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あたたかな雨が包む


空は幾分曇っているようだが、狭い戸口の擦りガラスから差し入る光は明るくあたたかい。昨日は真冬のように冷え込み今朝も随分と気温が低かったが昼頃からはこの通りだ。身につけた白いシャツの袖をめくり、春先の気候というのはわからんと立って行って電気ストーブを切り、手にしたはたきで天井に届くほどの本棚の埃を一通り払う。
バイト先は古本屋で、俺のしているのは店番だ。それは昨今流行りのチェーン展開をするような企業店舗ではなく、昼間から眠たそうな初老の親父が趣味なのか仕事なのか、曖昧な営業形態でもって細々と開いている古ぼけた店である。
紹介されて始めたここのバイト料は時給にすればそうたいした金額ではないが、というよりも聞けば驚くような低賃金とも言えるのだが、大学の授業の合間にいつ来ても良いという鷹揚な条件であり、それは学生にしてみればまことに魅力的であった。

「頑張ってる、一君?」
「何か用か」
「ううん、別に。近くまで来たから」

気が向くと顔を出すこの男は友人の沖田総司だ。頑張るほどの仕事量でない事は一目瞭然だろう。
憮然とする俺を気にも留めず、総司は隅に畳んであるパイプ椅子を勝手に引きずってきて広げ腰掛けて、俺の興味をまるで引かぬ話を始める。俺と異なり総司は付き合いの幅が広く、少し前まで忙し気にしていた癖に、どういうつもりかここのところ日参していた。
俺がバイトに行った日は、奥で昼寝をするか小銭を持っていそいそと出かけて行くのが常のここの親父だが、たまたまこの日は出掛けずに奥にいて総司の声に反応したのか、不愛想な声で「いらっしゃい」と言いながら盆に茶を載せて出てきた。

「こいつは客ではありません」
「ん? いいじゃないの」
「小父さん、いつもすいませーん」
「用がないなら帰れ、総司」
「ええ、なにそれ」
「客のつもりならば、あれを買って行ってはどうだ」
「僕、古典はちょっと」

俺が指を差したのは今日入ったばかりの古典文学全集だ。全80巻で2万円の値がついている。これもそうだが、売れる当てもない英語原文のミステリー全集であったり、古い生活雑誌のバックナンバーの類であったり、いつのまにかどこからか買い取ってくる親父のセレクトは、果たして商売をする気があるのかどうなのか甚だ疑問だ。総司が来ると口調とは全く裏腹に見せる彼の好意も、正直に言えば些か迷惑である。今日のような場合は特に。おかげで総司は調子に乗って長居を決め込む。
俺には予感があったのだ。
全集の話はどちらへともなく漏らした皮肉のつもりだったがどちらにも通じず、親父は奥(つまりそこがこの経営者の住居部分である)へ引っ込み、呑気に湯呑を手に取る総司のどこ吹く風な態度が忌々しい。眉を寄せ見上げれば、壁掛けの古い時計が間もなく16時を指す。
表の擦りガラスが控えめな音を立てて開いた。心臓が跳ねた。
出身は地方都市であり現在は親元を離れて学生生活を送っている俺は、苦学生というわけではなくまた特に遊び人でもない。月々に仕送りを受けているが普通に過ごしていればその範囲内で生活は十分に賄える。
それでもこのバイトを引き受けたのには理由が二つあった。一つは単に俺の住むアパートの徒歩圏内だったということだ。そしてもう一つは先ほども言ったように、曜日や時間に縛られずに済むその自由さであった。仕事内容も同じく気楽なもので、奥へと続くスペースに置かれた勘定台の机の前に腰掛けてさえいれば、日がな一日好きな本を読んでいても良く、何となれば大学の課題に取り組んでいても良いと言われている。
そういったわけで始めたバイトであるが、床を箒ではいてもごく狭い店の掃除など15分もかからず、稀に冷やかしに入ってくる客がいたとしても財布を出して俺に話しかけてくることがまずない。
如何な安いバイト料であってもここですることは到底労働とは言えなかった。矛盾するようだが始めて一月ほど経った頃、どうにも申し訳ないと言う気持ちが起こった俺は辞めようと考えた。しかし結局辞めることが出来ぬままもう半年になるのは、続けたいと思う新たな理由が出来てしまったからだった。それは無論総司の来訪とは無関係である。
果たして予感は当たった。
その瞬間己の左胸をぎゅっと強く掴みたい心地で顔を上げた俺はその仕草こそ控えたものの、戸口の向こうから姿を見せたスーツ姿の女性を認めいっとき息を止めた。
待ち人というのは何故望んだ時には来ずに、望まない時に限って現れるのだろうか。

