「良かろう。哀れな愚者の決意、嫌いではない」
犬は少年に背を向けると、口をガッと開き、闇を吐いた。すると、闇は次第に形を作り、淀んで溶け出しそうな扉が行き止まりだった壁に現れた。
「行け、少年よ。その手にあるのを使えばいい」
言われて少年はパッと手のひらを見ると、いつの間にか小さな鉄の鍵を握っていた。
「ありがとう」
少年は小さくも犬に届く声で呟き、扉に手を掛けて押し開く。更に濃くなる闇に足が竦みそうになったが、なんとか踏ん張って慎重に中へと入って行く。
犬は、扉が閉まるまでただただ少年の背中を見つめていた。
その双眸が儚く揺れている事は犬自身も知らなかった。
其処は、紅で染められた辺り一面に、歪んだ黒の渦巻きが無数に描かれていた。
「……。ここが、悪魔のいる空間……」
悪魔とだけあって、その空間はまるで物語の異世界の様。そして嫌でも聞こえてくる音は、人間からかけ離れた、唸り、叫び、悲鳴、嘲笑い、そんなものばかりだった。これには少年も苦しみながら耐えるしかなかった。
下を向けば、ひび割れて不安定な瓦礫で出来た足場で、丸く広場になっている。足場の外側は何も見えず、底なし沼のように黒い色で埋め尽くされている。
広場は中心に真っ白な箱がポツンとあるだけで、他には何も無かった。
「あの箱……」
白い箱は、この場所で格別に存在を主張し、そしてただの箱よりも不吉なオーラを漂わせている。箱の蓋には小さな鍵穴が1つ。
少年は箱の前で屈むと、ポケットにしまった鍵を取り出した所で、同時に小さな紙切れが床に落ちた。
母親の残したメモ。拾い上げて、もう一度見る。
"悪魔の箱裏"
たったこれだけの、文章とも言い難い暗号に近いメモは、今の少年には理解が出来る気がしていた。
「箱の裏側。調べによるとこれの事で合っているはず……」
少年は軽くもなく重くもない白い箱を裏返す。そこには細く儚い線で何か書かれていた。少年の目がゆっくりと字面を追う。
"お母さんが守りたかったのは、ローレルなのよ。ごめんね、ローレル。ローリエを、宜しくね。"
少し間があり、その下には、
"――誰が笑おうと、守りたいものを守りなさい。"
と、小さくも真っ直ぐな想いの伝わる文字が綴られていた。少年はそれを想いごと慈しむように胸に抱き寄せ、下唇をギュッと噛み締めた。
言葉にせずとも、少年の胸の内は、不思議な温度が包み、それは少女の笑顔に繋がった。