50.重なる面差し
ルーラの記憶が戻ったことは、マルコによってみんなに伝えられた。
ジャンはいつもの待ち合わせ場所、駅前広場でマルコとルーラを待つ。
ルーラを連れて家を出たと、先ほどマルコからメールがあった。
とりあえずは第一関門クリアだ。
流石はマルコってところか、とジャンは独りごちる。
ルーラの記憶が戻った。
ジャンは入学式の日のマルコとの会話を思い出す。
――僕はね、ジャン。必要な混乱なら仕方ないのかもしれない、と思ってるんだ。
――マルコ…まさかお前――待ってるのか?あいつが思い出すのを。
ルーラはとうとう思い出した。
マルコの言う「必要な混乱」が何なのかジャンにはわからないが、果たしてそれは上手く作用するのだろうか。
マルコは、どうなればそれが上手く作用したと判断するのだろう。
その「上手く」は、誰にとっての「上手く」なのだろうか。
マルコの場合、それは必ずしも自分に向かないことをジャンは知っていた。
ジャンはそんな彼をもどかしく思っていた。
しばらくすると、二人の姿が見えてきた。
マルコの右隣にルーラ、ルーラの左隣にマルコ。
ルーラの記憶が戻る前から、二人の立ち位置は変わらない。
ただ、あの立ち位置にルーラがどうしても拘っていた理由を本人が自覚したということが、唯一にして最大の違いだろう。
マルコがジャンを見つけて手を上げる。
ジャンは応じて上げようとした手を途中で止めた。
ルーラがマルコの半歩後ろで立ち止まったのだ。
マルコが気付いて促すが、それ以上足を踏み出そうとしない。
ジャンの姿を認めて尻込みしているのは明らかだった。
ジャンは構わず二人に向かって歩き出す。
ルーラが気圧されて足を引いた。
一歩、一歩と距離が詰まってゆく。
差が縮まっていくほどに、ルーラの落ち着きがなくなっていった。
あと10Mというところまで来たところで、ルーラが身を翻し、走り出した。
慌てて後を追おうとするマルコを引き止め、俺が行くと一言置く。
少し足を速めれば、ルーラを捕らえるのはすぐだった。
ルーラも始めからわかっていたのか、抵抗はしない。
「朝から無駄なことさせんなよ」
「ごめん」
顔を上げたルーラの表情に、ジャンは一瞬息を止めた。
憂いを帯びた瞳、苦悩を滲ませた唇は、妙に大人びていた。
「ほら、行くぞ。マルコが待ってる」
振り返った先にはこちらの様子を見守るマルコの姿がある。
「ジャン」
ジャンはルーラに向き直った。
少しくらいぐずられても無理やり連れて行くつもりだった。
「ごめんなさい」
ルーラは顔を伏せる。
流れ落ちてきた髪が、彼女の表情を覆い隠した。
「ごめんなさい。私…」
ジャンは目を瞠った。
ルーラが一体何に謝っているのか、わかってしまったからだ。
――バカヤロウ!息をしやがれ!
あの時の光景が蘇る。
――ふざけんなよ…!このままだとお前、死んじまうんだぞ!
彼女の指先は、一度だけ震えた。
――起きやがれ!起きて弁明しろ!