「……いらっしゃい」

客に向けて言う科白は使い慣れていない。何しろろくに客など来ない店だ。それでも口の中だけで歓迎の意を表してみるが、それはきっと彼女には届いていない。
大き目の鞄を持ち腕にトレンチコートをかけた彼女の纏う明るいグレーのスーツは、襟や袖口に黒いパイピングが施された品の良いデザインであり、黒いインナーに添う細いチェーンの先に光るのは恐らくダイヤで、その凛とした佇まいから彼女が仕事を持つ女性とすぐに察せられる。俺よりも幾つか歳も上であろう。
彼女が不定期にここに立ち寄ってくれたのは回数にして優に10回を超えている。なにか余程気に入ったものでもあったのか、訪れればいつも手にとった本を真剣に読んでいる。彼女の方も俺の顔程度は見憶えてくれているのだろうとは思うがまだ一言も話をしたことがなかった。
無論話したくなかったわけではない。ただどういうきっかけで話しかけてよいのかがわからないのだ。
普通の書店と違いこの店に関しては店主の意向で立ち読み大歓迎であるが、その都度いちいち客と言葉を交わすことはない。せいぜい万引きをされない程度に目配りをするくらいだ。
一度こちらを見た彼女が控えめに微笑む。
その笑顔に瞬時にして頭に血の上った俺は、己の顔面が恐らく茹で上がったばかりの蛸のように真っ赤になっていることを、確かめずとも容易く自覚できた。彼女に当てていた視線を下げて俯けば、茶を啜っていた総司が湯呑を置いて俺を見、続いてつい今まで俺の視線の向いていた先を見る。そしてまた俺に目を戻す。

「ねえねえ、一君。綺麗な人だね、常連さん?」
「知らん」
「知らんてことないでしょ。こっち見てるよ」
「知らんと言っている」
「……ふうん。なるほどね」

彼女と俺を見比べただけで、全てを悟ったように総司はニヤリと笑った。潜めた声で耳打ちしてくるが、彼女に聞こえてしまわないかとひどく気にかかる。目を逸らしても彼はしつこく続け、勝手に結論を出してまた笑った。これだから嫌だったのだ。
口惜しいが実際に総司が想像している通りなのだ。
俺はこの店の数少ない客の一人である彼女に、一目惚れと言う名の片恋をしていた。
「何か、探しものでもあるのか」と幾度問おうと思ったかわからない。俺はこの店の店員の立場ゆえ、決して不自然ではない筈だと己に言い聞かせ、だが毎回喉元まで上るその言葉を、ついぞ口には出せないままに終わるのが通例だった。
しかし今度こそは、と。
彼女が訪れるたびに俺は密かにその姿を見つめていた。己がこのような感情に陥るなど信じがたかったが、本に目を落とす横顔も、ページを捲る細い指先の動きも、先ほど見せたあの笑顔も、何もかもに憧れいつしか捕われていた。
総司さえいなかったら、今度こそは彼女に話しかけたいと、今日もそう思っていたのだ。





