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うたかた


流麗な手つきでされる箸の上げ下ろしを我知らず見つめていた。俺の視線に気づきその白い小さな手を止めたなまえは僅かに小首を傾げる。

「旦那様?」
「…………」
「お代わりをおつけしますか?」
「……いや」

空になった椀を手にしたままでいた俺は、我に返り立ち上がった。これまでに幾度か聞いてはいたがまだ聞き慣れぬ呼び名と、不覚にも女子の仕草に目を奪われていた事に訳の分からぬ羞恥を感じ、微かに熱の上った頬を見られたくないが為に顔を逸らし、なまえの瞳が僅かに曇った事には気づくことが出来なかった。殊更に冷静を装う。

「家の中に居てまでそのような呼び方をする必要などあるまい」
「……はい」
「明日もある故、俺は先に休ませてもらおう」

もの言いたげな瞳を顧みることもせず、己の使った椀と箸を勝手場で手早く片づけ、畳を踏んで隣室へと逃げた。
事は一月ほど遡る。
深夜呼び出されて赴き「入れ」の声に副長の執務室の障子戸を開ければ、常と変わりなく書き物を広げた文机を背にして座る副長の隣に、見慣れない顔があった。身形は地味であるが白い細面に控えめだが整った目鼻立ち、漆黒の艶やかな髪。一目で印象的なそれらが目の裏に焼き付く。

「斎藤、この女と所帯を持て」
「は?」

言葉の意味を瞬時には理解できず、虚を突かれ二の句を告げずにいれば、副長が含み笑った。

「探索方として雇ったみょうじだ。当初は監察の山崎に相手になって貰うつもりだったんだがな」

副長命令は絶対である。既に周到に用意されていたこの家に、あの翌日からなまえと入った。
粗末な仮住まいではあったが、何処からか拾ってきた酒瓶様のものに道端に咲き乱れる初夏の花を活けて見せたり、通い奉公の仕事を終え戻れば俺の為に食事を整える。
なまえは笑顔の愛らしい女だった。任務の報告が終われば、まるで少女に戻ったように鈴を転がす声で語られる他愛のない話と屈託のない笑顔に、時に密かに心を和ませた。
彼女と起居を共にするようになりもう幾日になったか。粛々と任務を遂行しながら、しかしこの生活形態に馴染むという事は一向に出来ぬままだ。
ほんの数時間前、白い手が男の武骨な手に包まれ撫でられるのを目にし、せり上がる感情を苦労して抑えた。少し困ったような、その癖艶のある笑顔を面に張りつけたなまえから、目を逸らすことは許されない。物陰に潜み必要な時に出るのが俺の役目だ。これは無感情に運ばれるべき任務である。それなのに一体何故このように胸が騒ぐのだろうか。
俺達は世を偽る仮の夫婦として此処に居を構えた。なまえが奉公人として潜入した先の主人の動向を探るのが目的だ。
かねてより様々な角度から精査したところ、目標は容易に尻尾を出すような人物ではない。挙句考え出された奸計は色仕掛けによる情報の引き出し。俺はこの任務が終わるまでは、表向き”妻を商家の下働きに出す定職を持たぬ男”という役割である。
なまえを副長が何処から見つけ出しこのように探索に当たる事になったのか、その経緯は明らかにされていなかった。





京の四条通から細い路地を北に一本入ったところに懸案の枡屋があった。嵯峨、嵐山は材木や薪炭の集積地であり、この辺りには多くの材木商、薪炭商が集中している。表向き古器骨董商の体で薪炭も商う主人は湯浅喜右衛門、端整で物静かな男であり彼に妻はない。
なかなかのやり手らしく広く諸藩を相手に商いを行っているが、特に黒田藩の御用達を務めている。商売柄店には侍の出入りが多いがそれは怪しむ事ではない。しかしそれに紛れて潜行した倒幕の志士が出入りしていることは恐らく間違いないと思われたが未だ確証は得ていない。
早い時期に「万事お任せ下さい」と乗り込んだなまえが、あの男にどのような訳合を述べたのかは知らぬが、彼女は難なく下働きとして潜り込んだ。なまえの仕事は勝手方であり商いに手を触れるわけではない。件の主人を籠絡することが最大の役目である。
俺は危険が迫った時に彼女を引き上げる為に、広く開け放った立派な店先ではなく勝手場の裏口の見える場所に立つ。妻の身を案じる嫉妬深い夫は先方から見え隠れの位置で所在無げに立っているのだ。
殆ど目と鼻の先、金盥を出して洗濯をするなまえに男の影が近づく。警戒を強めて見遣れば男の声は何かを隠し立てする風もなくはっきりと聞こえた。

