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「すげぇトントンしてる」
「え」
「腕組みながら指トントン」

 オレんちにやってきたイヌピーからそう指摘されて、ようやくオレは無意識のうちに腕を組みながら人差し指で二の腕を高速ノックしていたことに気づいた。

「ココ、苛つくとそれするよな」
「あーー……そうだな」
「またあの女が原因だろ。くそ、ココに迷惑ばっかかけやがって。ココの女じゃなけりゃ締めてやんのに……」

 口惜しそうに呟くイヌピーに「ハハ」と乾いた笑い声を上げる。イヌピーは本当に麻美が嫌いだ。麻美はイヌピー曰く世界一の糞女=B居丈高な振舞いやワガママで気に要らないことがあればすぐにヒスって駄々をこねる幼稚な精神性がとにかく嫌いらしい。こんな風に自分の女をけちょんけちょんに貶されたらムカつきそうなものだがオレ自身そう思うので笑うことしかできない。

「何しやがったんだあのアマ今回は」
「んーまあちょっとネ」

 麻美が昔のセフレにマウントを取られたことから拗れたと説明する気にはなれず適当にぼかす。麻美もなんでああいちいちマジに取るんだ。人の話全っ然聞かねぇし。あーーー思い出したらまたムカついてきた。

 わかっていたことだが、麻美はマジめんどくせぇ女だった。
 すぐヒスるし、感情と涙が直結しているタイプだからすぐ泣くし、オレがいいなと思う女優ですら全力で嫉妬するし、一秒たりとも離れたくないとか言うし、そのくせヤるとなったら処女のごとく恥ずかしがる。

『ココ、やっ、ぁ……っ、……恥ずいよ……』

 何日か前の濡れた瞳で切々と言い募ってくる麻美がフラッシュバックした。……今そういうのいいから。しっしっと追い払うと、ケータイのバイブ音が鳴り始めた。

 イヌピーはジャージのポケットからケータイを取り出し画面を確認すると、口の端を少しだけ緩めた。それで相手が誰かわかる。……女だとか関係ねぇって言ってたのになぁ……。イヌピーは耳にケータイを充てるといつもよりほんの少しだけまろみのある声で、今カノの名前を言った。
 だが次の瞬間、イヌピーの声はいつも通りに戻る。

「……ユカコ……?」

 誰だユカコ。イヌピーが眉を寄せながら怪訝そうに尋ねると、電話の向こう側から『こ、ココ君って人に連絡取ってください!』と知らない女の声が聞こえた。ユカコ……っつー女が何故かオレと連絡を取り合いたがっている。意味わかんねぇ。理解不能すぎてイヌピーと顔を見合わせる。

「なんで、……つーかさっきからそっちうるせぇな。は? アイツが喧嘩の仲裁? ゴジラvsモスラ? ………………は?」

 イヌピーはぱちくりと瞬いてから、オレに焦点を合わせようとして、急にケータイを耳から離した。
 ケータイが、聞き覚えのある声を喚き鳴らしている。

『謝れ!!!!』
 
 今まで何回も聞いてきた、頭にキンキンと響くヒステリックな怒声。気に入らないことがあれば、すぐにキレる。

『謝れ!!! 謝れよ!!!! 無意味なんかじゃない!!!』
『麻美ちゃん落ち着こ〜! 落ち着こうね〜!』
『落ち着けるわけねーだろ!!!』

 馬鹿みたいに、弾丸のように、ただただ愚直に、オレを追い回してきた馬鹿女の声が、響き渡ってる。

『ココを馬鹿にするやつは全員殺すって決まりになってんだよ!!!!!』










 面貸せをオブラートに包んで言うと、女は「いいよ」とにこやかに微笑みながら二つ返事で頷いた。私に臆する様子は少しも見当たらず、それはそれで癪に障った。

 女と話すのにお洒落なカフェに入る気は当然全く起こらない。適当なファーストフード店に入った。

 ジュースだけ頼んで席に着く。お互い笑顔で向かい合った。

「麻美ちゃんよく私の大学わかったね、はじ……ココ君に聞いたの?」
「ううん、友達から教えてもらったんだー。ココ、全然マイちゃんの話しないから」
「そっかぁ、まぁ彼女にしたい話じゃないしね」

 うふふ……あはは……。
 昼下がりの穏やかな談笑のはずなのに、冷え冷えとした空気が立ち込めていた。少し離れたところで「ママー寒いよー」と子どもがぐずっている。

「そんなに私とココ君のこと気になる?」
「そうだね。いくら視界の端っこでも、」

 頬杖をつきながら、にっこり笑いかける。
 
「ゴキブリがいたら、気になるじゃん?」

 圧を込めながら一分の隙もなく笑いかける。中学の時はココに近付こうとした二年をコレで威圧し半泣きに追いやり『篠田先輩怖い』と言われるようになった。健気な美少女に対し『怖い』って何よと腹立たしい気持ちはあるけど、ココにたかる害虫を駆除できるのなら怖くてもなんでもいい。私を作り上げるすべては酸素以上にココに執着している。ココを私のものにするのならなんだってする。
 思い知らせてやる。ココの彼女は私だということを。ココは私のものだということを。
 この世でココを一番大好きなのは、私だということを。
 
