31.卑怯を肯定すること
目が熱かった。
熱湯が次々にそこから流れ出ていく。
喉がジリジリと焦げて息が苦しい。
しゃくり上げる度に、掠れた息の音がした。
ベンチの上で膝を抱えて蹲っている。
あれからどのくらいこうしていただろう。
泣き疲れて、体がだるかった。
ジャンの言ったことは、全て正しい。
私が、自分の体裁のために包み隠していた醜い自己防衛を彼はその鋭い観察眼で暴き、丸裸にしたのだ。
私は、卑怯だ。
私は、最低だ。
でも、聞かずにはいられなかった。
あの日、フーバーくんの傷ついた顔を見た時、私はどうしようもない焦燥感に駆られた。
違う、そうじゃない。
何を否定しているのかもわからないまま、ただひたすら、違うと繰り返した。
それからだ。
マルコとの関係が気になりだし、何故こんなにもフーバーくんが苦手なのか、何故こんなに苦手なのに、こんなにも気になるのか、考え始めたのは。
でもわからなかった。
考えようとすればするほど、気分が悪くなるのだ。
吐き気を催すような粘着質な靄が、胸を、腹を、全身を隈なく満たす。
そうなると、それ以上考えることは不可能だった。
ただ、深い疑問だけが、微かな焦りと共に私を突き上げた。
ずっと落ち着かなかった。
足元が、不安定に揺れている気がした。
地下深くで何かが蠢いているみたいに。
答えが欲しかったのだ。
しっかりと踏みしめられる土台が欲しかった。
マルコには聞けなかった。
だから、ジャンに聞いた。
彼なら、何かしらの答えをくれると、そう思ったから。
彼なら、マルコを悪くは言わないと、そう思ったから。
その上で、もしかしたら、フーバーくんへの不可解な感情の答えをくれるんじゃないかと、そう思ったから。
ああ、やっぱり、私は最低だ。
自分はできる限り傷つかずに、今の環境を変えずに、自分の都合の良い答えを得ようとしていた。
ジャンの言うとおりだ。
最低だ、私は。
情けなくて、また嗚咽が漏れた。
「お、おい、どうしたんだ、こんなところで」
急に間近で声がして、私は驚いて肩を震わせた。
聞き覚えのある声だった。
顔を上げるべきだろうか。
相手は先輩だ。
通常であれば、すぐさま立ち上がって挨拶をすべきところである。
しかし、今この状況ではどうだろう。
まず間違いなく顔はぐしゃぐしゃだ。
見苦しいにもほどがあるし、正直見られたくない。
私は結局、顔を上げることができなかった。
「ジン先輩…」
膝の間から、弱々しく名を呼ぶ。
エルド・ジン。
弓道部の一学年上の先輩だった。
「どうした?」
先輩は、私の状態を確認するように、慎重に、穏やかに声を掛けてくれる。
「す、すみませ…今は…すみません…」
「すみませんじゃ、わからんだろ」
「ちょっと、あって。…自己嫌悪中、です」
先輩は私の隣に腰掛けて、私の手に肌触りのよい布を握らせた。
「顔を拭け。で、足を下ろせ。話はそれからだ」
私はそっと顔を上げる。
手にはハンカチが握られていた。
ネイビー基調のチェックのハンカチだ。
きちんとアイロンがかけられていて、ほのかにミントの香りがした。
男性のハンカチなのにとてもきれいだと私は驚いた。
少し躊躇ったけれど、ぐしゃぐしゃの顔を晒すのには抵抗があったので、ありがたく使わせてもらうことにする。
「ありがとう、ございます」
しばらくして、私はようやく人心地ついた。
が、倦怠感はジワリと身体に膜を張っている。
大きくため息をつくと、疲れがどっと押し寄せてきた。
「落ち着いたか?」
「…はい」
先輩は小さく笑みを落とす。
「どうしたんだ?」
私は早くも俯く。
「すみません。大したことじゃないんです。もう平気です。先輩のおかげで持ち直しました」
そう、先輩を煩わせるほど立派な悩みではない。
「そうは見えないな」
私は慌てて顔を繕う。
先輩はカラカラと笑った。
「話してみろよ。オレくらいの関係なら逆に差し障りもないんじゃないか?」
ぐらり、心が揺れる。
側に人が来てくれてホッとしてしまった自分がいる。
「…でも」
だが、また同じことをしようとしているのではないか。
ジャンにしたことと同じことをジン先輩にもしようとしているのでは?