「よい軟膏が手に入ったのだが使ってみてはどうかね。この美しい手が荒れてしまう前に」
「この季節ですから手荒れはいたしませんよ?」
「そう言わずに。あんたの為に取り寄せたんだ」

盥の中からなまえの濡れた手を強引に掴み上げた男が、持っていた手拭いでその白い手を拭う。男に手を取られながら、もう一方の手で乱れて幾筋か頬に落ちる髪を撫でつけたなまえは、抗う素振りも見せずに笑みを浮かべた。花が綻ぶような愛らしい笑みだった。

「旦那様」
「……あんたのいい人がまた来ているようだ」
「あの人の事はお気になさらないでくださいませ」

男が僅かに視線を此方に寄越す様は計算ずくだろうか。俺は知らず知らず奥歯を噛みしめる。
なまえはあの男を「旦那様」と呼んだ。奉公人なのだから当然のことである。
だが次第に解らなくなってくる。俺は任に就いているだけだ。任務だと言うのに胸の奥をきりりと刺すこの痛みは一体何だと言うのか。





その夜も暮れてからなまえを連れて粗末な家に戻る。最初に行うのはいつものように報告だ。内容は判で押したように代わり映えもなく、新たな情報が得られない日々が続く。

「もう二月にもなるのに埒が明きません。通いではなんの情報も取れないのです」
「ああ」
「掴むにはやはり……住み込みで働かせてくださいと今日お願いしました」
「…………」

なまえのいう事は最もであり反論の余地がない。しかし諾と頷くことも出来ず黙り込んだ俺を彼女は暫く見つめていたが、やがて静かに勝手場に立って行った。
住み込みとは言うまでもなくあの男により近づくための手段である。男を懐柔し情報を引き出すには今以上の接近も必要である。現時点で何程の収穫もなければ当然考え得る次の手だ。女の間者であれば至極当たり前のことと言える。
食事の用意を始めたなまえの背に足音を忍ばせて近づけば、直ぐに気配を悟った彼女は手を止めた。肩に触れると一刻身を震わせたが、やがて俺の手になまえの白い手が静かに重ねられた。

「このように、あの男に手を掛けられるのも、覚悟の上と?」
「はい」
「お前はそれでいいのか」
「任務、ですから……」

消え入るような声は俺の胸を締め付ける。押し寄せる波に逆らう事をせずに俺はその細い身体を引き寄せた。だがしかし見開かれた瞳は何も映していない。俺を見返す瞳は否も応も伝えてはくれない。
お前は任務の為ならば平気で男に身を差し出すことが出来ると言うのか。
容易く腕の中に収まった身体を掻き抱く。

「ならば、俺達は夫婦だ。このようなことがあっても不自然ではないな?」
「斎藤……さん」

夫婦になったのは任務の為である。己が全く筋の通らないことを口にしているのは承知の上だ。だがなまえの考えている事が解らない。
それ以上に解らないのは腹の底から際限なく突き上げるこの想いだ。
これは嫉妬なのか、または全く別の感情か?
己の本心さえも掴めないのだ。
ただ激情の赴くままに冷たい板敷の上にその細い身体を押し倒す。固い床に乱暴に倒されたなまえの眉が寄せられ、痛みに耐えるような目をしたが、それと知りながら俺はその薄く開いた唇を噛みつくように塞いだ。
なまえの唇はやはり俺を受け入れも拒否もしなかった。苛立ちが募る。
お前はたった今、俺にこうされながら一体何を考えている?
ややあって唇を離しなまえを真っ直ぐに見つめ細い手首を拘束する。

「俺はお前の夫だろう?」
「……はい」

その時初めて彼女は挑戦的な目で俺を見た。その瞳はどこか哀しみをも纏っていた。
突き上げるのは欲望か、それとも愛情なのか。
どうしたらお前を知ることが出来るのか。

「壊してしまいたい」
「そうですね、いっそ……私を壊してください」

刺す様な瞳を一頻り受け止めてからなまえの手を探る。指を絡めれば白い手が握り返した。柔らかく温かな手は、その瞳に反して優しい。
やがて身体の下でなまえは切なく甘い声で啼いた。
これ以上何を問う事も出来ず、問うたところで恐らくは決して問いに答えることもないなまえの身体を抱きながら、指先から伝わる鼓動と泣きたいほどの情念に、本当に全てを壊してしまえたらいいと、俺は叶う筈のない希いを心に繰り返していた。「別の場所で出逢えていたら」耳を掠める細い声が荒い吐息に掻き消されていく。





