玖 「…………紗也?」 「…………」 滅多な事では怒らない紗也が怒っている。 俺がいつも怒らせるような事をするから。 その度に怒ったり剥れたり拗ねたりはするが、そんな可愛らしいもんじゃ無ぇ。 こんな風に怒っている紗也を見るのは二度目の事で。 俺は言い様の無い不安に駆られて、上手く声も掛けられずにいる。 今日の夕方、阿散井から紗也を連れて帰ってくれと連絡が入った。 就業後に向かった六番隊の執務室には、口唇を噛み締めて、抑えきれない怒りを纏った紗也が居た。 もしかしてと目線を遣れば、難しい顔をした阿散井が頷いた。 またか…と、舌打ちそうになるのを寸でで飲み込んで、紗也を抱き締めてやってそのまま家まで連れて帰って来た。 「紗也……?」 返事の無い紗也に宥めるように触れて抱き締め続ける。 思い出される嫌な記憶に心臓が壊れそうな程に激しく鳴っていた。 あれは紗也がやっと俺を受け入れてくれた時の事。 慌てた様子で九番隊に来た阿散井が、いつに無く神妙な面持ちで俺に六番隊に来てくれるよう頭を下げた。 『紗也……?』 何事かと向かった六番隊には、静かな怒りを湛えた傷だらけの紗也が居た。 その傷と、普段とはまるで違う様相に、瞬時に阿散井を振り向けば首を振られた。 頼みますとばかりに頭を下げた阿散井が退室した後、俺はゆっくりと紗也に寄ってその肩に触れた。 『紗也』 尋常じゃないその様子に不安ばかりが増して行く。 『紗也……』 何か言ってくれねぇと、俺にはまだ何も解ってやれねぇ。 それがこんなにももどかしい。 頼むからと、祈るように声を掛け続ければ、紗也が漸く口を開いた。 『……やっぱり。止めませんか?』 『……何を?』 嘘だ。 何かなんて解っている。 解っていても訊かずには居られない。 心臓が有り得ねぇ速さで打ち付けて来る。 『……私なんかじゃ、ダメだったんです』 紗也の言葉が突き刺さって、血の気がどんどん退いて行くように感じた……。 『……俺が、嫌か?』 問い掛ければ、首を横に振ってくれた事に安堵する。 『……なら、それを決めるのはお前じゃねぇだろ』 何で……。急に紗也がこんな事を言い出したのか解らない。 また誰かに何か、と怒りが爆発しそうになって、それは違うと否定する。 そんな事で紗也が怒ったりはしねぇともう解っている。 ゆっくりと手を伸ばして、逃げずに居てくれる紗也を抱き締めた。 そっと傷に触れれば、やっとその手が俺に回った事に安堵の息を吐き出した。 『私じゃダメだと思ったら直ぐに言って下さい』 そんな別れを示すような言葉を云われ始めたのもその時からだった。 紗也の怒りの真相は、絡んで来た奴等が吐いた俺への中傷だったと阿散井が言った。 自分の事では怒りもしねぇくせにと、俺は苦笑いするのを止められない。 俺はカッコ悪いだの何だの言われても全然気にもならない処か、寧ろ褒め言葉だろと思うくらいで。 顔も名前も知らねぇ、興味も無ぇ奴等に何を言われてもヘでも無ぇ。 ソイツらの余計な発言のせいで、別れるなんて事になったら何をするか解んねぇけどなとは思うがな。 紗也が気にする事なんて一つも無ぇ。 紗也が選んでくれた俺が、間違い無く最上なんだ――… 「紗也。黙ってたら解んねぇだろ」 「………ゃっ」 もう、別れるだの、止めるだのは絶対に言わせねぇ。 簡単に俺を諦めるお前を逃がさない為に、こうして触れて離さないでいられる権利を手に入れたんだ……。 「紗也……っ」 「……修、兵っ……ぁっあぁアアァッ」 「……っ紗也……」 こんな事でしか、不安を拭い去る事が出来ない…… 否定の言葉は、もう二度と聴きたく無ぇんだ。 * 「俺は何を言われたって全く気になんねぇって言ったよな」 「だって……」 「だってじゃねぇ」 俺はそんな下らねぇ奴等の下らねぇ発言のせいで、紗也が泣いたり怒ったり、別れるだの言われる方が大問題なんだって、そろそろ理解してくれと心底願う。 「紗也……」 「だって…。修兵は一番、誰よりもカッコいいのに」 私なんかと居るから…… そんなのは嫌だと、とうとう決壊した紗也がぼろぼろ涙を溢して抱き着いて来る。 ああもう、本当に何なんだ。 さっきまでの不安なんか吹っ飛んで、今度は頭を抱えそうになる。 顔が、緩む。 紗也が、こうして…… 「……修兵。苦しい」 「そうだな」 「そうだなじゃないっ」 俺でいいと言うのなら――… どんな俺にでもなれる。 |