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見えない夜の行方


黒雲が朝から低く垂れこめていた。

「斎藤さん、どうぞ」

華奢な手が俺に飯椀を差し出す。先程からずっと目を離せずに見つめていたその手は水仕事のせいで少し荒れてはいるが白く滑らかで、どこから見ても柔らかな女のものである。
受け取りながら思わず知らずその指先に触れかけて、不意に顔が強張るのを己で自覚する。見上げたなまえは今日も愛らしく、僅かに気遣わしげに小首を傾げた。

「斎藤さん? どうかしましたか?」
「いや」
「どこか、具合でも?」
「何ともない」
「おーい、そこ何やってんだ? もう腹が高鳴っちまってよう。俺の飯も早くしてくれよ、なまえちゃん」
「あ、すみません。只今すぐに」

なまえは俺の短い返答に触れかけた指をすっと引き、絡んだ視線を外すと慌てて新八に飯をよそった椀を手渡した。
喧騒に満ちた広間の朝餉の様子はいつもと何ら変わりない。
隙をついて新八の膳からめざしを取り上げた平助が顔面に拳を喰らっている様さえ、珍しくもなんともない光景だ。己の分を取り返しついでに平助のめざしを奪って齧り付く新八の高笑い。それに肩を震わせる総司も「てめえら、うるせえぞ」と怒声を上げる副長も、騒ぎを他所に「なまえの味噌汁は最高だな」と褒める左之も。
そしてなまえも。
もう一年程も経つだろうか。あれからなまえは俺を”斎藤さん”と呼ぶようになった。今ではそれに誰も違和感を覚えることもない。
黙々と俺は飯を口に運ぶ。
気づけば傍らに座ったなまえが戸惑ったような瞳で俺を覗き込んでいた。

「やっぱりお顔の色が少しよくないみたいです、斎藤さん……」
「何ともないと言っただろう」

幾分尖った俺の声になまえが身を固くする。
胸の奥がきりりと痛む。
何の罪もない彼女を寧ろこちらが気遣い労わってやらねばならぬというのに。しかしどれほどすまないと思えども、俺だけは時が経っても一向に慣れることが出来ぬのだ。
あんたに”斎藤さん”と呼ばれることに。
かつて触れたその指にもその身にも、もはや容易く触れることの叶わぬ今の己に。
このような薄暗い雨催いの朝は殊更に胸が痛む。





一年前のあの日――。
いきなり降り出した驟雨はその雨脚を弱めたかと思うとすぐにまた刺す様な強さで降り注ぎ、なまえと共に町外れまで出ていた斎藤は彼女の浅葱色の肩を引き寄せるようにしながら道を急いでいた。
遠雷が聞こえている。

「酷い降りだ。大丈夫か、なまえ?」
「はい、はじめさん。……あ、すみません、斎藤組長」
「他に誰もおらぬ故、かまわぬ」

うっかりと親しい呼び方をしてしまい頬を染めるなまえを見返し斎藤の頬が緩んだ。なまえは斎藤の束ねる三番組の隊士であり、想い人でもあった。
人影の途絶えた往来でつい足を止めた彼はなまえを抱き締めて唇に触れる。
互いに濡れ鼠になりながら面映ゆく笑み交わした後、水煙を立てる雨の飛沫を跳ね上げて再び足を急がせた。
まだ屯所までかなりの距離を残した地点で二人の前に唐突に黒い影が立ち塞がる。

「命、頂戴する」

土砂降りの中で黒い影が低く吠えた。素早く目視したところ敵は三名。京の街で浪士を取り締る新選組にとってこのようなことは枚挙に暇がない。
問答無用に斬りかかってきた男を見据え左手で瞬時鯉口を切った斎藤が、目にも止まらぬ速さで鞘を擦り上げれば男は声もなくその場に沈んだ。
同時に左側にいたなまえも素早く身を翻し、無言のまま右手に握った刀の柄を左手で強く押し男の脇腹に刃先を突き入れた。男の手から離れた抜き身が近くの大木の幹まで飛んで突き刺さる。
雨で滑る柄を握り直した斎藤が三人目に向かえば「……か、勘弁してくれ」と及び腰で背を見せ、刀の峰をその肩に振り下ろせば呆気なく泥水の上に崩れ落ちた。
これだけのことを呼吸も乱さずに済ませるのも日常茶飯事であった。