 微笑みながらも眼差しは鋭く尖らせて、女を見据える。女は憂いのある目をぱちぱちと瞬かせると、楚々として目を伏せた。うっすらとピンクに色づいた頬の上で、長い睫毛が影絵を作っている。儚げで清楚な顔立ちは見れば見るほどココのタイプで腹立たしい。

「なんとか言えば?」

 苛々が募り詰問口調で促すと、女は息をついた。その態度がまた更にムカつく。……つーかなんで皆私と話すと溜息吐くの!! 意味わかんない!!

「ココ君、可哀想」

 女は哀れみを乗せた眉を八の字に寄せると、感情を籠めて切々と呟いた。

「…………は?」
「つまり、麻美ちゃんはココ君を信じてないってことでしょう?」
「そんなことひっとことも言ってないんだけど」
「信じてたらわざわざ私に会いにこなくない?」
「アンタがココにちょっかいかけてくるからじゃん!」
「私とココ君は友達だよ。麻美ちゃんだって男の子の友達いるでしょう?」
「いるけど私はアンタ達みたいに……!」

 続きの言葉は喉の奥で固まった。
 ココは、この女とセックスしたことがある。その事実を再確認すると、心臓がねじ切れるような痛みを覚えた。気道が狭くなってうまく呼吸ができない。
 悔しくて、ムカついて、悲しくて、頭がおかしくなりそう。
 十九歳ともなれば経験してる人間なんて普通だし、私だってその一員だ。彼氏が既に経験者だからって目くじらを立てて怒ったり悲しんだりする私を多分世間は潔癖とかヤキモチの度が強すぎると馬鹿にするのだろう。
 
 でも嫌だ。ココが私以外の女とヤッた。
 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ……!

 拳をぎゅうっと握りしめると掌が悲鳴を上げた。だけど構わず握り続ける。そうでもしないと理性が弾け飛びそうだった。
 
 最近は馬鹿にしなくなったけど、付き合いたての頃キスしたら『下手糞』と馬鹿にしてきた。あれは誰と比べてのことだったんだろう。もし、目の前の女とのだったらと思うと。

 奥歯を噛み締めながら殺意を籠めて女を睨みつけると、女は苦笑し、仕方なさそうに肩をすくめた。

「まぁ、そっか。ココ君信じられないのも仕方ないよね。本心なかなか見せてくれないし。……ねぇ、もしかしたら麻美ちゃんも知ってる? アカネって人のこと」

 女からあの人の名前が出てくるとは思わず、表情筋が凍りついたように強張った。
 目を見張らせた私から、女は「やっぱ知ってるんだ」と察してふんふん頷く。

「……なんでアンタが知ってんの」
「寝言。『アカネさん待って』って言ってた。普段のココ君とは全然違う声だったから、気になって調べたの」

 赤音さんと接する時のココは、いつもと違う。一生懸命でひたむきで、全力で恋をしていた。誰にも見せない顔をする。

『赤音さん、待って』

 あの人にしか見せない姿で、あの人を求める。
 
「人生投げうって治療費稼ぐくらい好きな人がいたんだもの。ホントに今自分のこと好きなのかな? って疑心暗鬼になっちゃうよね。不安になっちゃうよね。あんなに好かれないって、敵わないって思っちゃうよね」

 乾にキスしたあと静かに泣き崩れていたココが脳裏をよぎる。
 手を伸ばしても届かない場所で、泣いていた。
 でも手を伸ばしたとしても、届かなかっただろう。

「麻美ちゃん、可哀想」
 
 ココが求めていたのはあの人で、私じゃなかった。

「で。だから?」

 今更過ぎる事実は言われるまでもない。ギロリと睨み付けると、女の嘆かわしげに寄せられていた眉毛がすうっと引いていった。

「……だから? で済ませられるの?」
「私その悩み飽きたの。考えてもキリないし。今付き合ってんの私だし。そんなんでやめるとか馬鹿らしいし」

 足を組んで、踏ん反り返る。
 
「私、ココのこと一生好きだもん。ココが嫌って言ってもずっと傍にいるし、てか結婚するし。だから絶対、死ぬまでにはあの女に勝つ。ココは私と幸せにならなきゃいけないんだから」

 女は少し黙ってから、また笑った。一分の隙もない、完璧な笑顔だった。
 
「健気だね」

 ……初めて健気≠ニ言ってもらえたけどコイツに言われても全ッ然嬉しくないな。ていうか寝言で聞いたって。…………あ゛ーーーーー!
 