18時を過ぎる頃、寝起きの顔で出てきた親父が「今日はもういいよ」と言うので店を後にした。
総司をやり過ごして読書に耽っている間に、それは正確には平常心を保つ為本に没頭しようという我ながら涙ぐましい努力だったのだが、彼女は静かに店を出て行ってしまった。
小一時間ほど前に総司が口にした合コンの誘いを一蹴すれば「一君目当ての子が結構いるんだよ。せっかく待ってたのに」と彼は膨れたが、待たせた覚えはない上、迷惑をしたのはこちらの方だと独り言ちる。
気温は依然として高く、すっかり春めいたような宵が始まっていた。白いシャツに薄手のジャケットを羽織っただけで充分なあたたかさだった。駅へ向かう総司と別れて歩き始め幾分も行かぬうちに、頬を湿った風が撫で、次の瞬間水滴が触れた。今朝の気象情報で雨とは言っていなかったように思うが、間もなく雨粒は数を増やし、本格的な降りになった。
こう言った無駄は好きではないが致し方ないと、ビニール傘を買うために俺も駅方向に踵を返し、立ち寄ったコンビニの入り口で足が止まる。
店内に思いがけず再び見かけたグレーのスーツ姿。俺の心臓がまた大きく跳ねた。
それは間違いない、先程まで俺の古本屋にいたあの彼女だった。
予測にない状況というものを非常に苦手としていた。それは俺の一種の弱点とも言える。不意の出会いに面食らって意図せずにUターンをしかけるが、コンビニ独特の入店音が鳴り響き彼女が振り返る。目を見開いて手にしていたスマートフォンを閉じる素振りを見せ、そうして俺に近づいてくる。
背を向けかけた俺の腕を彼女が掴んだ。ビクリとして彼女をつい凝視すれば、その表情は何やら切羽詰まっていた。中途半端な姿勢で立ち止まった俺の心臓は、どくどくと痛いほどに音を響かせた。

「斎藤くん……」
「…………、」
「……ですよね?」
「な、なにゆえ、名を」
「古本屋さんの小父さんにそう呼ばれてたと思って……違ったかな」
「ち、違わないが………」
「斎藤くん、あの、とても迷惑だとは思うんだけど……、お願いがあるんです。私のこと、なまえって呼んでくれないかしら」
「…………は?」





それからこの現状に至ったのは、どのような天の悪戯だったのか。目覚めたのは俺の部屋のベッドで、そしてこともあろうに俺の腕の中には彼女が眠っていた。
ベッドサイドの明かりが灯るばかりの静かな部屋で、しとしとと雨音が鳴っていた。

「何故……、」

呆けた頭にはその言葉しか浮かばなかった。
必死で記憶を辿ってみる。
曰く彼女のお願いと言うのはこうだった。
彼女、もといみょうじなまえはとある会社の企画コンサルタントをしており、あの古本屋の付近に担当するクライアントが一件あるのだと言う。相手の担当者は若い男性で、仕事にかこつけて頻繁にプライベートの誘いをかけてくるのに長い間辟易していたが、今日も例のごとく執拗に誘われてしまい、ついうっかりと恋人と先約があると答えてしまった。挙句そのクライアントが相手の男に会わせろと迫ったらしい。

「ま、まさかとは思うが、俺に、恋人の役を?」
「知り合いと言うわけでもないのに、突然にこんなお願いをするのは失礼だってことは重々承知なの。ごめんなさい。それにあなた若いし、本当に申し訳ないと思うんだけど……、私、もともと男友達が少なくて、心当たりを当たっても誰も引き受けてくれなくて困ってしまって。あの、何ならバイト料を払ってもいいの。お願い出来ないかしら……」

