかのどちらかだろうと思う。危なっかしげなのに、変なところで肝の据わった女なのだろうか。
「あんたは俺が怖くないのか」
「え?」
「物騒な怪我をした知らない男をこのように家に上げるなど。先日のこともそうだ。あのような深夜に男に声をかけて危険だとは思わぬか?少しは警戒心というものを持て。でなければ簡単に騙される」
「……すみません」
斎藤の尖った声になまえが眉を下げる。その素直な反応に斎藤の方が狼狽えた。
「言い過ぎた、すまん。世話になっている立場で」
「いえ、藤田さんの、言う通り……です」
世話になったどころか暴漢と同等の行為を彼女にしておいて自分は何を言っているのか。先ほど触れたなまえの口唇の感触が蘇る。あの時は咄嗟にああするしか道はないと思われたが、要は追手をやり過ごすために通りすがりの男女を装う手段に彼女を利用したのだ。
今になって激しい後悔の念が襲ってくる。苛ついているのは己の所為だ。胸にせりあがる歯痒いような感情をどう処理してよいかわからない。
当局を挙げて追っていた男の恋人として最初に浮上したのがこのみょうじなまえだった。なまえを協力者として獲得することを上層部に命じられたのが斎藤だ。言うまでもなく彼女を使って被疑者の動きを読む為である。
恋人とはいっても恐らく上辺のことだったのだろう。あの男はもうなまえに接触をしないと思われる。そう踏んでなまえを協力者候補から除外し工作を中断したのは斎藤個人の考えだ。今日会ったのは全くの偶然だった。
痛むのは腕の傷ではなかったかもしれない。
これまでの斎藤はどのような任務も無感情に遂行してきた。協力者としてターゲットにするのは、年齢も性別も対象の背負う背景も様々である。しかしそのどの場合も誰であっても、下工作をし口車に乗せ或いは当人の弱点を握り、時には脅しに近いことを行ってでも、全ての事案で目をつけた人間を協力者として引き込んできた。それらの人々は巨悪を叩くための影の犠牲者と言える。だが一切の私情を挟まずに事を運んできた。理由はたった一つだ。それが工作員の任務だからだ。
しかし彼にとってみょうじなまえだけはどこかが違った。捜査に巻き込みたくないと思った。このような感覚は初めてだった。
「仔犬、飼い主さんが見つかったんです」
「…………、」
なまえが嬉しそうに笑う。その笑みに斎藤は眩しげに目を細めた。
「怪我もすぐよくなるって……、」
「そうか、」
仔犬の話を思いの外優しい瞳で聞く斎藤に、なまえの胸がまたどきりと音を立てる。
手当てを終え包帯を巻き終わると「お茶淹れますね。あ、その前にお金、返さないと。少し待っててくださいね」となまえは言って再び隣の寝室に入っていく。
斎藤はその背を黙って見ていた。
ベッドサイドの引き出しに入れた封筒の中にきちんと二枚の札が収まっているのを確かめると、なまえはそれを手にしてリビングに戻る。
それはほんのわずかな時間に過ぎなかった。
「藤田さん?」
無人の空間に一時佇み、気づいて慌てて玄関に走ったなまえの目の前でドアが閉じる。ドアはまるで追うなとでもいうように冷たい音を立てた。手にした封筒に目を落とし、落胆とも諦めともつかない吐息がなまえの口唇から漏れた。雨は降り続いていた。



二度とないと思った着信を受けたのは、それから一週間も経たない頃だった。仕事帰りの駅に降りたところでバッグの中でスマートフォンが鳴り出す。着信画面には公衆電話という文字が浮かんでいた。わずかに迷ってその電話に出る。
『近くにいる。来てくんねえか』
「……行かない。もう、終わりにしたいの」
男は電波の先でわかりやすく舌打ちをした。
『お前、フジタって知ってるか』
「藤田……?」
『正確にはフジタじゃねえ。本名は斎藤ってんだけどな、あいつ』
指定されたのはなまえの今いるところからそう遠くないビジネスホテルだ。都心から離れた場所で泊り客なんてあるのかと通りかかるたびに思った、裏ぶれて前時代的な風情を漂わせる古びた建物である。
男の謎かけの意味はわからなかった。どうして藤田という名を口にしたのかも。そして初めて聞く斎藤という名前。なまえは衝動的に踵を返す。足は自然と走りだしていた。