 ギラギラと敵対心を露に睨みつける私とは対照的に、女は水が流れるように笑う。
 
「あなた達お似合いだね。ココ君も健気だもの。亡くなったあともお金稼いで、ほんと、」

 爽やかな甘みのある声で、歌うように言う。
 
「無意味過ぎて笑っちゃうけど」

 胸に一拍の空白が垂れ込む。瞬く間にそれは私のすべてを食い尽くし、思考力を奪った。

 花びらのように柔らかそうな唇が一体何を紡いだのか、理解できなかった。

 無意味という言葉の意味を古いパソコンのようにちんたらと処理していくと、脳味噌はひとつの答えを導き出した。

 意味のないこと。
 
 あの人を救うために始めたお金稼ぎ。あの人がいなくなったら、誰のためでもなくなった。
 あのお金はどこにいったんだろう。
 
「ホントに安心してよ。私、ココ君のことホントにただの友達としか思ってないから」

 図書館にこもって、機械的に経済書を読み込んでいるココが浮かんだ。蝋で固められたように青白く強張った横顔は脳裏に深く刻み込まれているから今でも思い出せる。
 私がいくら話しかけても、ずっと無視する。ココ、ねぇ、ココ。こっち見てよ。何回呼んでも、私なんて存在していないと言うように、難しい本を読んでいた。

「私ね、賢い人が好きなの。だから、」

 私からココを奪おうとする女が嫌いだ。
 だからココのことを好きな女が嫌い。ココが好きな女も嫌い。赤音さん≠ネんて大嫌いだ。
 だから目の前の女は嫌いじゃない。

「暴走族上がりの男とか、友達くらいでちょうどいいの」


 
 殺す。

 

 目の前が真っ赤に染まったと同時に一瞬記憶が飛んで、気付いたら私は女を押し倒し馬乗りになっていた。
 女の頬が赤く腫れている。私はコイツを殴ったらしい。あまりの怒りに思考が散らかっていて、目の前の物事を認識するのにいつもより少し時間がかかった。
 女の胸ぐらを掴んで引き上げて、声を低めて凄む。

「調子にのんじゃねえよ」

 ココは口の悪い女がきっと嫌い。記憶の中のあの人は女の子らしい口調で喋っていた。けど止められない。

「あの女が生きてたらアイツ馬鹿みたいに一途だからオマエなんかとヤってねえんだよ!! ただのオナホ風情が!!!」

 今だけは止められない。

 子どもの泣き声が遠くから聞こえてきた。バタバタと駆け寄る音がどんどん近づいてくる。店長らしい男が「き、きみ!」と私を掴もうとしてきたのでギロリと睨みつけた。

「私に触ったら痴漢で訴えるから」
「えっ」

 店長らしき男の顔が一瞬で青ざめた。周りの客全員が私に注目していた。様々な種類の視線を注がれている。

「え、なになに」
「喧嘩?」 
「てかあの子すごいこと言ってなかった……?」
「言ってた言ってた……うわぁー……」

 どの視線も好奇心に覆われていたけど奥底に潜む感情は女には憐れみのもので、私には非難のものだった。

 女は周囲に視線を巡らせると、氷のように冷え切った目で私を見返した。
 くすりと唇の端を綻ばせて、たおやかに微笑む。

「それはあなたもなんじゃないの?」

 ――一生好きだから!

 頭の一点が燃やされたように熱くなった。手を振り上げて、女を殴る。女は無抵抗だった。だから私は女を殴る。殴る。殴る。もう一度殴ろうとした時、背後から羽交い締めされた。ぎらっと睨みつけた先には何故か乾の女がいた。

「麻美ちゃん! ストップ!!」
「うるせぇ!! 離せ!! 謝れ!!!! 謝れ!!! 謝れよ!!!! 無意味なんかじゃない!!!』
「麻美ちゃん落ち着こ〜! 落ち着こうね〜!」
「落ち着けるわけねーだろ!!! ココを馬鹿にするやつは全員殺すって決まりになってんだよ!!!!!」
 
 ぷっと噴き出す音が響く。そこには嘲笑が色づいていた。女は腫れた頬を抑えながら、嘆かわしげに眉を寄せる。

「ココ君も大変だね。ホント、可哀想な人生」

 怒りに上限がないことを私は知った。
 脳汁が沸騰するほど頭は熱いのに、胸は氷のように冴え冴えと冷え切っている。

「あんた、知っててなんで無意味とか言えんの……!」
「知ってるから幻滅したの。無意味なことに執着して、」
「無意味じゃない!!」

 嘘をつく。
 あの人が死んだあともお金を稼ぎ続けるココを、どうしていつまでも無意味なことを続けるんだろうと、私は思っていた。そんなことをしても赤音さんは喜ばないと諭したこともある。
 ココのためじゃない。一秒でもはやく私を見てほしかったから。私のことを好きになってほしかったから。
 私だって無意味だと思っていた。死んだ人間をいつまでも想ってどうすんの。違法行為で稼いでも罪状が増えるだけ。ねぇやめなよそんなこと。そんなことやめてはやく私のこと好きになってよ。