俺は口が上手いわけではない。嘘を吐くのも苦手だ。本来ならば到底無理な役回りである。
それなのにしばしの逡巡の後頷いてしまったのは、言うまでもなく相手がなまえだったからだ。そうでなければ引き受けるわけはなかったのだ。一度頷いた以上あとには引けなくなり、そのコンビニで彼女の購入した一本の傘を二人でさし、俺は彼女と共にその男が待っているという居酒屋に向うこととなった。
全く、どうかしていたとしか思えぬ展開だった。
結果俺はその男に対してなまえの恋人と偽るのに抵抗があった為、ひたすら彼女への想いを不器用にそして切々と語ることになる。なまえがどう思ったかはわからなかったが、俺にしてみれば放った言葉は一つも嘘ではなかった。その間中胸は痛いほどに鳴ったまま。
なまえの笑顔が好きだと。なまえをもっと知りたい、そして俺を知って欲しいと。俺はしがない学生の身分ではあるが、これから努力をしてなまえに必要とされる男に必ずなると。そしてなまえを誰にも渡したくないと。
普段の俺を知る者がもしこの光景を見ていたら相当滑稽に映っただろうと思う。特にあの総司などは腹を抱えて笑ったことだろう。
俺は相手の男にデモンストレーションをしているのか、それとも隠し持っていた己の本音をぶちまけているのか、途中からよくわからなくなっていた。隣に座る彼女の顔などとても見られたものではなかったが、最初のうちこそ怪訝そうに俺を見ていた男は、最終的には呆れ顔をして早々に退散してくれた。その時点で一先ず役目は果たした筈であった。
男が姿を消した後安堵の表情をしたなまえは財布を取り出し、本気でバイト料とやらを俺に支払おうとしたがそれは当然固辞した。ならばせめて食事を奢らせてくれと言われ、そうしてそこに二人で腰を据えることになり、俺は憧れた女性と差しで酒を飲むという降って湧いたような幸運に浴することとなったのだ。
そこまではよかったと言えない事もなかった。問題はそこからだった。
ベッドの上で我に返り、なまえの首の下から上腕を抜き、身体を起こして見下ろせば、彼女の上半身は細い肩紐の薄い下着のみだ。横臥している為胸の膨らみが殊更に目立つ。羽毛布団の下に隠れているなまえの下肢がどういう状態にあるのか、とても確かめる勇気が出ない。そうして俺自身の状態を確認すれば、下にチノパンを履いたままではあるものの、上には何も着ていない。俺は剥き出しの腕で彼女の身体を抱いて眠っていたのだ。
これは一体どういう状況だ。何故俺のベッドになまえが眠っているのか。どういう経緯でこうなったのか。そして何よりも眠りにつく前にここで、この俺のベッドの上で何があったのか、それとも何もなかったのか。
全くこのようなことはあり得ないと言う他はないが、酒の途中からぷっつりと記憶が途切れていた。俺は酒に弱い方ではないと自負していたが、今夜ばかりは極度の緊張のためか、かなりの量を飲んだ自覚が確かにあった。
なまえを起こして聞いてみるのが一番良いのだとはわかっている。しかし彼女の肩に触れようとした手は宙で止まり、呼びかけようとした声は掠れて上手く発声できない。何故ならば、辛うじて身に着けている俺のチノパンの一箇所が、間違いなく男としての興奮を顕著に表していることに気づいたからだ。
微かに身じろいだだけで眠り続けるなまえの薄く開いた唇は薄桃色で、僅かにアルコールの香る呼気は誘うように甘い。見つめていればまるで磁石に引き寄せられるようについ顔を近づけてしまう。
現状から見て、何かがあったとしてもなかったとしても、これでは言い逃れなど不可能だろう。本当の恋人でもないのに自室に連れ込みここにこうしているだけで、十分に不埒と言えるだろう。だとしたら今この口唇に触れても、俺の罪に大差はないのではないだろうか。
……いや、そうではない。
俺はなけなしの理性を掻き集め、弾かれたように身を起こす。
無意識の事故と意識的な行為とでは大きく違う。窮地を助けてくれたはずの男の方こそが不届き者だったと知ったならば、なまえはきっと傷つき最悪の場合は軽蔑され二度と会えなくなる。意識のはっきりした状態で某かの行為に及べば、先ほどの居酒屋であの男に語ったことが本心であるといくら説明しても説得力はなく、欲に流された男の卑怯な言い訳にしか聞こえぬのが道理だ。なまえから見た俺は、本来あのクライアントを撃退するためのパフォーマンスの協力者に過ぎないのだ。
だが実際に今、このようなことになっている。これではいずれにせよもう告白どころではないだろう。
悔やんでも今更だが俺は一体どれほど酒を飲んだのだろうか。酒代はもしやなまえが全て払ったのか?幾らアクシデントのようなものとは言え、好きな女性と食事を共にするのに、支払いをさせたとなれば男として立つ瀬がない。財布の中身を確認したいが、ベッドから降りなければその在り処もわからず、そうすればスプリングの振動でなまえが目を覚ましてしまうかもしれぬ。
思考はめまぐるしく脳内を駆け巡るがそこに出口はなく、当然まともな結論などは出ず、俺にはもうどうしてよいのかわからなくなっていた。両手を髪に差し込んで掻きむしりたくなる。
それにしてもなまえの寝顔はなんと愛らしいのだろうか。目覚めている時は臈長けて整った面立ちだが、目を閉じると長い睫毛のせいか幾分あどけなく見える。ほんの数時間前までこの顔を正面から見ることすらできなかったのに。
バイトに行くたびに心のどこかでなまえの訪れを待ち、やっと姿を見せてくれても気づかれない様腐心しつつその姿を見つめ、そうやって半年近くの間いつ会えるともわからぬ彼女を慕い続けてきた。
雨音は途切れることなく鳴っている。
取り留めのない思考は続く。
なまえが目覚めたらどのような顔をすればよいだろう。謝るべきだろうか。彼女はどのような反応をするのか。当然帰るというだろう。その場合一人で帰らせるのはとても気が進まない。このような深夜だ。第一住まいは何処なのか。俺はなまえのことを何も知らない。
そこでふと気づく。
目覚めたなまえは半裸の男が目の前にいると知れば驚くだろう。
些か慌ててベッドの下に目をやれば、求める俺のシャツはすぐに見つかり咄嗟に手を伸ばした。そのはずみに思いの外ギジリと大きくベッドが軋んだ。

