その手をつかんで

44.覚悟を決めよう


ジャンはギョッと目を剥いた。

授業中らしからぬ派手な打音が響いたからだ。

音源を辿って首を巡らせると、ルーラが手で額を押さえつけていた。

またあいつか。

最近しょっちゅうだった。

授業中や昼食中にうつらうつらして、支えの肘を滑らせたり、頭を打ち付けたりしている。

しばらくは気付かなかった。

自分自身も割とよくあることだからだ。

だがもう間違いないだろう。

あの日から眠れていないのだ。

ジャンはため息をつく。

ルーラはあの夜からまともに眠っていない。

そう気付いて思い返してみれば、声に力はないし、会話は上の空だし、歩いていてふらついている場面もあった。

調子が悪いのは明らかだ。

が、しかし、誰だってルーラの事ばかり見ているわけではない。

わかるわけがないだろう。

少々苛立ちながら思う。

だからこそ、こうして周囲の、しかも自分みたいなやつが気付いたということは、事態は深刻化しているということだ。

しかし、マルコなら気付けたのではないか。

あんなことがあった後だ、マルコはルーラに気を配ったはずだ。

が、必要以上にルーラを気遣うような素振りは見られなかった。

マルコさえ気付かなかったということだ。

ルーラなりにそういう態度を見せまいと行動していたのだろう。

それももう限界ということだ。



ルーラもそれなりに頑固だと、ジャンは知っていた。

あの時、大人しくマルコのところに行けと言った自分に対し、彼女は決して首を縦に振らなかった。

そのことからも片鱗は窺える。

ジャンは小さく舌打ちした。

そうだ、自分はあの時「行け」と言った。

それでも行かなかったのはルーラの判断だ。

ちくしょう、オレのせいじゃねえぞ。

ジャンは、マルコとのことを指摘したこと自体は間違っていたとは思っていない。

しかし、結果的に招いているこの状況については、一定の責任を感じていた。

だが、一方で、あそこで甘えに乗らなかったルーラに好感を抱いたことも確かだ。

そう、彼女はただ頑固なわけではない。

きちんと自分で何をどうすべきか考えているのだ。

おそらく、今も。

ジャンが思っていたよりも、そして、たぶんマルコが思っているよりも、ルーラはしっかりしている。



「おーい、クローゼ!今寝てただろう?」

生物の担当教師であるハンジが、愉快げにチョークをルーラに向けた。

ルーラの引きつった喉がヒュウと鳴る。

「い、いえ…あの…」

「よーし!罰として…」

ルーラの顔が悲壮さを増した。

ハンジが「罰として」と言い出した場合、その後に続くのはたいていろくでもないことだった。

ルーラは既に一度洗礼を受けており、また、最初の犠牲者でもある。

「ミジンコとゾウリムシとミドリムシの違いについて、絵で説明してもらおうかな!」

「え…」

ルーラは戸惑いながらも慌てて教科書を手に取った。

「あー、ダメダメ。見ちゃったら面白くないだろう?」

教科書を見てはいけない理由が「復習のためだから」ではなく「面白くないから」であるところがハンジらしい。

ルーラは泣きそうな顔をして黒板の前までトボトボと歩き、ハンジに渡されたチョークで、歪んだシャボン玉に毛が生えたようなものを三つ描いた。

途端にハンジが、大笑いを始める。

「何だいこの、出来損ないのお好み焼きみたいなのは!」

つられて笑い出すクラスメイトを横目に、ルーラはもはや半泣き状態で席に戻った。

これは同情の余地ありな気がした。

その後、正解はこれだよ、と言ってハンジが黒板に描き出した微生物たちがあまりにリアルで、しかも芸術的に上手かったものだから、クラス一同は驚嘆のため息を漏らし、若干引いた。