「大事ないか」

懐紙で刀身の血脂を拭い鞘に収めながら振り返れば、なまえの水を含んだ浅葱は濃い青色に、濡れそぼった髪を頬に張り付かせた彼女が、唇を蒼白にして頽れていくのを斎藤の目が捉える。

「なまえ、どうした……っ」

不意に雷鳴が近く鳴り響く。天空を切り裂いて稲妻が閃き、抱き起したなまえの雨に打たれた細面を浮かび上がらせる。彼女は瞳を固く閉じ斎藤が手で触れた頬は火のように熱かった。
雨を弾く血濡れの太刀が傍らに落ち、剣だこの固く凝った華奢な手のひらは投げ出されていた。


感冒だろうと思われた高熱は一晩で引き胸を撫で下ろしたのはほんの一時だった。
良順医師と共に付き添っていた俺は安堵から一転して奈落に突き落とされたような心持がした。

「ここは、何処ですか」

目覚めたなまえの唇からは誰もが耳を疑うような言葉が零れ落ちたのだ。
渋面を浮かべた副長の眉間の皺が深くなる。俺は常から物事に動じない性質だったがこの時ばかりは激しく動揺し何も考えられなくなった。

「松本先生の診立てじゃ身体の何処も悪くねえって話だ。ただ自分が誰かってことが解らなくなっちまってるらしい」
「…………」
「お前の報告に不備があると思っちゃいねえしお前に落ち度はねえ。だが、こうなっちまった事実は事実だ。なまえを三番隊から外す」

彼女は新選組も此処にいる皆の顔も名も、そして俺と心を通わせた事さえ全てその記憶から消し去ってしまったのだ。
日常生活を送るには支障がなく身体も直ぐに回復した。生まれついての勤勉さや労を厭わずに身体を動かすことは記憶を失う前から変わってはいない。
しかし今のなまえを斬り合いの絶えぬ市中に隊士として出す事等、元より出来る道理もない。
なまえは内勤として自然と家事や賄いなどを受け持つようになった。
男装をこそ続けていたが女性らしく立ち働くなまえの姿にいつしか皆が慣れて行った。





昼には止んだ雨が今にもまた降り出しそうに、黒く重い雲が急速に空を覆っていく。

「土方さんがこんな日に行かせるから」
「仕方ねえだろう、本人が行くって聞かなかったんだ」

斎藤が回り廊下を伝っていくと縁から空を見上げる副長と総司に出くわした。
二人の不穏げな様子に「どうかしましたか」と問えば、そこへ巡察から戻った左之と平助がやって来た。

「もう雨が来そうだぜ」
「左之さんも平助もお帰り。なまえちゃんとどっかで会わなかった?」
「会ってねえけど、なんかあったのか?」
「使いに出たっきり半時戻らねえ」

行き先は直ぐそこだったんだが、と言いながら土方が見遣れば皆もさりげなく斎藤に視線をやる。
あの日と同じような遠雷が俄かに耳に届く。斎藤の顔色が変わった。

「やべえじゃん。俺もういっぺん見てくるわ」
「浪士に絡まれちゃいけねえしな。俺も行くぜ」

左之と平助の背を見送る斎藤の瞳は暗い藍色をしていた。

「……なまえも剣は使える筈だ。身体が覚えたことは忘れぬと聞いている」
「やせ我慢もいい加減にしなよ一君。今の音、聞こえたでしょ」
「…………」
「こんな時に万一襲われたらひとたまりもないよね。まあ、君はそうやっていつまでも拗ねてればいいよ」

吐き捨てるように言って総司が玄関へと向かう。
身体はすっかり回復してもあの時以来、なまえは極度に雷を恐れるようになった。
折しも割れるような落雷の音が思いの外近くに響く。
斎藤がふいに踵を返した。





「何処にいる」

屯所を出てから随分経つ。宵が迫り豪雨はついに一寸先も見えぬ程に強さを増していた。
傘も持たずに出てきた斎藤はしとどに濡れ、髪から雨雫を滴らせながら当て所なくなまえを捜し歩く。
見上げた暗い空を稲妻が縫って鋭く走る様は、まるで己の痛みが形となって現われたように見えた。目も眩むような閃光に照らされた斎藤の濡れた顔が苦悶に歪む。