「……斎藤くん」
「…………!」

ベッドの軋む音よりも大きく心臓が鳴った。片手はなまえの身体の横へつき、床へともう一方の手を伸ばした格好のままで俺はピシリと固まる。

「ごめんね……」
「……な、なにを、謝る……」

掴みかけたシャツはまた手を離れ、恐る恐るなまえに視線を戻せば、彼女は濡れたような瞳で俺を見つめた。

「酔っ払って、こんなふうに」
「…………っ、それは俺の方も……、あんたには、記憶があるのか」
「あるよ。だって…………私の仕掛けたことだもの」
「…………仕掛けた、とは……」

なまえの言葉は謎掛けのようにまるで意味がわからなかった。瞠目したまま見下ろす俺の頬に白い手が伸びてくる。なまえの指が俺の頬に触れている。細い指先はあたたかく、その感触が瞬時には信じられない。
俺は固まったままで、恐らくはかなり間の抜けた表情で、されるままにただ見下すことしか出来ず、俺を見上げていたなまえは今にも泣きそうな目を僅かに逸らした。

「ごめんね。斎藤くんのこと、半分騙したみたいになって」
「……騙した?」
「あのクライアントさんのことは本当なんだけど、むしろあちらをダシにしてしまったというか……」
「意味がよく……、」
「私、最初から……いつかって思ってて……でも今日は酔っちゃって、ごめんなさい」
「いつか?」
「きっかけが、欲しくて、」

