ひだまりのまんなか

  



胸にそっと手を添えながら、目を伏せて、すうはあと深呼吸する。しかしそれでもそわそわと落ち着かない気持ちは払しょくされず、いそいそとポシェットからコンパクトミラーを取り出した。鏡を覗き込みながら、ちょいちょいと前髪を直す。にこりと笑いかける。固い笑顔のわたしが映っていた。緊張しているのがバレバレだ。いやでも緊張してしまうのは仕方ない。

だって、だってだってだって。

『わ、わわわわわわわわわたしと、で、です…か…!?』

あの日、激しく動揺しながら自分を指さすと、東堂様は優しく微笑みながら頷いてくださった。嫌かな?と訊かれて吃驚した。そんなことあるわけがない。ファンクラブに入会するほど好きなのだ。写真を大量に買うくらい好きなのだ。憧れのアイドルにデートに誘われて断る女の子がいようか、いや、いない。全財産を懸けてもいい。

そんなこんなで。わたしは東堂様のお誘いを二つ返事で承諾した。

初めての男の子とのデートが、東堂様。身に余る幸福すぎてどうすればいいかわからない。昨夜はパックもしたし、着て行く服にはアイロンかけたし、髪の毛は丁寧にブローした。おかげで今日はお肌つやつや髪の毛さらさら。東堂様の隣を歩くのだ。少しでも可愛くしないと東堂様に申し訳ない。東堂様をお待たせするわけにもいかないから待ち合わせの一時間前には到着した。

もう一度、自身を落ち着かせるために息を吐く。
すると。

「植原さーん」

東堂様のわたしを呼ぶ声が聞こえてきて、肩が跳ね上がった。

「は…、」

本当は、『はい!』と大きく元気よく挨拶する予定だった。けど、わたしは途中で動きを停止してしまい、続きの言葉は言えなかった。

「やあ、待たせたかな?」

にっこりと笑いかけてくださる東堂様の隣には、何故か、心底嫌そうな顔をしている荒北さんが、東堂様に連行されるようにして腕をがっしりと掴まれていた。


「おや、あの時荒北も一緒にいいかな?と訊いたんだが…、ぼうっとしていたのかな?」

あ、あのう荒北さんがなんでいるんですか…?と恐る恐る問いかけると、東堂様は不思議そうに首を捻る。

そう、いえ、ば…。

ぽややーんと記憶を辿っていく。

『デート、してくれないか?』

『ハァ?』

『オレと、荒北と』

『…ハァ!?』

『後輩の無礼の尻拭い、と言うのは何だが。嫌な気分をオレ達で発散してくれ』

『おい、オレを巻き込むんじゃねえ!なんで黒田の尻拭いをオレがしなきゃなんねーんだよ!っつか何が楽しくてこんな甘ちゃんちんちくりんと、』

『あとでちょっと話すから今黙ってろ。…駄目かな?』

『え、あ、は、はい!!』

昨日のお昼にまで記憶を遡ると、そんな会話をしていたことを思い出した。東堂様にデートの申し込みをされたことが嬉しくて。嬉しすぎて舞い上がってしまって。デートしてくれないかの続きを聞いていなかった。

…荒北さんもいるのかァー…。

「露骨に嫌そうにしてンじゃねえヨ」

そういう荒北さんも、不快を隠そうとしていなかった。眉を吊り上げ、わたしを睨んでくる眼光はただただ鋭い。怖いので、一歩後ずさってびくびくと怯える。「そうやってびくつくぐれェなら愛想笑いくらいしとけ」と吐き捨てるように言う荒北さん。うざったい、と思っていることは明らかだ。

…黒田くんもうざったいと思ってたんだろうな。

棘が刺さったように、心臓がちくりと痛む。

「甘ちゃんのお守りしてェならお前ひとりでやっとけよ」

「まあ色々あってな。いいだろう、どうせ暇なんだから。」

「…色々、ねェ」

荒北さんは疑わしげに目を細めて東堂様を見る。涼しげな笑みで応えた東堂様は「さて」とわたしに視線を向けた。

「行こうか、植原さん」

きらきらと眩しい笑顔。くらっと眩暈を覚え、卒倒しそうになるのを必死に抑えて「はい!」と大きく頷いた。荒北さんは嫌なものを見たかのように、うげーっと口を歪めていた。



「ううっ、ひくっ、ぐすっ、うえっ、うう〜っ」

ハンカチを目元に宛てて、ぐすぐすと泣きながら映画館を後にした。

三人で観た映画は、この前観たものとはまた違う少女漫画を原作とした恋愛映画だった。繊細でゆるやかに流れる恋模様はわたしの涙腺にクリーンヒットして、またしてもこうしてぐすぐす泣いている。