「ココが赤音さん助けようとしたのは無意味じゃない!!!」

 たしかにそう思っていたのに。

「離せ! 離せ離せ離せ離せ!!!」
「うわ、ちょ……っ、あーー! ユカリまだ来ない!?」
「た、多分もうすぐ……! わ、わたしも抑えるの手伝う……!」
「ユカリ駄目!!! 危ないから!!! この子マジ、ちょっ、ああもう……! 麻美ちゃんねぇ落ち着いてってば!!!」

 乾の女の声が幕を一枚隔てた向こう側にあるもののように聞こえる。耳から耳を通り抜けていって何の効力ももたない。でも私を羽交い締めにする腕は邪魔で、無理矢理暴れて拘束を抜け出した。女の胸ぐらを左手で掴んで右手を振り上げるとまた強く掴まれる。
 その掌は女のものじゃなかった。固くて、骨張っている。直感が閃くように宿り、目を見張らせて見上げた先には、息を乱しながら黙って私を見下ろしているココがいた。

「イヌピーの今カノに呼ばれた。正しくいうと今カノのダチにだけど」
 
 なんでここにいんのと顔に書いていたのだろう。ココは淡々と来た経緯を説明する。

 余計なことを……!
 乾の女を睨みつけると、乾の女はびくっと肩を震わせてから愛想笑いを貼り付けて「いやまぁこれはそのあのね昔のバイト先に来たらまさかのキャットファイトならぬタイガーファイトに遭遇しちゃってね。なんか話聞いてたらていうか聞こえてたらココ君が原因だしてゆーか麻美ちゃん止められるのココ君かドラケン君だけだし青宗君は無理だし」とべらべら言い訳をまくしたてる。

「今カノ。これ返しといて」
「え、ぉわ!? 青宗君のケータイ!? てか急に投げないでくれる!?」
「麻美」

 ココの呼びかけに私は答えない。俯きながらただ唇を真一文字に結んだ。

「麻美、こっち見ろ。麻美。……今カノ」

 ココは乾の女に視線を滑らせ「何があった」と尋ねた。
 血液が凍りついた。

 ココはこの女が嫌いじゃない。
 久しぶりの再会に親しみを覚えていた。視線が繋がった時、二人だけに伝わる何かが流れていた。

『……ああいうことする子じゃなかったんだけどな』

 ぼそりと呟いた声色には、女への信頼が透けて見えていた。

「……私も途中からしか聞こえてなかったんだけど、その、そっちの子が……」

 乾の女は逡巡してから躊躇いがちに口火を切った。そっちの子≠ノは咎めるような色がある。
 この女がココをどういう風に愚弄したのか、乾の女は知っていた。

「ココ君のこと――ぎゃっ!?」
 
 乾の女を突き飛ばす。バランスを崩しよろめいた乾の女はぽかんと口を開けていて、間抜け面だった。人の良さそうな顔だった。コイツが言っても信憑性ないけど私だったらきっと信じられる。

 腫れた頬を抑えている女を指さしながら、いつもの調子で言った。
 すぐにヒスる。偉そう。他人から眉を潜められる、いつもの物言いで。

「その女がココとヤッたのがムカついたから呼び出して殴った」

 小5の時ココのこと好きって言ってたユナにココのこと好きなのやめなかったらハブるからと遠回しに言って好きな人変更させたし中3の時ココが気になると言ってた2年呼び出したし他にも何人呼び出したっけ。何人圧かけたっけ。みんなココのこと好きなだけだったのに、気に食わなくて、私からココを奪おうとする存在が大嫌いで、怖がらせた。

「ココのこと好きな女なんて嫌いだから殴った。それだけ」

 性格キツくて、怖くて、悪くてよかった。
 そんな自分勝手な理由で殴ったとしても『あいつならやりかねない』と信じられるから。

 だからココは、知らずに済む。

「……っ別れないから!」

 ただじいっと私を見据えているココに、声を荒げて宣言する。

「絶対、絶対絶対別れないから! 私の性格がこんなんって知っててもオッケーしたのはココだからね! ココが悪いんだから!! ココが全部! 悪い!!!」

 支離滅裂なことをまくし立ててから、すうと息を吸う。熱く湿った息が喉を震わせた。

「ココが私の事嫌ったって私は一生! 好きだから!!!」

 カバンを引ったくって店を出る。いつの間にかオレンジ色に移り変わった空の下を歩いていった。今私は相当険しい顔をしているようで、すれ違う人間がさりげなく道を開けていく。オレあんな怖い女嫌だと言ってた同級生の声が蘇った。
 
 ココは私に引いているだろう。
 呆れているだろう。
 もうそれでもいい。そんなの今更だ。
 引かれるのも呆れられるのも慣れている。
 ココが私以外の女に傷つけられるよりは、マシだ。

 ――一生守る!

