「可能性の話」
父さんは、特に忙しい人だった。
大事な仕事を任され、毎日遅くまで働いている人だった。
父さんと話す時間も、限られた時間しかなかった。
そんな限られた時間に、父さんは話してくれた。
『可能性の話』
珍しく、父さんは休みだった。
仕事がひと段落ついたらしい。俺が朝起きて父さんの姿を見たのも、数か月ぶりというほどに忙しかった。
俺が起きてきた事に気付いた父さんは、明るい笑顔で「おはよう」と言った。
久しぶりに父さんと摂る朝食。
会話は少々少ないながらも、凄く落ち着いた。
父さんは子供のような人だ。
話してる時の表情は、子供のように無邪気な目をしている。
俺よりも子供のような目。
そんな父さんを見ていると、ある疑問が過った。
父さんには、クロウが見えているんじゃないのか。
一度そう考えてしまうと、好奇心旺盛な俺には、聞く以外の選択肢がなかった。
「とうさん…?とうさんって、このいえでなにかみたことある?」
俺が控えめにそう聞くと、父さんは首を傾げた。
「なにか…?なにかって…例えばなんだい?」
父さんにそう言われ、言おうかどうしようか悩んでいると、父さんは優しい笑顔で言った。
「言ってごらん?大丈夫、私は口が固いよ?」
笑顔でそう言われると、俺は話すしかなかった。
途切れ途切れだが、俺はクロウの事を父さんに話した。
話している間の父さんは、真剣な顔つきで聞き入っていた。
静かに聞いている父さんに、少しの恐怖を感じながらも俺は話を続けた。
話を聞いた父さんは、興味深そうに紙に今の話をメモっていた。
研究者の癖なのだろう。
「成程…そんなことがあったんだね」
「とうさんは…みたことある?」
俺が聞くと、父さんは残念そうに首を横に振った。
「残念だけど、私は見たことないな。ゆうくんの話を聞いて、会ってみたくなったよ」
「そっか……」
父さんは大人になっても純粋だった。
なのに、クロウは見えないという。父さんほどの純粋さでも、大人になると見えないのだろうか。
クロウが言っていたあの言葉が脳裏に甦る。
このまま成長すれば、クロウが見えなくなるのではないか。
いくら幼い俺でも、時間が経てばクロウの言いたかったことが分かった。
このままクロウが見えなくなるのは嫌だった。初めての友達を失うのだから。
だからと言って、幼い俺には何の最善の策さえも浮かばない。
俺の異変に気付いたのか、俯く俺に父さんが心配そうに顔を覗き込んだ。
「どうしたんだい?なにか悩み事でもあるのかい?」
そう言いながら俺の頭を優しく撫でてくれた。
父さんなら、何かいい案を知っているかもしれない。
「とう…さん、ききたいことあるんだ…」
意を決して、俺は父さんに縋った。
俺の悩みを、父さんは笑わずに聞いてくれていた。
そして、父さんは俺と一緒に悩んでくれた。
悩んで悩んで、父さんは一つ提案を口にした。
「だったら、ゆうくんが純粋のままで居ればいいんだよ」
「でも…むずかしいよ?」
「そうだね、純粋で居ることは凄く難しい。でも、ゆうくんがそれを忘れずに…クロウ君を忘れずに居れば、きっと大丈夫だよ」
父さんの言う提案には、確信が無かった。
だが、俺が信じていればクロウは見えるままで居られるかもしれない。そう信じるしかない。
心からクロウを忘れずに居れば、きっとクロウが見えなくなることはない。
幼い俺には、それしかない。
俺は父さんに「ありがとう」と言って、クロウの元へ走って行った。
父さんは、父親の見守る優しい目で、「クロウ君に宜しくね」と呟いた。
「クロウ!」
クロウはいつものように縁側に座っていた。
俺が声を掛けると、普段と変わりない雰囲気でこちらを見た。
俺の様子がいつもと違うのを感じたのか、クロウは俺を見つめたままキョトンとしている。
俺は、走って来たために乱れている呼吸をゆっくりと整えて、クロウに言った。
「クロウっ、ぼく、ぜったいにクロウをわすれないからっ」
俺の言葉に、クロウは目を見開いた。
「クロウのこと、わすれないからっ!みえなくなったりしないからっ、やくそく!」
俺は右手の小指を、クロウの前に突き出した。
クロウは状況がよく理解できず、俺の右手と顔を交互に見比べている。
「やくそく!クロウのことみえなくなったりしないって、やくそくするから!」
半ば叫ぶように言った。
俺が言いたいことをようやく理解したクロウは、少し呆れた表情で微笑んで、俺の右手の小指に自分の右手の小指を絡めた。
「そうか。約束、信じてるから」
クロウの願いに、俺は強く頷いた。
クロウを忘れるわけにはいかない。
クロウが見えなくなるなんて、俺には辛い事だ。
クロウも、一人置いて行かれるのは寂しいだろうから。
クロウの気持ちから考えると、俺は涙が止まらなくなりそうだった。
[ 179/211 ]
[*prev] [next#]
[mokuji]
[しおりを挟む]