「植原さん、だいじょうぶか?」

「だい、だいじょ、ぐすっ、だいじょ…うううう〜っ」

優しく問いかけてくれる東堂様にろくに返事もできない。最後の告白のシーンが脳裏に焼き付いて、何回も繰り返し再生される。再生される度に、涙腺が緩み、ぼろぼろ泣いてしまう。

沈みゆく夕陽に照らされたふたり。ざざん…と静かに波が打ち寄せる音。二人っきりの空間で、愛の言葉をつ「ンな泣くとこあったっけェ?」

無遠慮な声がわたしの再生をぶち壊した。

「お前ずっと寝てたから泣くも泣かないもないだろう」

「最後らへんは起きてたっつうのォ。なんかよくわかんねえけどチューしてたな。で、あれのどこが泣けんのかさっぱりわかんね」

荒北さんは耳に指を突っ込みながら、至極どうでも良さそうに言ったあと、ふわあと欠伸をした。

ぶちっと堪忍袋の尾が切れた。

「どう、どうして、そんなひどいこと…!!」

怒りに怒ったわたしは手をぎゅっと丸めて荒北さんに食って掛かった。でも怖いので片手は東堂様の服の裾を掴んでいた。荒北さんはこれまたほんっとうにどうでも良さそうに言う。

「ひどくねーだろ。オレの感想。お前はおもしれェって思った。オレはつまんねェって思った。それでいいだろォ」

「な、なな、何もわたしの前で言わなくたっていいじゃないですか!ユキちゃんも、人に自分の価値観押し付けんなって言ってたから、無理に面白いと言ってもらおうとは思いませんけど、でも、」

そこまで言って、ハッと我に返った。目を見開いて、反射的に口を手で抑える。

妙な沈黙が空間を支配する。羞恥と後悔が入り混じって何を喋ればいいかわからない。頭皮から冷や汗が噴出す。

「あ、えっと、」

意味を持たない言葉がぽろぽろと零れだす。じいっと見据えてくる荒北さんの強い視線に耐え切れなくて、ふいと目を逸らした。

「腹減った」

溜息をひとつ零してから、荒北さんはそう言った。視線を再び荒北さんに戻す。特に、変わったところは見受けられなかった。

「そうだな。食べに行くか」

な、植原さん。と、東堂様に促される。少し経ってから、曖昧に頷く。脳裏にちらつく影を振り払うようにぶんぶんと頭を振った。











「おっせェな、アイツ」

突然話しかけられて、びくっと震えてしまった。荒北さんは腕を組みながら、正面を見据えていた。東堂様がトイレに行ってくると言ったきり戻ってこないのだ。荒北さんと二人っきりと言うのは気まずくてしんどいのではやく帰ってきてほしいのに。

「あ、はい、そうです、ね」

恐る恐ると伺いながら返す。

「ウンコかよ」

「東堂様はウンコなんてしません!!」

先ほどの恐怖はどこかへ飛んで行った。憤然と食って掛かる。荒北さんはハァ?と歪めた顔をわたしに向けた。

「お前東堂のことなんだと思ってんのォ?するに決まってんだろ。なかなか戻ってこねェしぶりぶりとでっけーのしてんじゃねえの」

「しません!東堂様はウンコなんてしません!!」

眉を吊り上げて半泣きで食って掛かるわたしを、荒北さんは奇妙なものでも見るかのようにまじまじと見つめていた。あんぐりと口を開けていた。わあ、なんて間抜け面。

「…お前、東堂のこと何?神様とか思ってんの?うわ、んだよその『何言ってんだコイツ』って面」

荒北さんの口角が怒りでぷるぷると震えていた。え、と頬を両手で包む。また思っていたことが顔に出ていたようだ。さっき、何言っちゃってるのこの人…って思いました。東堂様は神々しい御美しさを誇っているけど神様じゃない。わたしだってそこまで夢見てない。