 守り甲斐のない、怖い女だと思われたとしても。






   


 毛並みは良いくせに目つきは荒んでいる。よく笑うけど、実際は笑っていない。
 私と出会った頃のココ君は、放浪の末野良猫として生きている、帰り方を忘れた元飼い猫みたいだった。
 

 

 お金はあるけど愛はないというありがちな家庭で育った私は中学に上がりたてのころ、親への反抗心か孤独感を埋めるためか、理由は今でもわからないけど、声をかけてきた男の子達に着いていった。
 悪いことを覚えるのは一瞬だった。夜になると家を抜け出し、悪い友達がいる場所に向かう。悪いことが格好いいと考える短絡的な思考回路には失笑したけど、馬鹿といることは嫌いじゃなかった。両親は愛人との逢引に夢中で、一人娘が夜な夜な家を抜け出すことに気付いていなかった。

 ココ君と出会ったのは、悪い友達とつるむようになって少し経った頃。悪い友達に『こいつマジ天才なの。ココの言う通りにしとけば一攫千金! 丸儲け!』と指を差されながら紹介されるココ君は『あんなん端金だろ』と薄く笑っていた。でも、目は笑っていなかった。心をどこか遠くに置いている人間の目に既視感を覚える。どこでだろう? 答えは帰宅してからわかった。洗面所の大きな鏡に映る私が、その目をしていた。
 ココ君は時々ふらりと溜まり場に訪れていた。十代前半から煙草をふかしシンナーに吸う男の子達と違って毛並みが良く、所作のひとつひとつに品が漂っていた。元々それなりのお家で躾けられて育ってきたのだろう。飼い猫が野良猫になったらこんな感じなのかな。

 ココ君と話すことは楽しかった。小学校からろくに学校に通ってない子達のように、私が日常生活を送る上で使う言葉に首を傾げることもない。ストレスなく会話できた。だから、一緒にいると楽しかった。それだけだ。

『ココ君、なんでこんなとこにいるの?』

 あまり人に興味を覚えない私だけど、ココ君がアングラな世界に身を置くようになった理由は気になった。ココ君からは単なるお金儲けのために軽犯罪を繰り返すような下品な感性は感じなかった。
 だから気になった。それだけ。

『金が欲しいから』

 ココ君はニコリと笑った。言外にそれ以上の追及は許さないと言っていた。細められた目の奥で、冷たい光が冴え冴えと瞬いている。

『そう』

 あ、これ無理だ。不仲の両親の元で育った私は感情の機微を読むのが得意だった。ココ君に引かれた線引を瞬時に受けいれ少しも食い入ることなく引き下がると、ココ君は静かに微笑んだ。

『マイちゃんは話が早くて助かる』

 マイちゃんは=B私と誰かを比べた物言いは、誰か≠ヨの苛立ちが籠もっていた。機械的に犯罪の計画を練り、仲間≠ナも使えないと判断したらあっさりと見捨てるココ君らしくない感情の波だった声に胸がざわついた。でもキスされたらどうでも良くなった。ココ君はキスがうまいから、それだけだ。
 その日にココ君の口からアカネ≠ニいう名前を聞く。苦しそうに切々と呟いていた。苛立ちは一匙たりとも含まれていなかった。

 アカネ≠ノついて興信所を使って調べると、ココ君への疑問は氷解した。小学生の分際で治療費を稼ごうとする。死人のためにお金を稼ぐ。ココ君、そんなことしちゃうんだ。馬鹿な友達よりも愚かな行動に引く。けど何故か幻滅よりも先立って出てきたのは敵わない≠セった。
 私はアカネ≠ノ、敵わない。息をするように、その答えは出てきた。

『マイちゃんは話が早くて助かる』

 私の事を見てよ。そんな風に言ってもどうせ無理だ。ココ君は今もアカネ≠想っている。宛先のないお金を必死に稼ぎ続けている。
 私はココ君のように馬鹿じゃない。無理なものに執着できるような愚かな精神性は持ち合わせていない。
 だから私はこれからも、話のわかる私で在り続ける。