副長への報告は最初から常に俺独りで行っていた。定期的に訪れる深夜の屯所は静まり返り、目立たぬように門を潜れば其処が俺の本来の居場所なのだと僅かに安堵する。
それはなまえが夜になっても俺の元へ戻らなくなってから直ぐの事だった。

「ご苦労だった」

手短に報告を終えた俺の背に懸った声につい身を強張らせる。副長の労いの言葉に含みを感じた。俺は労われるような仕事をしているだろうか。全てを余さずに副長に伝え切れているだろうか。なまえのことが直ぐ様脳裏を過る。

「別方面から山崎の偵知が上がっている」
「はい」
「お前のことだ。引き際は心得ているな」
「……はい」

蒸し暑い夜だった。屯所を後にした俺の足が向かうのは四条である。表も裏もぴたりと閉じられた屋敷の外から中の気配を伺う事は出来ない。俺は何故此処へと足を運ぶのだろう。
だがその夜を最後に俺は四条へ通う事を止めた。
然程日を置かず山崎が新たな副長命令を携えて来た。忍の姿に身を窶し夜に紛れ現れた山崎は「速やかに引き上げてください」と一言だけ告げる。元より解っていたことだ。説明の必要などはないと山崎にも解っている。俺は目だけで頷いた。
島田や山崎ら新選組の監察方が目を光らせる中、尊王攘夷派の活動家の下僕が後をつけられているとも知らずに駆け込んだのが枡屋であった。この件で湯浅が長州間者の大元締として隠密に情報活動と武器調達に当たっていたということが自明となる。
なまえの奉公先木屋町四条で薪炭商を商う湯浅喜右衛門は、本名を古高俊太郎と言う。俊太郎は世を晦ます意味もあって古高家を弟為次郎正裕に譲り、跡取りのなかった桝屋喜右衛門の養子に入って身を偽り、その屋敷を多くの討幕志士の拠点として自らも働いていたのだ。
その夜のうちに俺は屯所に戻ったが古高の捕縛は既になされており、武器弾薬も諸藩浪士との書簡や血判書も全て押収されていた。

「すまねえ、斎藤。お前を謀る意図なんかこれっぽっちもなかった」
「はい」
「泳がせる為にはお前を引かせるわけにいかなかったんだ。奴を警戒させるからな」
「承知しています」

副長は些かばつが悪そうな目をしたが、潜入というものが得てしてそう言う物であると俺は熟知している。先日来表情に含みを感じるのは俺の穿った見方なのかも知れぬが、副長は話の間中”みょうじなまえ”の事は一言も口にしなかった。踏み込まれた枡屋に彼女は今も居るだろうか。それを問うことは到底出来るわけもない。
俺がなまえを伴って任務に就いて直ぐに、桝屋の主人が実は元近州大津代官千代古高俊太郎であり長州人と通じている事が新選組には知れていた。欲しいのは決定的な確証だったのだと。

「お前を翻弄した野郎に挨拶に行くか?」
「…………」

拒否をする理由など見つけられない。





前川邸には二つの蔵がある。そのうちの東の蔵の中に入れば黴臭く湿った匂い、それとはまた違った異臭も鼻を衝いてくる。不快な熱気が籠っていた。もう真夏なのだな、と不意に思った。
躊躇う心とは裏腹に急かす足を運び、二階へと続く重い戸を引き開けて箱階段を昇る。
蝋燭の心許ない灯りの中を見上げれば、生きているのか死んでいるのかも定かでない男が、足を上にしてぶら下がっていた。かつてなまえの白い手を握った手も、端整な顔も今は判別出来ぬほどに赤黒く汚れている。
いつの間にか俺の背後に立っていた副長が独り言つ。

「こいつが喋らねえ。本当は使いたくねえ手だが」

箱階段を昇る足音がもう一つ聞こえた。いや、よく聞けばそれは一つではない。隊士のものと思われる重い足音と、引き摺られてでもいるような軽い、それはまるで、女のような……。