「神様なんて思ってませんけど、」

手を組んで、うっとりと答えた。

「王子様とは思ってます」

「アッソ」

コンマ0.0001秒の速さで吐き捨てるように紡がれた『アッソ』は容易くわたしの気分を害した。

「だァーかァーら、顔に出てんだっつの」

眉間にびしっと指を弾かれて、反射的に目を閉じる。眉間を両手で抑えながら、な…なんて野蛮な…!と怒りと驚愕でわなわなと震える。

「東堂が王子とか夢見んのも大概にした方がいんじゃね?」

「み、見てません。事実を見ています。東堂様はいつもお優しくて格好良くて颯爽としていて凛々しくて、すごいです、すごい人なんです。王子様なんです」

「は?いつもうっさくてナルシで女子のことしか頭にねェカチューシャだろ」

「違います!荒北さんこそ東堂様を悪く言わないでください!!」

「悪く言ってねえよ事実だ事実を言ってんだ。東堂はウンコする」

「しません!」

「じゃあアイツの食ったモン何に何だよ」

「…なんか、こう…綺麗な…宝石的なものに…」

一瞬返事に窮したものの、しどろもどろになりながらも、何とか答えることができた。が、荒北さんは「馬鹿じゃねえの」と一蹴した。

「ば、ばか…!?」

「馬鹿だろ、バァカ、バァーーカ」

「ば、馬鹿じゃないです!」

「人のケツから宝石出るっつー女のどこが馬鹿じゃねんだヨ。頭いてェ。つかキモくね?ケツから宝石出る人間って」

「…」

悔しいことに『確かに』と思ってしまった。けど、荒北さんの言葉に同意してしまったのが悔しくて、だんまりを決め込む。…それにしても東堂様ほんとに遅いな…。も、もしかしてほんとにうん…い、いや!違う!東堂様はうんこしない!荒北さんじゃあるまいし!!

「東堂が王子、ねェ」

荒北さんはベンチに背を深くもたれさせて、空を仰いだ。細い目はどこを見るでもなく、ただ、空に向けられていた。

「じゃ、黒田はお前にとって何?」

喉の奥に、何かが詰まったような。そんな感覚を覚えた。

その名前を聞くだけで、胸が潰れそうになる。じくじくと痛む心臓を抑えるかのように、そっと胸に手を置いた。

ふうっと息を吐いて、どくどくと鳴る心臓を静めながら、平静を装って重い口を開く。

「…黒田くんは、」

黒田くんは。そこまでやっとの思いで声にのせて。わたしは黒田くんをどう思っているのか自分でも不思議に思った。

東堂様は大好きだ。王子様だ。颯爽と格好良く助け出してくれた。黒田くんを傷つけてしまった時、そっと優しく背中を押してくれた。どうしたらいいか道を示してくれる、格好いい人。

黒田くんのことを王子様だなんて一度たりとも思ったことがない。そんなに、格好良くない。東堂様と黒田くんどっちが格好いいですかなんて愚問だ。東堂様だ。颯爽と格好良く助け出してくれたことなんてない。いつだって、ちょっと怒りながら、面倒くさい気持ちを露にして、そうして。

わたしを、引っ張ってくれた。

神様でも、アイドルでも、王子様でもなんでもない。

黒田くんは、わたしにとって、一人の男の子だった。

目頭が熱い。喉がぎゅうぎゅうと絞られているみたいだ。ひとつ、瞬きをしたら、ぽろりと涙の粒が膝に落ちた。

「え、なんで泣いてんだよ」

「わか、ん、な、い、です」

「おいマジで東堂はやく帰ってこい。甘チャンのお守りとか勘弁しろって」

ぐすっと鼻を鳴らし、目元を服の袖で拭いながら「あ、甘ちゃん、じゃ、ない、です」と答えた。

「ぐすっ、植原、で、す」

「アーハイハイ、植原ネ。なー泣くなって。めんどくっせえ」

「ひぐっ、と、東堂様だったら、そんな、こ、と、言わない」

「たりめーだろオレ東堂じゃねえし。あんなナルシになった覚えはねェ」

わたしに優しい言葉をかけるでもなく、労わるわけでもない。けど、めんどくさいと放り投げることはしない。荒北さんは野蛮でがさつだ。何回も苦手だと思ったし今でも思っている。でも、黒田くんが荒北さんを尊敬しているのは、なんとなく、理解できた。

ごしごしと目元を服の袖で拭い続けていると、眼球が違和感を覚えた。袖をどけ、目を開ける。違和感は健在していた。右目の視界が変にぼやけている。嫌な予感がする。ポシェットからコンパクトミラーを取り出して覗き込むと、コンタクトがずれていた。ただずれたのではなく、見えないところに行ってしまったようだ。

「うう、い、痛いぃ」

「コンタクトでもどっか行ったァ?」

「痛いぃ、そうです、痛いぃ」

「そりゃあんだけゴシゴシ拭いてたらそうなるわな」

痛むわたしを特に労わらない。自業自得だと言いたげな口調が腹立たしいが今は怒っている場合ではない。コンタクトを覗き込みながら充血した目をコンパクトミラーに写して悪戦苦闘する。やっとの思いでコンタクトを見つけ出し、黒目に合わせる。