「何処にいるのだ、なまえ」

記憶を失くしたなまえに俺との関係を告げはしなかった。なまえにしてみれば今や俺は得体の知れない男でしかない。恋仲だと言われて戸惑う彼女を見るのはやりきれないと思った。
俺は無力な男だ。
過ぎ去った儚い日々を憂うばかりに冷えた手を固く握り締めることしか出来ず。

「なまえ」

想いが消えたわけでは決してない。それだと言うのに俺は己の苦しみに囚われるばかりで誰よりも大切な唯一人を見失おうとしていた。
なまえの方がどれほど心許なく寄る辺ない思いでいるかなど解り切っていたのに。


足が向いたのはあの日共に浪士を倒した場所だった。自覚もないままに斎藤はいつしか其処へと辿り着いて居た。
闇を切り裂く稲妻と地を揺るがす程の雷鳴が轟いた刹那、なまえの小さな悲鳴が何処からか聞こえた。

「きゃ、」
「なまえか?」
「さ、さいと、さん……?」
「近くにいるのか?何処だ、」
「……ここ、です」

濡れた前髪を掻き上げ目を凝らせば大木の下になまえが蹲っていた。
安堵の息をつき駆け寄れば肩を細かく震わせた彼女は、青褪めた唇と怯えた瞳で斎藤の胸に手を伸ばす。

「無事か」
「斎藤さん……っ、」

思い詰めたように己を呼ぶか細い声に恋い焦がれた日の想いが甦る。

これほどに愛しい人を、俺は。
何故なまえから目を背けようなどと、俺は。

なまえの中に過去の記憶があろうとなかろうとそれは些細な事なのではないか。
己の心に逆らわずに求めてもいいのではないか。
切なく狂おしい想いが込み上げなまえに触れようとした時。
また空が鋭く光った。

「きゃあっ!」
「木の下は危険だ。此方へ来い」

此処から程ない場所に新選組の持ち物である空き家があった事を思い出す。以前幹部隊士の休息所として使われていた其処はまだ残っていた。
建付けの悪い戸には運よく閂がかかっていなかったが、長い事人が踏み入れた気配がなく、手入れはされておらず灯りもない。まるで廃屋のようだが屋根があるだけましだと思った斎藤は、なまえを引き入れて戸を閉じる。
激しく打つ雨の音が聞こえるのみで、辺りは漆黒の闇。なかなか目が慣れぬ屋内の様子を探ろうと斎藤が壁に添って検分にかかる。
身に着けたずぶ濡れの着物をなんとかせねばなるまい。またなまえが体調を崩してしまってはよくない。
雨音に混じりなまえの速い息遣いが微かに聞こえた。

「なまえ、大丈夫か」
「さ、斎藤さん……わたし……っ」

不意に明り取りの木枠から青い光が射し込み内部を昼のように照らす。続く落雷の凄まじい音が耳をつんざく。

「きゃあぁぁっ!!」
「なまえっ」

悲鳴に手を伸ばせばなまえが必死な様子で斎藤の手に縋り付いた。
濡れた衣類を纏っていても伝わる温もりは、凛とした剣士だったなまえが過去に彼の前でだけ見せた、たおやかな姿態を目の裏に甦らせる。
なまえを愛した日々、彼女との全てを。
許されるのならばもう一度。
もしも拒まれても。
せめて胸の裡にある真実の想いを今あんたに伝えたい。
引き寄せて痛いほどの願いを込めてその身体をきつく抱き締めた。

「案ずるな。俺がついている、ずっと」

強い言葉に目を上げたなまえの瞳に映るのは、雷光に浮かび上がる研ぎ澄まされたような斎藤の相貌。青白い光に幾度も映し出される彼を凄絶に美しい、と思った。
限りない慈しみと強い愛情を湛えた藍の瞳が、僅かに切なさを滲ませなまえを真っ直ぐに見つめている。
引っ切り無しに響く雷鳴。恐ろしい音に竦む身体。
だが護られているのだと感じる。
背に回された腕は温かく、この人の傍に居れば何も怖いものなどないのだと確信のようなものがひたひたと心を満たす。
なまえは斎藤の胸をぎゅっと掴んだ。

