54.胸の内
安堵か落胆かわからないため息を静かに落としたマルコをジャンは複雑な心境で眺める。
ジャンにはやはり理解できなかった。
ずっと傍にいた、しかも自分の好きな幼なじみが他の男の元に向かう手助けをする気持など。
ジャンは、マルコはもう少しずる賢さというものを覚えるべきだと思っていた。
自分は聖人君子ではないと言っておきながら、その行いは、ジャンにとってみれば聖人君子そのものだった。
清廉潔白と言ってもいい。
だが、清廉潔白は果たして正道か。
自身のために、欲望のまま行動を起こすことは邪道なのか。
そんな世の中クソ食らえだ。
ジャンは毒づく。
ジャンには、マルコが要らぬ枷を嵌め込んで自らを束縛しているように感じられてならなかった。
そんなことをしたところで、周囲から口だけで称賛してはもらえても、実際に得られるものなど何ひとつない。
損をするだけだ。
何故わからない。
ジャンはひたすら歯がゆいのだった。
マルコがスマホを耳に当てた。
しばらくして口を開く。
「ライナー?ごめんね、朝早く。今、家?よかった。ベルトルトもいる?うん。実はね」
ジャンは盛大にため息をつく。
どこまでお人好しなんだ。
そして自分で動けない親友の代わりに、自分が動くことを決める。
電話を切ったマルコの腕を掴んだ。
「ほら、俺たちも行くぞ」
マルコはジャンを振り返っておっとり笑う。
「ルーラは、一人で行くって決めたんだ」
「だからどうした」
「え…」
確かに、ルーラはマルコについてきてほしいとは言わなかった。
だが、だからといってその意向をこちらが汲んでやらなければならない謂われもない。
「お前には見届ける権利がある」
マルコを引きずるようにして、ジャンはライナーの家へ向かった。
ライナーはベルトルトにマルコからの電話の内容を伝えた。
「ルーラがこっちに向かってる」
ベルトルトは目を見開いて固まった。
動揺がまざまざと伝わってくる。
「どう、して?」
「お前に会うために、だ」
「え…」
「向かいの公園に来るよう伝言を頼んでおいた」
ライナーは表情を崩す。
「お前がグズグズしてるから、先を越されたな」
ベルトルトは不安定に視線を彷徨わせた。
ライナーは念を押すように尋ねる。
「会う、よな」
ベルトルトは両手をきつく握りしめた。
無意識にか、唇を噛み締めている。
でもライナーには返事はわかっていた。
だから彼が自分の口から答えを出すのを待つ。
やがてベルトルトは顔を上げた。
「会うよ」
その瞳は様々な想いを映し出して乱反射する。
「会いたい」
アニはスマホの画面を見つめている。
ライナーからのメールが届いていた。
『ルーラがベルトルトに会いに来る。俺の家の向かいの公園だ』
そうか、ようやく。
アニは頬を緩めた。
傍目にはわかりにくいが、アニは心底ホッとしていた。
気が弱くて優しい幼なじみは、今までずっと過去の記憶に苦しんでいた。
それは暗い裏切りの記憶だった(そしてそれはアニにとっても同じことだった)。
かつての仲間たちはその罪を許すと手を差し伸べてくれたが、たった一人、ルーラだけはまた別だった。
ルーラは、裏切り者だったベルトルトを好いた。
そして、そんなルーラをベルトルトも好いた。
二人の行く先は透けて見えていた。
それでも、どうしても引き返すことができなかったのだろう。
アニは事の顛末を見届けたわけではないが、ベルトルトとライナーの正体を知ったルーラは、最期まで思い悩んでいたらしい。
ベルトルトは使命のために一度はルーラを殺めようとした。
そんなベルトルトをルーラは許した。
そして結局、正体を知られたベルトルトの盾になって、彼女は死んだ。
ベルトルトはルーラに対して深い悔恨の念を感じ、自分を責めた。
彼女に合わせる顔など無いと、心を閉じ込めた。
ライナーも負い目を感じているから、割って入って行くことができない。