『馬鹿なのはいいんだけどさ、制御できない奴無理なんだよね。話通じねえし。マジ疲れる』

 何かを思い出しているのか、ココ君はハッと鼻を鳴らした。本当に鬱陶しがっている。こんな風に煙たがられたらと思うと胃がヒヤリと冷えた。

『マイちゃんはいいわ。マジ楽』

 だからもう、余計なことは聞かない。感情的にならず冷静に。ビジネスのように淡々と。
 
 それならきっとこれからも、少しは、こんな風に会ってくれ――

『――お掛けになった番号は現在……』

 



 私との繋がりをあっさり断ち切ったココ君を今日、映画館で見かけた。3年ぶりに見たココ君は、女の子と一緒にいた。公衆の面前で喚き散らし、抱きついてくるような子と一緒にいた。可愛らしい顔立ちだけど言動の全て思慮が足りていなかった。
 ココ君はその子を麻美と呼んだ。アカネ≠カゃなかった。アカネ≠ヘもう死んでいるんだから、当たり前だけど。

 ココ君は麻美という子をからかう。見るからに浅薄な麻美という子はココ君の思惑に容易く乗っていた。それがココ君はすごく楽しそうだった。ああ、小学生の頃よく見た光景だ。みっともなくてバカバカしい、幼い男の子の拙い愛情表現。私の知るココ君は十代半ばとは思えないスマートな物腰で、私に接していた。一君って呼んでもいい? と聞いたら、その時だけ一瞬眉毛を少し不愉快そうに動かしたけど時々ならいいよと言ってくれた。てか急にどうしたのと訝しがるココ君になんとなくと返したらそれ以上追求してこなかった。私が答えたくないのを察してくれたんだろう。でも今ココ君はバカにしないでと吠え立てている麻美とかいう子をしつこくからかっている。

 二人のやり取りを眺めているうちに、虚無感が私の体内で、枝葉のように張り巡らされていった。
 
 気づいたら、じゃない。意図的にココ君に話しかけた。思わず声をかけちゃいましたなんてそんなことあるわけないじゃない。

 ココ君の彼女は実際に喋ったら、恋愛とおしゃれにしか興味のない馬鹿な子で、短慮な思考が透けて見えていた。煽るのは簡単だった。
 大学まで乗り込んできた時は失笑を堪えるのに大変だった。嘘でしょう? どれだけ煽り耐性ないの。
 私が私が私がって自己主張の激しくて、気が強い。ココ君、こういう子は嫌いなはずなのに。
 ココ君の彼女の麻美ちゃんは、会話したら愚かさが染みるように伝わった。

 浅はかでみっともない。取るに足りない、馬鹿な子。
 ココ君はどうして、

『私、ココのこと一生好きだもん。ココが嫌って言ってもずっと傍にいるし、てか結婚するし。だから絶対、死ぬまでにはあの女に勝つ』

 麻美ちゃんが臆することなくいけしゃあしゃあとそう言った時、私の体に亀裂が入った。隙間から魂がこぼれ落ちていく。

 どうして、

 低能の語る恋愛脳全開の未来展望なんて取るに足りないものと一蹴すればいい話なんだけど、どうしようもなく、腹立たしい。感情を、コントロールできない。
 欲しくてたまらないものを目の前で見せびらかされているような不快感がお腹の底で泥のように渦巻いている。

 どうして、
 
 麻美ちゃんは続けた。
 さっきと変わらない眼差しで、一直線に私を貫きながら。

『ココは私と幸せにならなきゃいけないんだから』

 どうしてそんな風に、思えるの?
 
 金属が熱で形を変えるように、視界が怒りでぐにゃりと歪む。憎しみで、体中の骨が捻れたように感じた。

 目の前の子は馬鹿だからそんな風に簡単に考えられるだけ。
 四千万稼ぐ決意をさせる女を超えるとか、馬鹿なんじゃないの。脳みそ入ってんの? 
 こんなどうしようもない馬鹿女と付き合うとか、軽蔑する。
 幻滅する。
 記憶の中のココ君を、笑っているけど笑っていない口角を、ここではないどこかを見つめている眼差しに大きく罰をつけて、どこかに追いやる。
 ココ君なんかどうでもいい。私はただ目の前の女が嫌いなだけだ。
 
 ココ君を詰ると、麻美ちゃんは馬鹿みたいに怒ってきた。口汚く罵り、殴ってきた。男の子の世界ならいざ知らず女は弱いほうが勝ちなのに、本当に馬鹿な子だ。白雪姫やシンデレラがどうしてヒロインになれたか私は知っている。儚げな綺麗な子がいじめられたら可哀想で庇護欲そそられるからだ。
 麻美ちゃんは知り合いの子に押さえつけられてもまだ暴れていた。ねぇどうしてそんなにみっともなくなれるの? 私への憎悪を剥き出しにして暴れる姿は滑稽で周囲は引いていた。怖がっていた。

