01.にわか雨の予感
草花が風に吹かれて一斉になびいた。
ふんだんに降り注ぐ陽の光を浴びて、のびやかに走る葉が艶めく。
私は草原に体を投げ出していた。
ざわざわと木々が呼吸する。
色濃い息吹の匂いが、私の澱んだ感情を浄化していった。
心は凪いでいる。
が、表層の心情がどんな状態であろうとも、常に奥底で静かに煮立っているものがある。
恐怖と、闘志。
それは血と共に巡る使命感と相まって、厳粛な高揚感をもたらした。
とはいえ、決して心を乱すものではない。
それは、毎日止めどなく心臓が脈打つのと同じように、身体に馴染み、既に自身の一部になっていた。
見上げる空は遠い。
この頃の空は、今よりずっと遠かった。
時折視界を横切る鳥たちも随分高い位置を飛んでいて、まるで、思うとおりにならないものの象徴のように感じられた。
あの頃の私は、今よりずっと不自由で、今よりずっと苦しくて、今よりずっと必死に生きていた。
あの頃の私。
――あの頃って、いつのことだっけ?
私は首を捻る。
あの頃――遠い、遠い、昔――
私は目を覚ました。
けたたましい音が耳元で鳴っている。
重い瞼をこじ開けて目覚ましを止めた。
手探りで電気を点ける。
人工的な光の刺激に目が染みた。
7時だ。
卒業式を境に変わった慣れない制服に袖を通し、よろよろと下に降りる。
「おはよう」
母親は目を剥いた。
「あらぁ、起きたの」
「入学式くらいちゃんと起きるよ」
おざなりに返事をして洗面所に向かう。
身支度を整え、食卓に座り、食事を取る。
朝練に行くようになった中学校の三年間で、私はこれらの作業をオートマティックにこなす技術を身につけていた。
いかんせん早起きが苦手な私だ。
いつもギリギリまで起きられないから、最短時間で準備を整える必要があるのだ。
それでも今日は30分遅い。
今までは朝練があって6時半起きだったが、これからは標準でその時間に起きなければならないのだと思うと、ちょっとうんざりした。
でもまぁそれを承知で選んだ高校だ。
選んだ理由は何とも情けないが、それでも一生懸命勉強して合格した。
このくらい許そうと思えるくらいには思い入れのある高校である。
「いってきます」
玄関を出て門扉を閉める。
そして隣を見た。
誰もいない。
私は満足げに鼻を鳴らした。
少し強めに風が吹いて、私は首を竦める。
季節は春とはいえ、4月の朝はまだ肌寒い。
しかし、天気予報では今日は20度まで上がると言っていたから、間もなく暖かくなるだろう。
隣の家のドアが開いた。
私と同じ高校の制服を着た男子学生が玄関から出てくる。
彼の制服もまた、真新しかった。
「おはよう」
私は声をかける。
男子学生は私の姿を認めて、目を真ん丸に見開いた。
そして、ちょっと待って、と言って家の中に戻っていく。
私がキョトンとしていると、再びドアが開いて彼が戻ってきた。
「ごめんごめん」
私は彼が手に持っているものに注目する。
「折り畳み傘?今日雨なんて降るっけ?」
彼は意味ありげな視線を私に向ける。
「降るだろうと思ってさ」
私はムッと口を尖らせた。
彼の言わんとすることがすぐにわかったからだ。
しかも、それは決して言われのない中傷ではなくて、小学校の頃…いや、下手をするともっと前から積み上げられてきた経験と実績の上に成り立つ物言いである。
私は言い返す言葉を持たないのだ。
「マルコのアホ」
クスクスと笑う幼なじみに、子どものような悪態をついた。
二人は並んで歩き出す。
今までは自転車だったが、今日からは電車通学なので、歩きで最寄駅へ向かう。
なんだか不思議な感じだ。
見慣れた道のはずなのに、新鮮に映る。
「知らない道みたいだ」
私の心を代弁するようにマルコが呟く。
「ホント。不思議。なんかさ、入学式の匂いがするよね」
「ああ。桜の匂いなのかな」
「桜の匂い…そっか、そうかも」
左隣を仰ぐと、マルコはにっこり笑った。
私の左隣にマルコ、マルコの右隣に私。
それが定位置だ。
車が、道幅にしては少々乱暴な速度で通り過ぎて行った。
マルコは私の腕を引いて位置を入れ替えようとする。
私は抵抗感を覚えた。
マルコの右隣。
そうじゃないと落ち着かないのだ。
「危ないよ」
マルコは困ったように首を傾げる。
「右がいいの」
私が返すと、しょうがないなと言って私を促し、道の反対側に移った。
(20131122)
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