「はじめ、さん……」

思わず口を突いて出た彼の名になまえ自身が衝撃を受ける。
自分を包んでいた斎藤の身体がびくりと跳ねたような感覚がした。

「なまえ……?」
「…………」
「いま、」
「わたし……、」
「俺の名を……」





腕の中に収まったままのなまえは未だ全てを思い出してはいなかった。だが、もう構わない。
俺があんたを愛している。今確かなのはそれだけかも知れぬが、もうそれでいいのだ。
頬に触れた俺の手になまえの睫毛が伏せられる。
手のひらからも確かな温もりが伝わる。
指先で頤を持ち上げればその瞳を閉じた。
この腕の中にいるのが愛しい女であると言う真実だけは何一つ変わってなどいないのだ。

「俺はなまえを愛している」
「はじめさん……、わたし……わたしも」

静かな幸福に身も心も包まれていく。
壊れても幾度失っても、その度にまた一から築いていけばいいのだな。
俺のこの想いはもう二度と変わることなど無いのだから。

「好きだ」

そう言って触れ合わせた唇は震えるほどに甘美だった。
ふいにまた青い稲妻が辺りを照らす。小さな声を上げ身を固くするなまえを力を込め抱き締める。

「俺のことだけを感じていろ」

薄く開きかけたなまえの唇の隙間へ舌を滑り込ませ、奥まで探るように深めていく。時折照らし出される青白い光の中で幾度も幾度も口づけを繰り返す。
やがてなまえの細い腕がゆっくりと俺の背に回された。
小さな頭を支えながら板敷の床に横たえ、唇を離さぬまま濡れた長着の襟に指を当てる。身じろぐ細い腰を引き寄せて片手で抱き締め前をゆっくりと割っていく。

「……あ、」
「濡れたままでは、風邪を引く」

我ながら滑稽な言い訳だとも思う。だが今直ぐにここで、あんたに触れたい。
剣だこのないしなやかな指に手を這わせ両手を繋ぎ合わせる。
なまえの顔の横に縫い留めて白い胸に幾つも唇を落としていけば、冷えた肌が徐々に色づいていった。
桜色の唇から甘い吐息が漏れだせばそれはやがて甘美な声へと変化していき、俺を陶酔へと運んでいく。
今俺はなまえと再びの恋に落ちる――。





2014/08/13
『あなたの愛でふれて』(夢主視点)Behind the Scene*→SHORT STORYへ続きます(R-18指定となっておりますので年齢条件を満たす方のみパスを入力の上)


▼みふゆ様

この度は20万打企画にご参加いただきましてありがとうございました!
みふゆちゃん、大変長らくお待たせしました!早速ですがいただきましたリクエスト内容はこのようになっておりました。
『話の中に雷を入れてもらいたいな…なんて思っております。幕末斎藤さんの切なさでも夢主に対する気持ちの激しさでもどちらでも構わないのですが、斎藤さんの持つあのストイックな感じと、暗闇に光る稲光みたいなものとが重なりあうような感じでお願いしたいです(//▽//)』
いや、滾りました。滾りましたんですが、いつも思うことですが、自然現象を表現するのって難しいですね(;´・∀・)
みふゆちゃんのご希望であった斎藤さんの緊迫した美しさを上手く表現できているかとても心配です。多分今回も敗北していますよね。そして雷には付き物の豪雨をじゃんじゃん降らせて濡れ濡れ斎藤さんもオマケに書いてみました///はい、実は斎藤さんを濡らすのが大好き///
とこのようにピンポイントで滾り過ぎてストーリーとしてはアレレーな感じになってしまいました。いつもながらすみませんですペコペコ。記憶喪失ってなんだよ。しかもヒロインちゃん思い出さないし。しかもなんだか中途半端だし。裏シーンの有無を微裏と(内心)設定していたのにこの半端加減。
このお話ではギリギリ鍵なしのところで寸止めとなってしまいましたが、でもですね、みふゆちゃん。これは久々に続編を書きたいなって気持ちになってしまいました。大好きなんです、じれじれと苦悶してからの濡れはじめさん(しつこい)……からのいろいろと解放!いつか(裏)書くぞ、絶対!
と言うわけでこんな感じになってしまいましたが、みふゆちゃんには(いろいろアレレですけど)ご笑納いただけますと幸いに思います。
この度は萌えるリクエストをありがとうございました。

aoi




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE