その手をつかんで

28.振り子のように揺れる


水曜日の昼休み、私はクリスタの代打として図書室に向かった。

そういえばもう一人は誰なんだろう。

元々クリスタが代わったのは彼女の友達だろうから、その友達のまた友達ということになるだろうか。

初回の委員の集まりの時、彼女と一緒にいた人物が思い浮かぶ。

私は思わず足を止めた。

急に躊躇いが生じる。

もしかして。

いや、でも。

私は首を振った。

だとしても、だから何だというのだ。

クリスタの頼みを受け入れたのは自分だ。

行く他ないではないか。

ア、アルレルトくんかもしれないし。

私は図書室の戸を開けた。



カウンターには、予感したとおりの人物が座っていた。

顔を確認しなくても、その上背でわかる。

フーバーくんだ。

フーバーくんは持参したであろう文庫本から顔を上げて、私の方に視線を投げる。

そして、二三度瞬きしてから、控えめに表情を崩した。

そのまま視線を戻してしまう。

一般の生徒として図書室に来たと思ったのだろう。

私はフーバーくんの元に歩いていく。

カウンターの彼の横に腰を下ろすと、彼は驚いて私を見た。

「あ…えっと?」

「今日、私も当番なの」

「えっ…クリスタが来るって聞いてたんだけど」

「吹奏楽部のミーティングが入っちゃったんだって。だから代わりに頼まれて」

「そ、そっか」

「うん」

言葉が途切れる。

「あ…よろしくね」

「うん…」

尻切れトンボのような会話になってしまった。

なんとなく収まりが悪くて、私は言葉を探す。

「ひ、久しぶりだね」

「うん、そうだね」

フーバーくんは笑みを落とした。

彼も同じ気持ちだったようだ。

「元気にしてた?」

「うん。クローゼさんは?」

「うん、私も」

私はホッとしていた。

よかった。

今のところ、あの嫌な不安感はない。

落ち着いて話せるみたいだ。

「聞いたよ。フーバーくんも、ジャンに無理矢理ハンド部に入部させられたんだって?」

「ああ、うん。でも、無理矢理ではないよ」

「ホントに?マルコやライナーにはずいぶん一方的だったよ?」

フーバーくんはクスクスと笑う。

その様子はなんだか小動物みたいで、とても可愛らしかった。

リスが頬を掻く様子に似ている気がする。

それか、小鳥が首を傾げる様子に。

こんなに大きいのに不思議だ。

「楽しそうだったから決めたんだ。団体競技って、今まであんまりやったことなかったし」

「そうなんだ。練習は土日に?」

「うん。平日は空手部に出て、休日は両方。ハンド部の方が空手部の練習時間と調整してくれるから、午前と午後に分けて出てるよ」

「えぇー…よく体力が持つね」

フーバーくんはにっこり笑った。

「体を動かすのは好きなんだ」

「そ、そっか」

私は答えながら慌てて顔を背けた。

顎の先から頭のてっぺんまで、熱が上がっていくのを感じる。

うわ、私ドキドキしてる。

「クローゼさん?」

「こ、この前!」

「え?」

「この前、体育でサッカーやってたでしょ。スプリンガーくんの蹴ったボールが思いっきり頭に当たってた」

フーバーくんは大きく目を瞬かせて、恥ずかしそうに口元を動かした。

「み、見てたの?」

「あ!ええと、見てたっていうか、たまたま目に入って!た、たまたま!」

「そ、そうなんだ」

フーバーくんはふと何かを思い出すような表情を見せる。

「…あ。それじゃ、もしかして、スミス先生に立たされてたのって、余所見してたから?」

「え!?」

世界史の時間、まさにサッカーを眺めていた時、私は授業中に立ち上がった。

先生に立たされていたわけではないが、多分あの時のことだ。

「み、見てたの!?」

フーバーくんはにわかに慌てる。

「あ、いや…その…た、たまたま見えたんだ」

「そ、そう…」

胸がバクバクする。

あんなところを見られていたのかという羞恥心と、ほんの少し胸を焦がす疑惑。

あの時の自分自身と重ねて、心の中でこっそり問う。

本当に、たまたま、だよね?

鼓動が速まる。

そんな自分に戸惑った。

ちょっと待って。

何だ、この反応は。

これじゃまるで、フーバーくんのことが好きみたいじゃないか。

そう思った瞬間、鼓動が暴れ出した。

体の反応に心がついていかない。

私は動揺した。

そんなこと――私は彼が苦手なはずだ。

脈がどんどん速くなっていく。

心臓が早鐘のように鳴る。

でも、今は平気だった。

普通に喋っていたし、普通に楽しかった。

いや、だとしてもだ、そんなに仲がいいわけでもないのに、何で急に。

――体を動かすのは好きなんだ。

あの笑顔だ。

いつも控えめな彼が、大きく笑みを浮かべた。

あんなに表情を和らげるのを初めて見た。

ほとんど付き合いもないのに、珍しいものを見たような気にさせられた。

とても、素敵な笑顔だと思った。

ああ、でも何でだろう。

私はあの笑顔を懐かしいと思う。

まるで、ずいぶん前から知っているような気持ちになった。



大きな水泡が音を立てるのが聞こえた。



私はギクリと身体を硬直させる。

――泉が――

途端に、腹部の辺りがスッと冷えてくる。

冷気はやがて体全体に及び、心までも強張らせた。

――起こしてはいけない。

――近づいてはいけない。

――閉じ込めておかなければならない。

鼓動が強く胸を打つ。

そこには鋭い痛みが加わっていた。

一つ脈打つ度に棘が突き刺さる。

じわじわと黒い血が溢れてくる。

私は目を見開いた。

フーバーくんがハッと表情を硬くする。

まただ。

どうして。

何故、いつもこうなる。

怖い。

誰か。

マルコの穏やかな瞳が浮かんだ。

マルコ――マルコに会いたい。



改めて納得せざるを得なかった。

私はやっぱり、フーバーくんが苦手なのだ。

フーバーくんがひどく傷ついた顔をしたような気がした。

それは私自身をも深く抉った。





(20140321)


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