 知り合いの子が呼んだらしい。私とはあっさりと関係を断ち切ったココ君が、息を切らして現れた。胸の奥が膿んだようにじくじくした。
 何があったか尋ねるココ君に麻美ちゃんは答えない。何よなんで言わないの。言えばいいじゃない。私がココ君を愚弄してたと言えばいい。私がココ君を本当は馬鹿にしていたと言えばいい。
 
 ココ君がやってきたことは、無意味。死んだ人間のためのお金稼ぎなんて、第三者からしたら自己陶酔に塗れたただのオナニー。私はずっとそう思っていたと言えばいい。
 ……ああ、そうしたら、それならようやく、傷ついてくれるかな。
 仄暗い喜びがじわりと広がっていく。だけどでも胸は依然として膿んでいた。

 ココ君は麻美ちゃんを止めていた女の子に何があったか尋ねた。うなじに刃を当てられたらこんな気分になるのだろう。鎖骨の辺りがざわついて、お腹の奥底がぎゅっと締め上げられる。
 麻美ちゃんを止めていた女の子は私に咎めるような視線を寄越した。

 ……聞いてたか。
 うなじに刃が食い込んだような気がした。

「そっちの子が、ココ君を――ぎゃっ!?」

 女の子は突き飛ばされて、色気のない悲鳴を上げた。
 麻美ちゃんが突き飛ばしていた。

「この女がココとヤッたのがムカついたから呼び出して殴った」

 麻美ちゃんは私を指さして、そう言った。
 自分を加害者に見立てた発言だった。

 どうしてそんなことをするのか、意味が分からない。

 ココ君は公共の場で暴力沙汰を起こすような女嫌いだと思うけど、でもココ君を馬鹿にされたからと動機を語れば思うところもあるだろう。情状酌量が適応された麻美ちゃんはココ君を慰めればいい。そうすればいいのに、どうしてそうしないの? 馬鹿なの? ねぇ、どうして、

「ココが私の事嫌ったって私は一生! 好きだから!!!」

 どうして、そんな風に、

 興奮で顔を真っ赤にしながらまくし立て終えると、麻美ちゃんは出て行った。

 店内は奇妙な静けさに包まれていた。関わりたくないけど気になる。そんな怖いもの見たさのような視線を受けながら、ココ君は呟いた。

「恥ずかしい奴」

 言葉だけ見れば呆れ果てたもので、ココ君も実際に呆れているけど、それだけじゃないことはわかった。
 だって、見てきたから。

「マイちゃん」

 ココ君はようやく私に焦点を合わせた。腫れ上がった頬の私はひどく痛々しいだろう。でも、ココ君は私を痛ましげに見ない。ただ平坦な眼差しで捉えていた。

「オレに二度と話しかけないで。てか、話しかけられても無視するけど」

 取り付く島もない声だった。追い縋ったとしても無理だろう。 

「別にいいよ?」

 そもそも、私に追い縋ることなどできないけど。

「この前だって、なんとなく声掛けただし。なのに麻美ちゃんあんな嫉妬してさぁ……。女の嫉妬って怖いよね」

 麻美ちゃんのようになりふり構わず想えない。
 ココ君の心に触れたい欲望よりも、自分のプライドを守ることのほうが大切だった。

「だからココ君の事なんか興味ない暴走族上がりの男とかどうでもいいって言ってあげたのに、超怒ってきたの。意味わかんない」

 酷薄とした笑みを浮かべる私を、ココ君はじっと見つめていた。視線を受けた所が熱を帯びていく。だけど気づかない振りをして、冷たく言い放った。傷ついてほしい。傷ついてほしくない。相反する感情が揺らいでいる。

「あんなどうしようもない子と付き合うとか、見損なった。幻滅」

 ココ君の瞳は少しも揺れなかった。「そ」と頷くだけ。傷つかなかった事の安堵感が広がるけど、それ以上に悔しさが上回った。

「……宗旨替えし過ぎじゃない?」

 皮肉を込めて問いかけると、ココ君は「確かに」とあっさり同意した。

「でもあのろくでもねぇ女じゃないと、もう無理なんだよね」」

 そして柔らかい声で言った。初めて聞く声だった。
 アカネ≠呼んだ時の声と少し似ているけど、違う。あの子だけに向けられた声だった。

「じゃ」

 ココ君は私の横をあっさりと通り過ぎていった。背後から自動ドアの開閉音が聞こえる。ココ君の連絡先を知らない私は今ここで追いかけなければ、二度と会えないだろう。
 でも私は追いかけない。だって追いかけたところでただ惨めなだけ。二度と話しかけるなと言い渡してきた男に、亡くなった後も思い続けるような存在がいる男に執着したって、そんなの、