「ばっちりです」

「じゃねーだろ。目真っ赤だぞ」

なんとなく得意げな気分になって、どや顔を荒北さんに向けると即座に突っ込まれた。コンパクトミラーを再び除くとウサギのように目が真っ赤だった。痛々しい。もう痛くはないんだけど。せっかくの東堂様とのデートなのにこんなウサギ目でいたくない。ということでポーチから目薬を持ち出した。眼の上に掲げて、容器を親指と人差し指で液体を押し出す。

そして、目を閉じる。

「目瞑ったら意味ねーだろ」

行き場をなくした液体がわたしの頬を伝っていく。荒北さんは呆れ返りながら言った。

「だってなんか怖いです」

「怖くねーよ」

「わたしにとっては怖いんです」

「アッソ」

もう一回、目薬を掲げ、そして、最終的に瞼を閉じる。瞼に冷たい液体の感覚が流れる。

もう一回、もう一回、もう一回、何度も何度も繰り返していくと、チッと舌を鳴らす音が聞こえた。

「あ゛〜めんどっくっせェなちょっと貸せ」

貸せと言いながらほぼ無理矢理目薬を奪われた。顎をぐいと掴まれて無理矢理上を向かされる。至近距離に荒北さんのお美しくないお顔がそこにあった。お美しくないので全くドキドキしない。これが東堂様だったら今ごろ鼻血を出して死んでいた。

「目かっぴらいとけヨ」

「え…」

「え、じゃねえ!」

「反射的に閉じちゃうかも、です」

「反射もクソもねえ!!ぜってー閉じんなヨ!!」

「いいな!?」と荒々しく念を押してきたあと、わたしの顎を掴む手に更に力が入った。「痛いです」と告げると「ちったァ我慢しやがれ!!」と一喝された。ああこれが東堂様だったら…。

この何分か、話している間にわたしの荒北さんに対する恐怖心がだいぶ薄らいだようだった。言われた通り、カッと見開く。見開きっぱなしにすると、何かが落ちてきて、静かに眼球に染みわたっていく。ぱちぱちと瞬くと、液体が頬を転がり落ちて行った。

ハンカチで目元を抑えながら、お礼を言うとした時だった。

「何やってんだアンタ!!」

聞き覚えのある声が爆発したように沸いた。

声の主が誰かなんて、探す暇もなかった。ダーッと駆ける音が聞こえてきて、荒北さんが黒田くんに胸倉を掴まれていた。

「いちいちムカつく奴とは思ってたけどなァ!!ざっけんじゃねえよ!!」

黒田くんは目を吊り上げて、荒北さんに怒声を浴びせかける。荒北さんとわたしはなにがなんだか訳がわからず、クエスチョンマークを頭上に浮かべる。

「…何言ってんだ?」

「とぼけんじゃねえ!!」

「とぼけてねーよ、つーか服伸びんだろーが離せ」

荒北さんは黒田くんの手首をがしっと掴んで振り払った。すくっと立ち上がり「あーめんどくせえ」とぼやきながら肩を揉む。荒北さん、ほんとにめんどくさそう。そんな荒北さんの態度が更にカンに障ったのか黒田くんの怒りはますますヒートアップする。

「あんなことしといてよくもまァいつまでもすっとぼけてられんな…!!」

黒田くんは荒北さんが嫌いだ。わたしにも何回も荒北さんの悪口を言っていた。でも、どれだけ荒北さんのことを悪く言っていても、悪口特有のじめじめとした嫌悪感は孕んでなかった。今までわたしが聞いてきた悪口とは、少し違った。

けど、今、黒田くんは本当に荒北さんに嫌悪を抱いている。怒りでわなわなと小さく体が震えていた。

なんでこんなに怒っているのか、まったく理由がわからない。こういう時東堂様がいたら二人を諌めてくれそうだけど、東堂様は今、いない。…ほんとにウン…じゃないじゃない!東堂様は!!しない!!

こ、ここはわたしが二人を落ち着かせないと…。黒田くんと話すのはまだ気まずいけどいつまでも避ける訳にはいかないし、丁度いい。わたしも立ち上がって「あ、あのォ〜」と二人に声をかけた。荒北さんと、黒田くんがわたしに視線を向ける。黒田くんの視線が痛くて、荒北さんの方を見ながら言った。

