うしろにいるよ
最初に出会ったのは丘の上だった。
青々とした若葉と穏やかな風の靡く綺麗な丘だった。
その丘のてっぺんに大きな白いキャンバスを置いて椅子に座りただ只管に絵筆を動かすその後ろ姿は、不覚にも美しいと思った。
ほっそりとした男。その男の身体で全体図は見えないが、キャンバスに描かれているのがこの丘の下に広がる大自然だということはなんとなくわかった。
俺が近づいても何の反応も示さないその男は、相当な集中力でこの絵をかき上げようとしているのだろう。
声を掛けたら邪魔かもしれないが・・・
「おい」
自然と口は動いていた。
完成間近の絵は今でも十分美しかった。
こんな絵を描いてしまうほどだ。
どれだけ希望に満ちた人間なのだろうか。
きっとこの世の全てを美しいものとして見ている人間に違いない。
そう信じて疑わなかった自分は、きっと浅はかだった――・・・
「・・・・・・」
今思えば、男が振り返ってくれたのはそれが最初で最後だった。
・・・振り返ったその顔は、美しい絵とは全く違う、暗い暗い顔だった。
この世の全てに絶望したような目。
まるで奈落の底を見て来たかのような、生気のない目。
驚く俺を数秒見て、けれどすぐに興味を失ったように再びキャンバスへと向かうその男。
絶望しているような顔なのに、やはりその絵筆は美しい情景を描いている。
アンバランスなその男。
「――俺のクルーにならないか」
「・・・・・・」
ピタッと男の手が止まる。
今度は男は振り向かなかった。
「聞いてるのか」
「・・・止めておいた方が良い」
随分と口を開いてなかったかのようなかすれた声が俺の耳に届いた。
「きっと、すぐに飽きる」
それは俺がこの男に飽きるということか・・・
それとも男が俺の船に飽きるということか・・・
いや、もしかすると両者だったのかもしれない。
俺は男を無理やり引きずって、自分の船に乗せた。
嫌がるかと思えばそうでもなく、ただ船に乗り、甲板の上にギーゼルを立てて黙って再び絵筆を滑らせる男は、他のクルー達と馴れ合おうとする素振りは一切見せなかった。
それどころか誰とも目を合わせず、キャンバスとだけ向き合う。
他のクルーたちには「何であんなヤツを船に乗せたのか」とよく聞かれる。
何故だと聞かれれば、何故だろうと自分でも疑問に思ったのが最初の頃。
でも今になればわかる。
随分と俺は、あの・・・キャンバスの右端に書かれたサインで○○という名なのだと知った男のことを好いてしまっていたらしい。
思えば一目惚れだったのだろう。
手に入れたいと思ったのだろう。
だから船に乗せた。
だが・・・
「なぁ、○○・・・」
今日もお前は俺を見ない。
最近になって知った。
○○が美しいモノを描くのは、現実の世界に絶望しているからだ。
この世は薄暗くて汚い。だからキャンバスの中を美しいモノで埋め尽くす。
今日○○が描いているのは幸せそうな恋人同士。
絵の中の美しい女が絵の中の男と幸せそうに笑っている。
それは○○が愛などマヤカシだと思っている証。
「なぁ・・・」
振り返ってみろ。
なぁ、頼むから。
少し前の俺なら、同じように愛なんてマヤカシだと嘲笑っただろう。けれどもう違うんだ。
そう思おうとも○○は今日も振り向かない。
お前を愛する人間はお前のすぐ後ろにいるというのに。
うしろにいるよ
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