「連れてきました」
「ああ。そこへ置いていけ」

振り返った俺と此方に向き直った副長の目が合った。

「斎藤。お前、早い時期から気づいていたか」
「…………」
「そんなわけねえか。たいした女だ」

なまえを見下ろしながら副長は醒めた声でため息混じりに呟く。
閉じてしまいたい目を閉じることは許されず、俺も黙って彼女を見下ろす。
なまえは少し窶れたか、それでも共に暮らした日々と何ら変わりなく細い身体は儚く頼りなく、あの夜抱き締めたそのままに其処に居た。
見つめる俺の視線をその身に浴びながら、しかし蹲る彼女は一度もこちらを見ようとはしなかった。俺の愛したあの笑顔を見ることは望むべくもない。
出来る事ならば最後まで気づきたくなどなかった。籠絡されたのは古高ではなく、なまえの方であったなどと、この残酷な真実に目を瞑り俺は気づかないふりを続けていたかったのだ。





直ちに潜伏していた長州藩、土佐藩の尊王攘夷派志士捕縛の決行が決まり、幹部総出で速やかに副長の指揮に従い隊を整えた。三番組を率いる俺に副長が近づく。

「斎藤、行けるか」
「無論、問題ありません」

新選組の威信を懸けた壮大な捕物はほんの数時間も待たずに片が付き、敵の闇討ちを避ける為に夜が明けるまでその場で待機の後、朝日の昇る頃屯所へと戻る。
古高は六角獄舎に送られた。みょうじなまえがどうなったのかは俺に知らされなかった。それが副長の温情であったかどうか、それさえも知ろうとはしなかった。


別の場所で出逢えていたら。


あの夜俺の腕の中で呟かれた細い声が甦り胸を刺す。
別の場所で。
別の立場で。
もしも、違った形で彼女と出逢えていたとしたら、どうだったのだろうか。
埒もない考えが心に上りかけるが、俺は眼を閉じ緩く一度だけ首を振って、自身の思考を遮った。




2014/04/4


▼奈穂様

この度は20万打企画にご参加いただきましてありがとうございました!
そしてそして非常に長らくお待たせしてしまい本当に申し訳ありません(*ノД`*)
劇場版薄桜鬼を観てから抜け殻となっておりまして、自らが文を書くという事が出来ないままに日にちばかりが経ってしまいました。言い訳のしようもないです。
改めまして奈穂さんに頂きましたリクエストですが『斉藤さんの任務のために、夫婦を演じることになった斉藤さんと夢主の、短い恋の物語…みたいなものを、ジレジレと切甘でお願いいたします!!裏は展開におまかせいたします!!』という事でしたが、またもや甘がどこかに迷子。ジレジレとジレるばかりで、切しかないじゃないか!!奈穂さんごめんなさい(;д;)!!
今回のお話は池田屋事件のきっかけとなった、攘夷派志士の元締め古高俊太郎捕縛をモチーフにしています。表現力の壁に置いて本文中で恐らく読者様に解っては頂けないと思われる箇所の補足をさせて頂きますペコ。ヒロインなまえさんは長州の間者ではありません。(絶対勘違いされそうだなぁと危惧する筆力の壁、涙)新選組に雇われて斎藤さんと仮面夫婦を演じ潜入捜査に就いた彼女は、設定としては身寄りのない普通の女性でした。斎藤さんと生活を共にするうちに彼に魅かれていきますが、それを自覚する前にいつしか奉公先の主人に惹かれてしまったというオチです。新選組の間者であったなまえさんは、古高に女として惹かれてしまった為に結果として寝返ることになります。斎藤さんはいつからか彼女に惹かれると同時にどこかで真実に気づき始めます。彼はなまえさんへの愛情を己に認めることを拒否する為一貫して苦悩することとなります。斎藤さんと奈穂さん、ほんっとぉぉおにごめんなさい。
因みに最後の方の古高捕縛からの蔵のシーンは最初かなり詳細に書いたのですが、少し表現がグロテスクに傾いてしまったので苦手な方もいらっしゃるだろうことを鑑みまして、止むを得ずバッサリと削りました(;д;)
何と言いますか非常に救いのない切なお話になってしまいまして、もうどうしたらいいのか…、と思いつつ切ない斎藤さん好き/////とUPしてしまいました。
尚、作中性行為を匂わす部分がありますが、直接表現を避けましてギリギリ鍵は付けておりません。
奈穂さん、独りよがりに滾ってすみませんでした〜ああ〜絶対いつか必ずリベンジいたします!どうぞお許しくださいませ。
でもでもリクエストありがとうございました( *´艸`)

aoi




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE