various | ナノ
×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
きみに捧げるイノセンス


空気も凍てつく独逸、厳冬の夕暮れ。後から後から降り頻る雪。
足元から這い登る厳しい冷気はわたしから生きる気力さえ奪い取っていくようだった。無自覚にハラハラと落ちる涙までが凍ってしまいそうだ。背後から近づく人の影を気にも留めずに、わたしは古びた門扉に身を預け、声を忍んで泣いていた。その人がわたしに声をかける。慈愛に満ちた蒼い瞳がわたしを見下ろす。

――どうした、何を泣いている?

――父が亡くなって、母が……、どうかわたしを助けてください。

――ならば、俺と共に来るといい。……みょうじ。





「みょうじ」

――Hilfe! ……わたしを、どうか!

「みょうじ」
「豊太郎!」
「みょうじ? あんたは3組のみょうじなまえだろう?」
「……え、」
「すまぬが起きてくれぬか」

ん? わたしが寄りかかっていた門扉は? 雪は?
ぼんやりと開いた目に映るのは…………ここは。
急速に戻る意識はここが独逸などではなく日本の、わたしの通う学校の図書室だという現実を教えた。白いカーテンのかかった窓ガラスから傾きかけた陽が入ってくる。
目の前に立ち怪訝そうな顔をしているのは、豊太郎さんではない。確かこの人は1組の斎藤君だ。とても困惑した表情でわたしを見下ろしている。
ええと、いやだ、わたし、いつの間にか寝てしまってた。昨夜眠るのが遅かったから寝不足なのは確かだけれど、図書室の机でうたた寝をしあまつさえ夢まで見ていたなんて、かなり恥ずかしい。
でも。今の夢の中でわたしはエリスだった。そして豊太郎さんは斎藤君の姿をしていた。

「土方先生があんたを呼んでいる」
「あ、」
「随分疲れているように見えるが、その……無理をするな」
「え? あ、ありがとう」

ほんの僅かに頬を緩ませたように見えたけれど、斎藤君は剣道着の袴の裾を翻し背を向けて直ぐに歩き去っていった。
わたしは夢に何故斎藤君が出てきたのかという疑問に暫し捉われる。
彼は成績がよく、確か剣道部の主将をしていて、女子にとても人気がある。とにかく目立つ人だ。だけど彼とこれまで口をきいたことがない。なんの接点もなかったように思うけど、どうしてわたしの名前なんて知っているんだろう?
わたしの中でこれまで斎藤君に持っていたイメージが今の出来事で少し違ったものになった。
偶々だけれどかつて彼が下級生に告白されているところを目撃してしまった事がある。その時の彼は顔色も変えず無表情だった。話の内容までは聞いてないけれど女の子が泣いていたので、てっきり斎藤君て冷たい人なんじゃないかと思っていた。
文武両道を地で行くようなタイプだから鼻持ちならない人物なんじゃないかなって、だから私は近づかないようにしていたし、興味も持たないようにしていたのだ。
でもわざわざ土方先生の伝言を伝えに来てくれたり、たった今見たばかりの仄かな笑顔と気遣ってくれたみたいな科白が何だかとっても優しく感じられた。
それに、さっきの夢。
そこまで考えてはっと我に返り腕時計を見ると、先生に来いと言われていた時間を過ぎていることに気づく。
今まで突っ伏していた机の上からハードカバーの本を取り上げて大切に鞄に仕舞い、気を取り直して国語研究室に居る筈の土方先生の元へ向かうべく、わたしは立ち上がった。





来週末に行われる練習試合の為に、気合いの入る下級生の打ち合いを目だけはしっかりと見ていながら、俺の頭の中は全く別の事で占められていた。戻ると言っていた剣道部顧問の土方先生はまだ戻らない。

「斎藤、悪いが俺は今日ちっと用がある。後を任せていいか」
「はい」

俺に声をかけて来た土方先生に応え、その時ふと俺自身も思い出したことがあった。借りていた図書室の本の返却期限が確か今日までであったのだ。
俺は放課後真っ直ぐに剣道部の部室に赴いた為既に稽古着に着替えてしまっていたが、返却日は守らねばならない。その旨を話し直ぐに戻るので図書室に行って来てもよいでしょうかと了解を求めると、先生は意外なことを言った。

「そりゃ都合がいい。図書室にな、みょうじがいる筈だ。俺んとこに来るように伝えてくれねえか」
「みょうじ……ですか?」
「知らねえか? みょうじなまえだが、お前とはクラスが違ったか」
「……知っています」

それは『図書室の彼女』俺の中でそう位置付けられている女生徒の名であった。知っているどころではない。俺が現在借りている本だとて、そもそもは。

「じゃ、悪いが頼んだぜ。研究室にいるが、用が済んだら戻る」

スタスタと体育館を出ていく土方先生に黙礼して俺は部室に戻った。私物の中から本を取り出し、図書室に出向いて返却手続きを済ませる。
成績は特に悪くはないと思うが、俺は読書を進んでする方ではない。
明治の文豪森鴎外の『舞姫』を読んだものの、件の小説は文語体や旧字体が多用され、その上ドイツ語と思われる片仮名が加わって非常に読みにくかった。借り出し期間一杯何度も読み返し、それが悲しい恋の物語であると把握はしたが、やはりどうにも難しい。
だが俺はどうしてもその本を理解したかった。
解りにくい主人公の感情を、ではない。これを愛読している彼女、要するにみょうじなまえ本人の事を知りたかったのだ。
図書室に足を踏み入れると、机の一つにみょうじの姿は難なく見つかった。
窓際の席でやや顔を此方向きに瞳を閉じ、柔らかそうな髪を波打たせ彼女はうたた寝をしていた。伏せた長い睫毛が頬に影を落としている。
細い手の甲に載せた小さな頭の横に、先刻まで俺の手にあったと同じ表紙の本が置かれ、其れは背表紙に図書室のラベルを貼っていないところから判断するに、彼女の私物であろうと思われた。
みょうじに目を留めるようになったのはいつ頃からだったかは覚えていない。
土方先生の国語研究室がこの図書室の近くにある関係で、俺は此処に出入りすることが多かったが、いつしかひそかにみょうじの姿を探すようになっていた。
熱心に読書をする彼女が印象的だった。
その姿はいつも隙がなく凛としていて、目の前に在る無防備な様子を見るのは此れが初めてである。愛らしい寝顔に少しの間見惚れていた。
声をかけるのも近く傍寄るのも初めてだ。
このままいつまでも見ていたい気持ちを抑え名を呼べば、彼女は「豊太郎さん」と呟いた。それはあの本の主人公の名だ。夢にまで見る程にこの小説が好きなのか。
名を繰り返し呼びかけるうちに彼女がやっと顔を上げた。ふわりと上品な甘い香りが漂う。
我知らず頬が緩む。
俺はずっと長いことみょうじなまえに憧れていたのだ。
しかし、である。今俺の脳内を渦巻くのは小さな疑惑だ。

「踏み込みが遅い。打ち込まれたら体勢を直ぐに立て直せ。胴ががら空きだ」
「はいっ!」

後輩を目で追い忠告を与えながらも、俺はやはり考え続ける。
土方先生が練習試合を控えた部活の指導を後回しにしてまで、わざわざ放課後にみょうじを特別に呼び出すとは、一体何の用件であろうか。
みょうじはその読書好きでも解る通り、現代国語も古文も漢文も成績がいい。とすれば当然個人指導と言った類いではないだろう。
そのような事に脳内を犯されたまま練習を終え、部員達が粗方帰ってしまうまで俺は体育館に残って居た。戻ると言っていた土方先生が終ぞ再び姿を見せなかったのだ。
制服に着替えスポーツバッグと竹刀袋を右肩に背負った状態のまま、俺はまだ逡巡していた。





わたしは思わず激昂した。土方先生の言葉に納得がいかなくて、つい声が大きくなってしまったのだ。

「裏切ったんですよね?」
「いや、それは違う。事情と言うものがある。其処のところを、もう少し」
「外面ばかりを気にして、女の気持ちを踏みにじって平気なんですか?」
「そりゃ、お前、短絡的な考えだろう。もう少し理解を深めてだな、」
「いいえ、理解なんて出来ません。棄てたのは結局男の人の事情です。だって、酷いです。お腹に子がいるんですよ!」

ガラガラガラッ!

その時だった。
国語研究室の戸が、物凄い音を立てて開いた。それは壁一面に作りつけられた本棚から本がバラバラと崩れ落ちてきそうな程の振動を起こした。
自分の机の前に座っていた土方先生と近くに寄せた椅子に腰かけていたわたしとが、同時に其方に顔を向ける。
全開した戸に手を掛けたまま立っていたのは斎藤君だった。
斎藤君は青褪めた様な、それでいて血の上ったような複雑な顔色をして、肩で喘ぐように呼吸をしている。よく見るとぶるぶると震えるその肩から、通学鞄とスポーツバッグと竹刀が入っているらしい細長いバッグみたいなものが、一遍にドサリと床に落ちた。
斎藤君は土方先生に向かってつかつかと大股で歩み寄り、強張る土方先生の肩を両手でがしっと掴んだ。痛みに先生が僅かに顔を歪める。

「俺は……、」
「さ、斎藤?お前、どうし、」

何これ、何なの、一体? 斎藤君、どうしちゃったの?
この状況を把握出来ないわたしは成す術もなく、ただただ茫然としていた。
驚愕に声の裏返った土方先生の様子には頓着もせずに、彼は激情を限界まで抑えた恐ろしく低い声で迫る。

「俺は土方先生を……あなたを見損ないました」
「な、なんのことだ、斎藤……」
「あなたがこんな卑劣な男だったとは」

言いながら彼がわたしを振り返る。その形相は怒りに燃えながらも瞳は切ない悲しみに塗り潰されていた。

「あんたもあんただ。何故自身の身を守らない」
「あ、あの、待って斎藤君、落ち着いて? 何を言ってるのか全然……」
「何故あんたが、土方先生の子を妊娠など……っ」
「はあぁ!?」

思いもよらない彼の言葉に、土方先生は白目を剥き、私は口を開けたまま固まった。





校庭に灯された照明を半身に浴びて、背を丸め項垂れた斎藤君がさっきから幾度も謝罪の言葉を繰り返す。校門までの坂道、いつもはピンと伸びている背筋を縮込ませるようにして隣を歩いている斎藤君が、何だか可愛らしく見えてきてしまった。

「す、すまん……、俺は何という不埒な思い違いを……」
「ほんとにびっくりしたよ?」
「申し訳ない……」

さっきの国語研究室での顛末を頭に描いて、私は思い出し笑いをしてしまう。
あの後の土方先生の勢いは完全に斎藤君を凌駕した。形勢逆転。

「お、お、お前……っ、何を意味不明な事をぬかしやがるっ!」

我に返った土方先生の雷鳴のような怒声と同時に突き飛ばされた斎藤君はまるで、鳩が豆鉄砲を喰らったみたいな顔をしていた。
続いてわたしの説明で、『舞姫』の主人公太田豊太郎とエリスの事情や心情について語っていたのだと知るなり、斎藤君は瞠目していた瞳を更に見開き、先生に突き飛ばされた格好のままでフリーズした。
つまり彼はわたしと先生の会話の断片を聞いて、わたしが土方先生の子供を妊娠していると言う壮大な勘違いをしたようなのだ。
堪え切れない笑いを、クスクスと漏らし続ける私の隣で、彼は力なく俯いたまま。

「もう、怒っていないから顔を上げて。それにわたしを心配してくれたから、なんでしょう?」
「それは、そうだが……すまない」

長めの前髪の隙間から上目づかいに私を見遣る蒼い瞳が、何だか小動物のように見える。優等生の鑑みたいに誰もが認識する斎藤君の、こんな表情を見たのはもしかしたら私が初めてかもしれない。そう考えたら何故だろう、とても親近感が湧いて来た。何度も謝る斎藤君はとても誠実な人なんだと思った。

「すまなかった」
「だから、もういいってば。それより鴎外を読んだんだね。斎藤君が純文学に興味があったなんて意外だった」
「お、俺は、少し流し読みをしただけだ」
「豊太郎さんは救いのない人だけど、でもあの冒頭の部分では彼が虚無感を感じてる。それは深い悔恨や苦痛に裏付けられた感情かも知れないって、少し解る気がするんだ。でもわたしは女だから、どうしてもヒロインの立場になってしまって。だから土方先生の解釈を聞こうと……あ、ごめんなさい。こんな話面白くないよね?」
「いや、もっと聞きたい」

斎藤君が顔を上げ、図書室で眠っていた私を起こしてくれた時と同じ、優しい目をした。
その瞳に心臓がドキリと小さく跳ねた。あらら…、何なのかな、この気持ち。

「つまらなくない?」
「みょうじを、知りたいと思う」
「……え、」
「興味を持ったのは純文学ではない。あんた本人のことだ」
「…………」
「みょうじの好きなものを、知りたかった」
「さ、斎藤君?」
「みょうじの……なまえの好きなものを、俺も好きになりたいのだ」

跳ねた心臓が今は早鐘を打っている。辺りに鼓動の音が聞こえてしまいそうな程。顔に熱が上って信じられない程に熱い。さっきの斎藤君と同じように今度はわたしが俯いてしまった。頭上から彼の囁くような小さな声が降ってくる。

「迷惑、だろうか」
「……迷惑なんて、」
「顔を上げてくれぬか」

そっと目を上げれば斎藤君は髪の間から覗く耳まで真っ赤になっていた。
透き通った瞳はとても綺麗な藍色をしていて、真っ直ぐに見つめてくれているこの瞳を、この人の事を信じられると、理屈も何もなくわたしは心で感じた。
ゆっくりと歩いていた歩調が更に緩くなっていきどちらともなく立ち止まり、彼が冷えたわたしの指先をそっと掴み寄せた。
彼の肩先に頬が触れる。
ふいにうたた寝をした時の夢が甦った。
助けて、と訴えたわたしを優しい眼差しで包んでくれた斎藤君。あれはもしかしたら正夢だったのかな。でも、豊太郎さんは……。

「よい香りがする。香水か?」
「あ、これはイノセンス。お香が好きなの」
「イノセンス。あんたによく似合う香りだ」
「じゃ、今度一緒に?」
「ああ、そうだな。それと……ひとつ言っておきたいことがあるのだが、」
「え、何?」

斎藤君はこの上なく柔らかな笑みを浮かべ、私の背にそっと、そおっと、羽みたいに優しく腕を回した。また私の鼓動が速まっていく。

「俺は太田豊太郎ではない。なまえを裏切ったりなど決してせぬ」

耳元に触れたその声は限りなく優しく、それはどんな告白よりも誠実な言葉に思えた。
そう、ここは凍てつく真冬の独逸ではない。そしてわたし自身、薄幸の少女エリスなどではない。
斎藤一君と言う人をわたしもこれからゆっくりと知っていきたい。
わたしは彼に精一杯の微笑みを返した。





2014/02/03


▼莉夜様

この度は20万打企画にご参加いただきましてありがとうございました!
大変長らく長らくお待たせしましてすみませんでした!もうこの科白お約束になってしまっていますが(人;∀;)
莉夜様のリクエスト内容のおさらいですが『高校生文学少女、森鴎外や泉鏡花が愛読書で語学堪能、お香の香り、図書館、告白、甘々』などなどのキーワードを頂いておりました。が、しかし…語学堪能な部分、書けていませんね( ノД`)シクシク 
ストーリーをこねくり回しているうちに斎藤さんの天然な部分が若干目立ちすぎてしまったような気もしなくもないですが、このようになりました。思いがけず土方さんがとても美味しかったのでもっと書き込みたかったのですが、あくまでも主役は斎藤さんですのでそこは敢えて削りました。
そして森鴎外と言いますと『山椒大夫』『雁』『ヰタ・セクスアリス』等沢山の著作がありますが、私が個人的に一番好きな(妄想力を鍛えるのに最適な)『舞姫』をモチーフの一部とさせて頂きましたが、このお話としての主人公の太田豊太郎またはエリスの人物像の考察や解釈の記述部分はストーリー上のシーンの一環でありまして、この部分に対する批判や反論等はどうぞ平にご容赦下されますと大変有難く思います。
随分昔に読んだのですっかり忘れてしまっていますが久しぶりに読んでみたくなりました。
改めまして莉夜様、前回の3万打企画に引き続いてのリクエスト嬉しかったです。ありがとうございました( *´艸`)




MATERIAL: SUBTLE PATTERNS / egg*station

AZURE