会いたいのは、あの男じゃない。
私が知りたいのは藤田さんのことだ。

「301号室……」
「待て、なまえ、入るな」
「……え?」
ホテルの古ぼけた自動ドアの前に立つなまえが無意識に部屋番号を呟いた時、不意に名を呼ばれた。どこから呼ばれたのかはわからなかったが、それはあの声だ。低くて鋭い、だけど聞いているだけで胸を締め付けられるような、あの声。
そして。
「サンマルイチ!」
しかし、目の前の光景に目を疑う。其処此処の物陰から男達が飛び出して来る。まるでアクション映画のワンシーンのようだ。走る音と怒号。サイレンの音が近づいてくる。
「被疑者、確保!」
屈強な男性二人に腕を取られて裏口から現れたのは、なまえがつい先刻電話を受けた男、かつては好きだと思い込んでいたあの男だった。目の前で警察車両に乗せられていく姿を呆然と見る。
静かな足音が背後に聞こえ振り返ったなまえは言葉を失った。立っていたのは初めて見た時と同じスーツを着た斎藤だった。





「あんたは無関係だとわかっている。怯えなくていい。今日はゆっくり休め」
「あの……」
「なんだ?」
「斎藤さんて言うんですね」
「名を伏せたのは任務の為だ。嫌な思いをさせたならばすまなかった」
「……私のこと、見張ってたんですか、ずっと?」
なまえの部屋の玄関先まで送ってきた斎藤は、足先を返そうとしかけて動きを止めた。
「あの時の……あの、キスも、」
「…………」
「いえ、わかってます。あれもあの人を捕まえる為で、それが斎藤さんの仕事だからですよね」
「……俺は、」
「ごめんなさい、変なこと言って。気にしないでください。送っていただいて、ありがとうございました」
声を震わせたなまえが閉じようとしたドアを、斎藤の手が止めた。驚いて見上げたなまえは、次の瞬間に素早くドアの内側に身体を滑りこませた斎藤の手に両の二の腕を掴まれていた。
今まで見たどんな時とも違う。藍のその瞳が揺れた。
「あんたでなければ……あんなことは、しなかった」
「…………」
「何故、あのホテルへ行った」
「…………」
「警戒心を持てと言っただろう」
「だって……、私、もう一度会いたかったんです、あなたに。あの人が斎藤さんのことを言ったから、だから居場所を知ってるのかと思った。あのお金もまだ返してないし」
「金はいい。あんたにかけた迷惑料だ」
「私、いつだって受け身だった。自分から会いたいと思ったの、初めてなんです」
なまえが胸を押して身体を少し離し俯けば、斎藤は僅かに屈んでなまえの瞳を切なげに見つめた。
「あんたは俺という人間を知らない。そう簡単に言わないでくれ」
「簡単なんかじゃ……ない」
こんな目をする人だから。
仔犬の話にこの綺麗な藍色の瞳を細めた。あの仔犬はこの人の腕にあんなにも安心しきって抱かれていた。
「騙されてもいいですよ。斎藤さんになら私……」
すべてを言い終わる前に、口唇が塞がれる。二の腕を捉えていた手がなまえの身体を壁に押し付ける。目を見開いたなまえは、睫毛を伏せ顔を傾けた斎藤を間近に見て、そうしてゆっくりと目を閉じた。





――全文は年齢条件を満たす方のみBehind The Scene* にて閲覧ください――





目眩の来るような刹那の至福と裏腹に斎藤は絶望を感じていた。
欺き続ける男にあんたは耐えられるか?
いや、そうではない。耐えて苦しむなまえを見続けることに俺の方こそが耐えられなくなるだろう。彼女だけは傷つけたくない。普通の幸せを奪いたくない。だからこれ一度きりだ。
決して言葉にできぬと最初からわかっていた。裏社会を生きる自分が「なまえを愛してしまった」などとは。



2016/05/10

▼鞠様

鞠さん、このたびは100万打企画にご参加くださりありがとうございました。リクエストは『現代で斎藤さんが刑事の話。控えめながらも強引な斎藤さん』となっておりました。鞠さんとのメールのやり取りで公安捜査官でということになりまして (公安は一般に知られている刑事さんとは少し違い特殊ですのでこんなになっちゃったのですが)だ、大丈夫でしょうか……。前にもどこかに書いたような気がしますが、御陵衛士に間者として潜入した斎藤さんの任務と公安捜査というものが非常に似通ったものに感じていまして、斎藤さんが警察官というとこればっかりが浮かんでしまいまして。公安のお仕事はなかなか一口には語れませんし秘匿部分が多く調べても限界があり(言い訳)半分くらいは捏造してますし、作中警察組織がごっちゃになっている部分もありますがご了承いただきたく思います。またストーリー(というか説明)が長くなり裏がほんのちょっとになってしまいましてすみません。でも実は前半を削りに削りまして、それでも今回こそ短編としては過去最長の長さとなりました!思いっきり趣味に走ってしまって申し訳ないです。しかもラスト……公安捜査官のハッピーエンドが難しく甘め指定を特にいただいていなかったのでこのように……ほんとにすみません。ご笑納いただけますと幸いです。鞠さん、この度はリクエストをありがとうございました。





MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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