意識を離れ本能だけで伸ばした俺の手も、気づけばなまえの頬に触れていた。互いの頬を包み合うような格好で見つめ合う。
彼女が何を言おうとしているのか。わかるようでわからず、だがわかりたくて、突き破りそうなほど激しく暴れる心臓の音がきっと彼女の耳に届いているに違いないと思うが、鼓動はどうにも治まりようがない。目の前にいて俺を見つめるなまえの存在が、未だどこか信じられないような心地でありながらも浮かれ上がりそうだった。
これは本当に夢ではないのだろうか。

「出来れば、その、もう少しわかるように、言ってくれないか」
「つ、つまり、私……、斎藤くんのこと、す…………」
「ま、待て、やはり、」

口の上手くない、ましてや恋愛になど全く慣れぬ鈍い俺であっても、なまえの言葉をここまで聞けば、わからぬわけがない。
俺に言葉を遮られたまま、一度黙った彼女はじっと俺を見つめる。

「お、俺から言いたい」
「…………」
「初めてあんたが店に来た日、一目惚れをした」
「……うそ、」
「嘘ではない」

もっと直接に伝えたいと衝動に突き動かされた俺は、上体を彼女にかぶせるように重ね、薄桃色の唇に己のそれを押し当てた。なまえの唇はくらりとするほどに甘かった。細い背とシーツの間に両腕を入れて抱きしめれば、俺の裸の胸に薄い下着越しの彼女の膨らみが柔らかく密着し、どうしようもなくなった下肢の中心だけを下ろせずにいる俺に気づいたのか、なまえは一度下を見て笑う。熱くなった顔を見られることが恥ずかしく、ひたすらキスを落とせば身を捩って両手で俺の頬を包み、濡れた瞳で俺の目を覗きこむ。
頭のネジが今にも飛びそうだ。なまえが好きだと幾度も口をついて出る。
居酒屋で散々に繰り返した言葉をまたここで言うのは滑稽かもしれぬ。だがどうせ最初から俺の行動も言動もすべてが滑稽で稚拙だったのだ。
何もかもが夢のようだと思いながら、しかし幸福感にゆっくりと満たされてゆく。

「同じ、だったんだ……」
「そうなのだな。ただ、この状況は、……その……し、してしまったのだろうか、俺は、じゅ、順番を、違えて」
「……まだ」
「まだ?」
「だって、斎藤くんが……途中で寝ちゃったから……だから未遂」
「……そ、そうか」
「これからいっぱい斎藤くんのことを知りたいな」
「ああ、俺も……、」

初めてなまえを抱くという行為を、少なくとも無意識のうちに終わらせたわけではないという、それだけは心からよかったと安堵した。
あたたかな春の雨はしとしとと降り続いている。今が何時なのか確かめることも忘れていた。やがてどちらからともなく言葉は途切れ、いくども唇を重ねあい、雨音だけに包まれて手を伸ばしあい、俺達は互いを求め互いの身体をきつく抱きしめ合う。



2016/03/23

▼梅花様

梅花さん、100万打企画にご参加くださりありがとうございます。いただきましたリクエストは『歳上ヒロインに一目惚れして、振り向かせたくて一生懸命な余裕のない斉藤さん』ということでこのようになりました。ヒロインの年上感が上手く出せずに斎藤さんの不器用さばかりが前面に出てしまった感がありますが、どうも沖田さんが絡むとうちの斎藤さんは実力が出てしまうようです(←なんの?いじられ挙動不審の?)
幕末と現代のどちらでもということでしたので現パロで書かせていただきました。今回はまた字数が歴代リクエスト作品としては間違いなくトップ3に入る長さとなってしまいまして、裏についてはこれもどちらでもと仰っていただいていたのでほんのり匂わせる程度となり鍵はつけておりません。梅花さんの気に入っていただけるか少し心配ですがエイッ!と上げてしまいます。少しでも楽しんで頂けましたら幸いです。この度はリクエストをいただきましてありがとうございました。





MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

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