『無意味じゃない!!』

 まだ頭にこびりついている麻美ちゃんの声が再生されて、たまらず顔をしかめる。まだ頭の中でキンキンと反響していて鬱陶しくて、あんな風になりたかった。












「ぜっっったい別れないから!!!!」

 道端の中心で、駄々をこねた。

「絶対別れないから!! 絶対絶対別れないから!!」

 店を出てからココとあの女を店に残してきたことに気付き、焼け木杭には火が付き易い論理を思い出して踵を返すと、ココが目の前に立っていた。いつも通り私を小馬鹿にしたスタンスで話しかけてくる。

「やっぱこっちか。麻美まじイノシシっつーかサメっつーか……キレたら直進、」
「別れないから!!!」

 ココの言葉を遮って言い募る。

「絶対別れないから!! 絶対絶対別れないから!! 一回オッケーしたココが悪いんだから!! 今、ココと付き合ってんのは……!!」

 女をオナホ呼ばわりした時、女の目に冷たい光が宿った。赤音さん≠ェ生きていたら最初から相手にされないと罵倒した時、女は私にこう返してきた。

『それはあなたもなんじゃないの?』
「オマエ勉強してんの?」

 暗く沈んだところに落ちかけた意識を、ココのあっけらかんとした声が引き上げて私を無理矢理現実世界に戻らせた。別れないからと必死に言い募っているところでまさかの『勉強してんの?』。私とココの温度感が違いすぎて、ぽかんと呆ける。

「やっぱしてねぇか。はぁ……」

 けどココはいつも通りだ。いつも通り呆れている。少しの間ポカンとしてから、怒りが猛烈に沸き上がった。

「誰のせいで勉強できなかったって思ってんの!!」
「はいはい全部オレが悪いです。だから今日うち来い。教えてやっから」
「そう!! 全部ココが悪い!! だから……、」

 ココの言葉を繰り返すと、怒りが止まった。
 ココは受験前は勉強を教えてくれた。嬉しくてわかる問題もわからない振りして聞き続けたら『うぜぇ』と教えてくれなくなった。

「ほら何ボケッとしてんだ。行くぞ」

 ココに手を掴まれる。私の指の間に指を入り込ませてきた。いわゆる恋人繋ぎに全身の血液が沸騰した。

「こ、へ、え、ど……!?」
「何語喋ってんの麻美。スワヒリ語?」

 指と指の絡まりを感じパニックになる。片思い期間が長すぎた反動で私はココから触られる事にとにかく弱い。セックスも三回に一回は鼻血で中断する。

「テスト終わったらどっか連れてってやるから。それ励みに頑張れ」

 優しくされることにも弱い。

「な、こ、そ、ば……!」
「マジで何語喋ってんだよ」
「だってココおかしい!! 引いてんじゃないの!? 頭打った!?」
「や? だって麻美いつもあんなんじゃん。今更って話。頭も打ってねぇよ。至って良好。大昔に教えてもらったこと覚えてるし」
「なに、その教えてもらったことって」

 私の知らないココがいるとかそんなの嫌だ。許せない。不機嫌に尋ねると、ココは私をじっと見てきた。怜悧な瞳に捉えられると、体が急速に熱を帯びていった。

「な、なに」

 ドギマギしながらせっつく。付き合って半年以上経つのに未だにこうなんて……! 悔しさから挑むように睨み付ける。
 ココは私の視線を真正面から受け取りながら、唇を開いた。
 
「麻美と付き合ってる限り他の女にリソース割けねぇってコト。オマエまじ疲れるし」

 そして、いつものようにべえっと舌を出した。
 
「……はぁーーー!? なに教えてもらってんの!! 誰!! 誰がそんなこと教えたの!!」
「小五の時習ったじゃん。ちゃんと授業聞けよな」
「ぜっっったいに!!! 嘘!!!!! ……多分!!!」
「麻美ちゃん語尾が弱々しいねー」
「どーーして私だけいつもそんな馬鹿にしてくんのーーー!!」

 横浜県とか言う乾は馬鹿にしないのに何故か私の事は馬鹿にしてくる。あまりの理不尽さに食って掛かると、ココは一瞬だけ柔らかく笑った。
 思考が一時停止してから、ぼわんと沸騰した。
 えっなにいまの……えっえっえ……!
 ココに弱すぎる私は当然滅多に見せない緩やかな微笑みにいとも簡単に絆される。お酒を飲んだあとのような浮遊感の中でぽーっとしていると、鼻を鳴らす音が聞こえてきた。はっと我に返ると、ココがいつもの皮肉めいた笑みを浮かべている。顔面に『チョロ』と書かれていた。こ、こ、こいつぅうぅうぅ……! 
 恥ずかしさと怒りでぐるぐるになっている私を煽るように、ココは厭味ったらしく挑発的に答えを返した。

「オマエだから」
「意味わかんない!!!!!」

 




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