だが、その一度だけだった。
彼女はそのまま目を覚まさなかった。
記憶の戻ったルーラが真っ先にジャンに謝る理由など、一つしか思い浮かばない。
そうか、こいつはやっぱり、あいつらの正体を知ってたんだな。
ジャンは込み上げた感慨をため息に乗せて静かに落とす。
でも、もういいんだ、そんなことは。
ジャンは、ルーラが早退すると宣言した時に掛けた言葉をもう一度掛ける。
「『大丈夫だ』っつったろ。くだらねえこと言ってねーで早くしろ。遅刻すんだろ」
ジャンは踵を返して歩き出した。
ルーラがちゃんと後をついてくるかと少しだけ緊張したが、向こうで待っているマルコがホッと口元を緩めたのが見えて、苦味を帯びた笑みが漏れた。
教室のドアの前で、ルーラはやはり立ち止まった。
顔色が悪い。
額には脂汗が滲んでいた。
けれど、マルコとジャンは帰った方がいいとは言わなかった。
マルコが手を引き、ジャンが背中を押す。
そんな三人の姿をそれぞれ席に座っていたアニとライナーが捉えた。
アニは三人の出方を窺うように見つめ、ライナーは腰を浮かせる。
「おはよう、アニ」
「おはよう」
マルコの挨拶に返事を返すと、アニはルーラに目をやった。
「おはよう、ルーラ」
ルーラは一度唇を空回りさせてから震える声で答える。
「おはよう、アニ」
ライナーが駆け寄ってきた。
マルコとジャンに視線を走らせ、そしてゆっくりとルーラに留める。
「ルーラ」
「ライナー…」
ルーラの瞳には、様々な表情が浮かんでは消えた。
二人の関係は少々微妙だった。
彼はルーラにとって、仲間であり、恋人の親友であり、良き理解者であり、裏切り者であり、脅迫者であり、共犯者であり、結局関係が曖昧なままになってしまった――ルーラがそうしてしまった相手であった。
「具合、どうだ?」
「うん、平気」
「嘘だな。額に汗が浮いてる」
ルーラは弱々しく笑う。
「でも、帰った方がいいとは、言わないんでしょ」
ライナーは微苦笑を返した。
「そうだな」
ルーラは短く息をつく。
彼らの言動一つ一つが既視感を呼び起こし、その既視感がルーラに過去の情景を見せる。
香染の兵服を着たライナーがルーラを振り返る。
――よお、調子はどうだ?
そっと背中を支えるように、二人を見守っていたライナー。
少しずつバランスを崩してゆく彼の優しさに、ルーラは胸を痛めた。
――あいつは止めておいた方がいいと思うよ。
あの頃、アニとルーラはほとんど会話を交さなかったが、ある時に受けたアニの忠告をルーラは後々もよく覚えていた。
あの頃のアニは、今よりも冷めた目をしていた。
――また話したくなったら来ればいいよ。
ルーラがふと振り向くと、マルコは後ろでニコニコしながら手を振っていた。
彼の最期を目の当たりにした時は、心の芯まで凍りついた。
いや、今でも身震いする。
――目を開けろ!
ジャンは何かにつけて人に絡んでは、相手を困らせていた。
ルーラにとってジャンは、最初はただの嫌なやつだった。
でも、変わった。
空に舞い上がる命の炎から、マルコの思いを拾っていた。
彼らの顔が二重にブレて、過去の彼らがルーラに語りかけてくる。
その度に、ルーラの感情は激しく揺さぶられた。
心の負担は苛烈だった。
胸がグシャグシャに圧し潰されてしまいそうだった。
ルーラは足元をふらつかせた。
ライナーが慌てて支える。
「ごめん」
「大丈夫か」
ルーラは小さく頷く。
「席、座りたい」
あまりまとわりつくのも負担になると、マルコの目配せでみな自席に戻った。
ルーラも着席し、深い深い息を吐く。
目の前が少し揺れた。
数分後、教室に入ってきたエルヴィンを見て、ルーラは大いに動揺した。
昨日の今日では、教師のことまでは考えが及ばなかったのだ。
不意を突かれた分、咄嗟の混乱は激しい。
エルヴィンは、あの頃ルーラが所属していた組織のトップだった。
ルーラも一度だけ直接話したことがある。
彼は当然、組織の中に裏切り者が紛れ込んでいたことを知ったはずだ。
ルーラが彼らを庇ったことも、耳に入っただろう。
彼は自分をどう思っただろうか。
どうしようとしただろうか。
ルーラは吐き出す息を震わせた。
ルーラとエルヴィンの目が合った。
ルーラはすぐに目を逸らそうとしたが、引力の強い瞳に当てられ、無防備に視線を受け止めてしまう。
全てを見透かすような眼光に、ルーラの表情は素直に強張った。
エルヴィンは、サッと教室を見回す。
そして、納得したようにルーラに視線を戻した。
ルーラの表情と、それを見守るような数名の生徒たちの視線を見て、エルヴィンは悟ったのだった。
ルーラがかつての記憶を取り戻したことを。
(20140720)
*←|→#
[bookmark]
←back
[ back to top ]