アニはその話に割って入れるほど、今のルーラとも過去のルーラとも近しくなかった(実際はどうか、ルーラがどう思っていたかは別として、アニはそう感じていた)。
もどかしかった。
だから、ようやく二人が会うと知って胸が軽くなった。
今はすれ違っているが、会って話をすればわかりあえる。
アニはそう思っていたから。
ルーラも、ベルトルトを憎んだり恨んだりしているようには見えなかった。
避けてはいたが、気にしてもいた。
お互いがお互いの反応に怯えている、そんな印象だった。
でも、それもきっと今日変わる。
アニはスマホの液晶に指を滑らせる。
『私もそっちに行く』
それを見届けたいと思った。
ルーラは電車の中で祈るように手を合わせていた。
とは言え、祈っているわけではない。
漏れ出そうとする不安を必死に握り潰していた。
臆病な自分が今にも引き返そうとするのを叱咤し、座席に体を押し付ける。
会わなければならない。
会いたい。
でも、怖い。
朝も早くにチャイムを鳴らす私を見て、ライナーはどう思うだろう。
それでも、少し困った顔をして彼に掛け合ってくれるかもしれない。
でも、彼は?
窓からそっと自分の様子を窺うだろうか。
もしくは、それすらもしないかもしれない。
そうして、申し訳なさそうにライナーが戻ってくる。
すまない、今は会いたくないそうだ。
そう言って視線を落とす。
組んだ手に力がこもる。
考えるな。
今はただ、彼の元へ向かうことだけに集中するんだ。
笑い始める膝を押さえつける。
行くんだ。
今行かなければ、もうきっと、二度と機会は巡ってこない。
と、ポケットに突っこんでいたスマホが震えた。
ルーラはひどく驚いて跳ね上がる。
緊張で力の入らない手でそれを取り出すと、それはマルコからのメールだった。
『ライナーの家の前にある公園で待ってるって。がんばれ、ルーラ』
ルーラは思わず口元を押えた。
マルコが先に連絡をしておいてくれたのだ。
そして、彼が会うつもりで待っているということを伝え、励ましてくれた。
どうして自分のためにここまでしてくれるのか。
彼の懐の深さにただただ頭が下がった。
大丈夫。
がんばるよ。
ルーラは背筋を伸ばした。
不機嫌そうに黙っているジャンをマルコは微苦笑を浮かべて眺めている。
何故そこまで自分を犠牲にするのだ。
ジャンはそう思っているに違いない。
ジャンはマルコのことをよく極度のお人好しと称するが、その実、それはジャンにこそ当てはまる。
他人のことでここまで、まるで自身のことのように苛立っているのがいい証拠だ。
マルコはルーラのためだけに彼女を行かせたわけではない。
マルコは待っていた。
この時が来るのを、焦燥感や期待や絶望とともに。
これは、マルコにとって賭けだった。
ハイリスク、ハイリターン。
常には堅実な道を選ぶマルコであったが、この大博打だけは、避けて通ることはできなかった。
もう、避けて通ろうとも思わなかった。
この賭けに勝つことでしか、本当の意味での、自身が望む形でのチャンスは得られない。
悩みに悩んで、マルコは今やそのことを深く理解していた。
だからジャン、これは僕自身のためでもあるんだ。
けれどマルコはジャンに感謝していた。
今、こうしてルーラを追って電車に乗っているのはジャンのおかげだ。
気にならないはずはなかった。
だが、それでも行くべきではないと――いや、二人のやり取りを目の当たりにするのが怖くて、きっと一人では踏み出さなかっただろう。
ジャンの行動は、そんなマルコの心情を見越してのものだ。
やはりどこまでもジャンはそういう人間だった。
ありがとうジャン。
感謝してる。
(20140809)
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