私はまた、自分に都合の良い答えをもらおうとしているのかもしれない。
「先輩には素直に甘えとくもんだ。そういう後輩の方が可愛いんだぞ」
甘えてもいい。
それは魅力的な言葉だった。
しかも、先輩はその言葉を受け入れやすいように言い方を選んでくれている。
人を甘えさせることが上手だった。
先輩、モテるんだろうなぁと頭の片隅で思う。
私はずるい。
でも、誘惑には勝てなかった。
「私は、自分が可愛くて、自分のことしか考えてなくて、卑怯で…最低なんです」
先輩は一瞬目を瞠って、ゆるりと笑んだ。
「どうしてそう思うんだ?」
私は自分がジャンにしたことを話した。
我が身可愛さに、相談という蓑に隠して、ジャンに自分ですべき判断を押し付けたこと。
結果的にジャンを怒らせてしまったこと。
もちろん名前は伏せている。
先輩は黙って聞いていてくれたが、話が終わると、ふんと鼻を鳴らした。
「卑怯で何が悪い?」
私はキョトンとした。
「最低?お前がそうならみんなそうだ。
誰だって、自分の全てをバカ正直に曝け出して生きてるわけじゃない。
むしろ、そんなことしたら人は集団で生きていけないさ。
ちょっとのズルはご愛嬌ってもんだ。
そこをわかった上で受け止めてやれるかやれないかが、そいつの度量なんだ。
そいつはそこんとこがわかってない。
まあ、子どもだな。
だいたい、男が女を泣かせるなんて、それこそ最低だ」
私は予想外の大斬りにただただ目を白黒させる。
同じ男性から見るとそんな風に映るのだろうか。
いや、年上の男性から見ると、ということなのかもしれない。
先輩は労わるような視線で私を包んだ。
「真っ向から向かい合えないことだって…一人で辿りつけない答えだって、あるよな」
つい、涙腺が緩んだ。
そんなに穏やかな声で言われたら、つい頷いてしまいたくなる。
「しかし、一人の人間が一人の人間に判断を任せるってことの意味もわからないなんて、男気のねぇやつだな」
どういうことだろう?
私は首を傾げる。
「――そいつのこと、信頼してるんだよな」
私はハッとした。
何で先輩はいとも簡単に私を正当化してしまうんだろう。
それに納得させられてしまうのは、先輩の言うことが紛れもない真実だからだ。
「…はい」
急いで目を拭う。
先輩はひとつ頷いた。
「その気持ちを無下にするなんてな」
「…元はと言えば、私が悪いですから」
「そうか?オレは光栄だけどな。ま、そいつが相談に乗れねぇってんなら、これからその相談はオレにしろ」
「えっ!?」
私はギョッとして先輩をまじまじと見つめた。
私の動揺を知ってか知らずか、先輩は爽やかに微笑む。
「クローゼさえよければ、だ。人によってできる相談とできない相談があるからな。だが、オレにはお前の相談を受けてやる準備があるってことだ。覚えておけよ」
「は、はい…ありがとうございます。でも…」
「でも?」
「どうして…?」
先輩はニッと笑った。
「当たり前だろ。可愛い後輩なんだから」
胸がジーンと温かくなった。
心が一気に軽くなっていくのがわかる。
救いの手が差し伸べられたような気がした。
ジン先輩、すごくかっこいい。
私はなんだか感動していた。
先輩は大人の男だ。
懐の深い男って、先輩みたいな人のことを言うんだ。
「じゃ、じゃあ…早速一個、いいですか?」
先輩はもちろんと頷く。
「その子と…明日からどうやって接すればいいんでしょうか…。けんか別れみたいになっちゃったし、その…気まずくて…」
ジャンの反応は容易に想像できる。
あからさまに顔を背けて、目も合わせてくれないだろう。
そんな彼に、どう接するのが正解なのか、私にはわからなかった。
先輩は苦笑した。
「そうだな、そこはクローゼがちょっと頑張らないとならないかもな」
「私が…その、何をがんばればいいんでしょう」
「笑顔で話しかけること。冷たくされてもめげないこと」
「…嫌われたかもしれないのに?余計相手を怒らせないでしょうか」
ジャンの冷たい視線が頭を過る。
「いや、そいつのことだ、多分自分でもやりすぎたって後悔してるな。けど、自分から謝れるほど器用じゃないだろ。だから、お前まで気まずいからって引いちまったら、それこそ余計こじれるぞ。いいか、最初が肝心だ。お前がそいつを安心させてやるんだ」
「は、はい…」
先輩は目を細めた。
「大丈夫だ。もしお前だけで何とかできなかったら、周囲を頼れ」
「え…」
「頼っていいんだ」
先輩は力強く頷く。
「助け合って生きられる。ここはそういう世界だ」
先輩の瞳は穏やかだった。
その言葉は、心地よい音を立てて懐に落ちてくる。
少しずつ、体温が戻ってきた。
力が湧いてきた。
そう、結局そうするしかないのだ。
ああ、そうか。
先輩はそれをわかっていて、そっと後押ししてくれたのだ。
「ありがとうございます!やってみます!」
先輩が来てくれて、本当によかった。
今日ジャンに預けてしまいそうになった答えは、いつか自分で見つけよう、きっと。
(20140412)
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