その手をつかんで

53.会いたい


記憶が戻ってから、もう二週間が経つ。

今週は金曜休みの三連休だった。

金曜、土曜と部活があって、明日、日曜日は一日休日となっている。

野球部などの一部の部活を除き、ほとんどの部活がそうだった。



記憶が戻る前兆があった頃から、授業もそうだが、部活にもろくに身が入っていなかった。

ミカサには何度も心配されたし、先輩にも指摘された。

何も言い返せなかった。

もちろんミカサの懸念や先輩の注意が正しいからだ。

いつまでもこのままではいけない。

しゃんとしないと。

私はベッドに体を投げ出してため息をついた。

でも、疲れた。

今は、あの記憶を受け止め、受け流すだけで精一杯だ。

マットレスに沈み込む体は鉛のように重い。

明日が休みで助かった。

今日は早めに寝て、明日も一日ゆっくりしよう。

そうして月曜からの一週間に備えなければ。

いつまでも、みんなに気を遣わせているわけにはいかない。

私も彼らに応えなければならない。

あそこまで真摯に私と向き合い、諭してくれるのだ。

彼らの良心は本物だ。

私を受け入れようとしてくれている。

きっと、それは間違いないんだ。

――たとえ本音がどうであれ――心の奥底で恨む気持ちがあったとしても、その本音を飲み込んで私を認めてくれている。

それでいいじゃないか。

少しずつそう思えるようになった。

それにつれて、みんなとも徐々に普通に話せるようになってきていた。

――でも。

たった一人だけ、彼だけは別だった。

そんなふうに割り切って考えられなかった。

彼に軽蔑の視線を向けられるのは――拒絶されるのは、きっと耐えられない。

そう。

それが怖くて、会いに行けないのだ。

記憶が戻る前、彼は私を一人の友人として扱おうと努力してくれていたように思う。

それでも、彼は一度だって自分から積極的に接触してくることはなかった。

シャープペンシルを届けに来てくれた時もライナーに預けて帰るつもりだったようだし、思い返せばいつも話し掛けるのは私からだった。

穏やかに応対してくれたのは、彼の思いやりだったのだろう。

そんな彼に、私は何度も避けるような態度を取った。

彼は何も言わなかったけれど、嫌な思いをしていただろう。

避けたいのは彼の方だったろうに。

彼の優しさに胸が痛んだ。

じゃあ、今は?

記憶が戻った今はどうだろう?

以前と同じようにはいかない。

私たちはお互い、もう過去の罪を知っているのだ。

――会えない。

彼はきっと、私には会いたくないだろう。

未だにずっと姿を見せないのがその証拠ではないか。

――あいつは多分、自分からは来ないぜ。

ユミルの言葉が響く。

そうかもしれない。

でも、なら尚更、私からは会いに行けない。

暗澹たる気持ちが麻酔のように身体を巡り、眠気がじわりと広がってきた。

瞼が重くなってくる。

だるい。

疲れた。

――このまま、曖昧に濁したまま過ごしていくんだろうか。

過去には触れず、必要以上に関わらず、この先、ずっと。

そうして過ごしていくのか。

あの頃の記憶を抱えたまま。

――今はもう、考えたくない。

眠ろう。

私の意識はゆったりと泉の中に沈んでいった。





砂煙が舞う。

靴の裏に地面の感触を感じて、私は我に返った。

その瞬間、戦慄した。

そこには彼と彼の友人と、殺意に満ちたどす黒い視線があった。

一瞬にして状況を把握した私は、弾けるように地を蹴る。

辿り着くべき先を真っ直ぐに見据えた。

たった数メートルの距離がもどかしい。

身にまとう服にかかる空気の抵抗さえ煩わしかった。

体がついていかずに手だけが先へ伸びる。

一瞬でも早く辿り着かなければ。

彼女より、ほんの僅かでも早く。

でなければ彼女の刃は確実に彼を捉えるだろう。

私は走る。

胸中に嵐を抱えて。

荒れ狂う風刃は私の心を裂く。

そこから、吠えるような感情がほとばしった。

――ベルトルト…!

――私は決めた――





目が覚めると息が上がっていた。

額には汗が滲んでいる。

けれど、そんなことはどうでもよかった。

私はいても立ってもいられずに跳ね起きる。

心臓の音が嫌にうるさい。

全身が沸騰したみたいに熱かった。

今、心に灯っている想いは一つだけだった。

――会いたい。

会いたい。

会いたい。

会いたい。

今すぐに会いたい。

私は時計を見上げる。

時刻は7時40分を指していた。

休日にしてはまだ少し早い時間だ。

でも、マルコならきっと起きてる。

私は小窓のカーテンを開けた。

マルコの部屋を見ると、既にカーテンは開いている。

やはりもう起きているようだ。

私は窓を開けて、おもちゃのバドミントンラケットをマルコの部屋の窓に伸ばす。

それで数回ガラスを叩いた。

彼を呼ぶ時のお馴染の方法だった。

しばらくするとマルコが姿を見せ、一度手を振ってから窓を開ける。

その後ろから、ジャンが顔を覗かせた。

私は驚いて目を瞠る。

「おはようルーラ。どうしたの」

「ジャン、来てたの」

「まあな」

「マルコ、あのね、あの…ベルトルトの家の住所を知ってる?」

二人の表情が変わる。

でも、それに構っている余裕はなかった。

ただ、強い思いに突き動かされて、私はもどかしく口を動かす。

「あ、会いたいの。今すぐ、会いたい。お願い。教えて」

「ルーラ、一回落ち着け」

ジャンが待ったをかける。

私は激しく首を振った。

それが無理だからこうしているのだ。

「お願い。お願い、マルコ」

「ルーラ」

マルコはおもむろに笑みを浮かべた。

「わかった。ベルトルトに会いたいんだね?」

私は高ぶる感情のままに頷く。

「今日はベルトルトはライナーの家に泊るって言ってた。だから、教えるのはライナーの家の住所だ。それでいい?」

「いい!」

「確認してメールで送るよ。待って」

マルコは窓を離れた。

後にはジャンが残る。

ジャンは何か言いたそうな顔をして、でも黙っていた。

ジャンにしてみれば言いたいことはたくさんあるだろう。

私を責めて罵倒したいこともたくさんあるだろう。

例えば今の状況がまさにそうだ。

でも後にしてほしい。

今はとにかく、何を置いても彼に会いたいんだ。

「送ったよ」

マルコがスマホを手にして戻ってくる。

私は自分のベッドの上のスマホが鳴っているのを確認して声を上げた。

「ありがとう!」

「今すぐ行くの?」

「あ…うん…迷惑なのはわかってるんだけど…」

「連絡は?」

私は俯く。

「反応が、怖い。もし…」

拒絶されたら。

でも、会いたい。

「先に知ったら、動けなくなりそうで」

「出掛けてるかもしれないよ?」

「いい。とにかく、今、行きたい」

マルコは頷いた。

「わかった。行っておいで」

私はホッと安堵した。

マルコの紅茶色の瞳が温かく私を押す。

「事故んなよ」

ジャンもぞんざいに言葉を放った。

「うん!」

ありがとう、マルコ、ジャン。

私は急く気持ちのままに準備を整え、家を飛び出した。





(20140804)


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