授業が終わると、皆は教室へ戻る準備を始めた。

ハンジは必要もないのに授業を理科室でやりたがるのだ。

マルコは先生に頼まれた用事があるからと、ジャンの肩を叩いて先に帰っていった。

途中でチラリとルーラを振り返るのが見える。

ジャンが気付いたくらいだ、マルコも今や彼女の異変に気付いていた。

ジャンは軽く伸びをしてから理科室を出る。

アニとルーラが前を連れ立って歩いているのが見えて、なんとなく距離を開けて二人を眺めた。

途中、アニは部活の先輩と思わしき男に声を掛けられ足を止める。

ルーラは小さく手を振って先に歩き出した。

ジャンもアニの横をすり抜けていく。

すれ違う瞬間、アニとジャンの視線がかち合った。

アニが無言で顎を突き出す。

ルーラを見ていろという合図だ。

だが、そこまで過保護にならなければならないほど、彼女は子どもではないとジャンは思っていた。

今のルーラの体調を一番わかっているのは、おそらくルーラ自身だろう。

その原因が不眠からくるものであることも、眠れない原因が夢にあるということも、人間は眠らずにいることは不可能であるということも、きっと全てわかっている。

今はまだ抵抗し、葛藤していても、彼女なら気付くはずだ。

いや、気付いているはずだ。

限界が近いということに。

その前に、決断するだろう。

と、前を歩くルーラの膝が折れ、その場にへたり込んだ。

ジャンは自分の考えが一気に揺らいでいくのを感じながら、慌ててルーラに駆け寄る。

「おい…!」

「大丈夫」

ルーラは立ち上がる。

大きく息を吐いて、ジャンに目を合わせた。

そこには、ほんの少しの諦観と、ため息のような自嘲と、大きな決意があった。

「ジャン、ごめん。私、体調悪いから帰るね」

きっぱりと言い切った彼女は、何かを吹っ切ったようであった。

ジャンはやれやれと笑みを漏らす。

「ああ、そうしろ」

ほら、オレの目に狂いはない。

こいつは今、覚悟を決めたんだ。

「一人で平気かよ?」

「平気。部活も行けないから、ミカサにそう伝えておいて」

ルーラは片目を瞑ってみせる。

余裕あんじゃねえか、とジャンはルーラを小突く。

ルーラはくすぐったそうに笑ってから踵を返した。

「ルーラ」

ジャンは思わずその後ろ姿に声を掛ける。

ルーラは不思議そうに振り返った。

ジャンは一つため息をついて頷いて見せる。

「大丈夫だ。だから、安心してゆっくり寝ろ」

ルーラは小さく笑みを返した。



帰り支度をして教室を出ていくルーラの背中を見送りながら、ジャンはポケットを探った。

受信メールから適当なものを選んで返信ボタンを押す。

件名は面倒なので「re:」のままだ。

本文に必要事項だけ打ち込んで送信した。

宛先はもちろんマルコである。

『あいつ、体調不良で帰ったぞ』

間もなく返信…ではなく、本人が駆けてきた。

「ジャン!ルーラは…!?」

姿を認めるや否や、ジャンに詰め寄る。

「落ち着けよ。帰ったっつったろ」

マルコはしばらく緊迫感を顔に張り付けていたが、やがて一つ息を吐いてから肩を落とした。

「…悪い。どんな様子だった?」

「お前が想像してるよりはしっかりしてたよ。あいつ、多分、覚悟決めたぜ」

「どういうこと」

アニとライナーが話を聞きつけてやってきた。

「あいつ、帰ったのか」

「ああ。具合が悪いから帰るって、自分から言い出したんだ」

「そう…」

アニの声はホッとしたようでもあり、憂いを帯びているようでもある。

「開き直った目ェしてたな。あいつもわかってんだろ。もう限界だって」

三人の表情が一気に引き締まった。

ジャンも心持ち目元を険しくして頷く。

「あいつの記憶、きっと戻るぞ」

アニとライナーは、ほとんど無意識にD組の方に視線を向けた。

ルーラが過去の記憶を思い出すことで、少なからず心乱れるであろう友を思いやっている。

三人にしか共有できない複雑な感情が、そこにはあった。

「そうだな。わかってたことだ。時間の問題だった」

マルコがポツリと呟く。

「みんなにも一応報告しておこう。二人も、ベルトルトを気に掛けてあげて。言うまでもないだろうけど。それから、ルーラを頼む」

二人は頷いた。

「当り前だ。俺も…あの時はずいぶん世話になったからな」

「ジャンも、頼んだぞ」

ジャンはため息をつく。

「あのなぁマルコ」

マルコの頭をはたいて呆れたように笑う。

「お前は世話を焼きすぎなんだよ」

ジャンなりの、了承の合図だった。





(20140621)


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