その手をつかんで

26.少しでも遠くへ


私は息を荒げながら歩いている。

たった一人で、行くあてもなく、寂寞とした砂の海を歩いている。

私は足元に眠る泉の存在を感じている。

その存在に怯え、取り乱している。

この砂の底が抜ければ、私はあの泉に落ちていくのだ。

暗く冷たい、残酷な真実の泉へ。



――嫌だ――





嫌だ。








学校生活に慣れ、一定のリズムができてくると、そこからは日が経つのが早かった。

私は結局、弓道部を選び、今はひたすら射法八節、つまり、弓道の基本姿勢や型を体に叩きこんでいる。

最近は新たに、ゴム弓を使って弓を引くために必要な筋肉を鍛えているのだが、これが普段使わない筋肉なものだから、ひどい筋肉痛に襲われて大変である。

ちなみに、一緒に空手部の見学に行ったマルコは何部を選択したかというと――

「おいマルコ!行くぞ!」

「ああ!」

ジャンと同じ部だった。

あの日、ジャンに半ば無理矢理引きずり込まれたのだ。



――お前ら、部活動は何にするか、決めたか?



真剣な面持ちでジャンがみんなを見渡したのは、入部届が配られた日の昼休みだった。

「俺はな。アニ、お前もだろ」

「まあ」

「マルコ、お前は!?」

「うーん、まだ、かな」

「ハンド部にしろ!」

ジャンの勢いに一同はキョトンとした。

「ハンド部?…って、ハンドボール?」

私は問う。

「そうだ」

「ああ、ジャンは先輩から誘われて、最初からハンド部って決めてたもんな。勧誘も頼まれたのか?」

マルコがからかうように笑った。

「廃部だ…」

が、ジャンの表情はあくまで真剣だった。

「このままだと、試合もできねぇ。このままじゃ…。お前ら、ハンド部に入れ!」

机を叩く音が響く。

「マルコ!お前は決定だ!」

「ええ!?」

「ちょっと!そんなの横暴だよジャン!」

「うるせェ!ライナー!お前もだ!」

「無茶を言うな。俺にもやりたいもんってのがある」

「兼部でも構わねぇ!力を貸せ!お前の力が必要なんだ!」

ブラウンくんの頬がピクリと動いた。

アニは早くもため息をついている。

私もなんとなく先の展開がわかるような気がした。

「なんだ…その、そんなに厳しい状況なのか?」

「ああ。元々マイナーな競技だ。本来は室内競技なのに、練習場所はグラウンドの隅の隅に追いやられてる。だがな、本当に奥の深い競技なんだ」

「あれ室内競技なのか。体育でやったことあるくらいだからなぁ」

ハンドボールは、簡単に言うと、サッカーとバスケを足して二で割ったような競技だ。

片手大のボールを手でドリブルして相手のコートへ運び、サッカーゴールより一回り小さいサイズのゴールへシュートする。

キーパーを含め、メンバー7人で行う競技である。

「体育でボールに触ったくらいで、ハンドボールをやったつもりにならねぇことだな」

「なに?」

ブラウンくんは眉を寄せる。

「あれはただの玉運びのお遊びに過ぎねぇ。本当のハンドボールは全く別物だ」

「それは聞き捨てならねぇな。本物のハンドボールがどんなものなのか、拝ませてもらおうじゃねぇか」

ブラウンくんはニヤリと笑った。

ジャンも不敵に笑い返す。

「そうこなくちゃな!おい、ベルトルトも誘え!あいつはポストにうってつけだ!あの身長と体格を生かさない手はねぇ!」

あーあ、やっぱりこうなった。

私がアニを窺うと、アニはあからさまに肩を竦めて見せた。

「マルコ、どんどん話が先に進んでるけど、自己主張しなくていいの?」

マルコは諦め顔で笑う。

「今は何を言っても無駄だろ。とにかく見に行ってみるさ。おもしろそうではあるしね」

「そっか。ならいいんだけど」

「そんなことより、ルーラは決めたの?」

私は言葉を詰まらせ、視線を逸らした。



あの後、弓道部の見学にも行った。

体験ということで、背後から手を添えてもらって矢も打った。

軽やかな音と共に、的に矢が刺さる様には心躍ったし、爽快だった。

筋がよさそうだというお世辞の言葉も、わかっていても嬉しかったし、先輩たちが穿いている黒袴だって、とてもかっこよかった。

だけど、空手の見学に行った時のことが頭を掠める。

静を重視する弓道もいいが、体を思い切り動かす空手もとても楽しかった。

それに――

――だけど

空手部には彼がいる。

内側から胸を貫かれたかのように、痛みが走った。

その穴から黒い靄が溢れ出し、全身に広がっていく。


突然の反応に、私は驚いた。

あの時と同じだった。

彼に抱き留められたあの時と。

あの時、私は咄嗟に、懐かしいと思った。

いったい何に懐かしいと思ったのかはわからないが、とにかく胸がドキドキして、懐かしくて、泣きたくなった。

そして、感情が高ぶって、もう耐えられないと思った時、突然胸が痛んだ。

袋が破れて中身が零れ出ていくように、今まであった懐かしさは消えていき、代わりに、言い知れぬ不安が溢れ出てきた。

怖い。

ダメだ。

何を考えているんだ。

こんな感情は間違っている。

とんだ恥知らずだ。



この感情は罪だ。



胸に重い鉛が沈んだ。

私は、その感情を抱くことが許されないということを「知っていた」。



そう、それは泉に溶けて眠っているのだ。

広大な砂漠の下、地中深くに封じられている。

二度と外に漏れ出て来ないように、果てのない墓の下に沈めてある。

なのにどうして?

気泡がいくつもいくつも生まれては、泉の水を揺らすのを感じる。

決して再び目覚めることはないはずなのに。

目覚めさせてはいけないのに。

私は恐怖を感じて耳を塞ぐ。

しかし、水泡の立つ音は、鼓膜に直接響いてくる。

私は顔を歪めてその場から逃げ出す。

聞かなかったことにするんだ。

知らなかったことにするんだ。

そうすれば、何もなかったのと同じことだ。

少しでも遠くまで離れるんだ。




「あ…うん…やっぱり、弓道部に、しよっかな」

マルコはわずかに目を細めた。

「そうか」

周囲もいつの間に話が落ち着いたのか、こちらの話を聞いていたようだ。

「勧誘失敗だな、アニ」

「まぁ仕方ないね」

ジャンは探るような静かな視線を向けている。

「ごめんねアニ。せっかく誘ってくれたのに」

「あんたのことなんだから、あんたの決めたとおりにすればいいよ」

「うん、ありがと」

兼部って手もあるけど?とアニが冗談っぽく笑うので、私は、私の体力じゃとても、と笑い返した。



これでよかったんだ。

これで。



あれから、彼とはほとんど顔を合わせることがなくなった。





(20140307)


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