「お、落ち着いてください」

「オレは落ち着いてるっつうの」

「喧嘩は、駄目です」

「してねえっつーの。つかオレは吹っかけられた側」

「荒北さん、非行行為はだめです。盗んだバイクで走り出したらだめです。親御さんが悲しみます」

黒田くんの視線が…!視線がめちゃくちゃ痛い…!!重圧に耐えきれないわたしは荒北さんに顔を向けながら、訳のわからないことをまくし立てていく。

「人の話聞け」

しかし、荒北さんにみょーんと耳を引っ張られたことでそれも終わった。ハッと我に返る。

「あ、えっと、つまり、喧嘩は駄目です。黒田くんも落ち着こう」

黒田くんに顔を向ける勇気はまだ持てなくて、荒北さんの方を見ながら喋る。だから、黒田くんがどんな顔をしているのか、わからなかった。

怖いもの見たさで、恐る恐る振り向くと、黒田くんは怒りで震えていた。ものすごく、怒っていた。ぴぎゃっと飛び上がる。震えて彷徨う手は荒北さんのTシャツに辿りついた。

「なんスか、ソイツに興味でもあんスか」

「興味? これに?」

『は?お前何言っちゃってんの?』という副音声が聞こえる。というか、『これに』って。どれだけ失礼な人なの。しかし東堂様が亡き間違えた無き今、わたしは荒北さんしか頼る人がいない。なのでシャツを掴む手は離さない。

「アンタは、出会ってすぐの人間にエリートだなんだ馬鹿にしてきやがって、最初っからムカつく人間だった。嫌いだって何回思ったか覚えてねェ」

黒田くんは俯きながら、必死に怒りを抑えているような声で言う。

荒北さんは「なんかコイツ急に語り出してきたんだけど」と親指を黒田くんに向けながら嫌そうに言ってきた。そうですねの意をこめてこくんと頷く。

「けど、泣かせてまで無理矢理あんなことするようなサイッテーな野郎だとは思わなかった…!!」

怒気を露にして、黒田くんは小さく叫ぶ。

泣かせて…?荒北さん誰か泣かせたのかな…。この人怖いから日常的に誰かを泣かせてそうだけど。と、荒北さんをぽけーっと見上げながら思う。荒北さんは困惑と不快を浮かべていた。

「だからお前さっきから、」

そこまで苛立ったように言うと不意に押し黙った。けど、それはほんの束の間。

次の瞬間、荒北さんはニタァッと笑った。

わ、悪者みたいだ…としみじみと思っていると、突然、頭の上に重みを感じた。

「嫌がってるように見えたのは、お前の錯覚じゃねえのォ?」

視線を上げる。どうやら荒北さんがわたしの頭の上に腕を置いているようだった。重い。

「…は?どういうこと…ッスか」

「感心感心。キレてても敬語使えるようになったんだなァ。成長したもんだ」

黒田くんの怒りを煽るような荒北さんの口調。黒田くんの眉がぴくりと動く。一層、オーラが不穏なものになる。

「オレがこうやって腕置いても、全然嫌がってねえけど?」

「え」

嫌ですよ。重い。東堂様ならともかく荒北さんだし。

「なァ?」

悪人のような笑顔で覗き込まれた。有無を言わせない迫力にやられ「はい」と即答した。

黒田くんは目をぱちくりと瞬かせて、少し呆けていた。半開きの口から、ふわふわと浮ついた声が流れる。

「付き合ってるんすか」

黒田くんは今、スワヒリ語を喋ったのだろうか。
意味が、さっぱり、わからない。

付き合ってるって。誰と誰が。

え。

もしかして。

冷や汗がたらりと背中を流れていく。

わたしと、荒北さんが…!?

とんでもない誤解をしている黒田くんに違うと声を張ろうとしたら、首に腕を回されて息が詰まる。今荒北さん結構容赦なくヘッドロックを…!!ちょっと…!!これだから野蛮な人は!東堂様ならこんなことしない!!それは一瞬で終わり、荒北さんはすぐに離してくれた。小さくゲホゲホと噎せていると「あ、ゴメン」ととんとんと背中を摩られた。謝るくらいなら最初からしないでほしい。

「植原チャンとオレが付き合ってて、それで、お前に何の関係があんだよ?」

にやっと口角を上げて、荒北さんは問いかける。わたしも黒田くんも目を見張った。

「嫌々植原チャンのお守り始めたんだろォ?大変だしわかんぜ?コイツまじでめんどくせーよなァ?安心しろ。これからはオレが面倒みてくっから。お前は晴れてお役御免だ」

荒北さんは「良かったなァ」と愉悦たっぷりに添えた。

―――『あんな陰キャ、誰が好きになるかよ!』

怒りと羞恥を孕んだ大きな声が、脳裏で再生される。

荒北さんの、言う通りだ。

わたしと荒北さんがもし付き合っていたとしても、黒田くんには何の関係もない。悲しむどころか大喜びするだろう。

…変なの。

黒田くんには悲しんでほしくない。けど、わたしと荒北さんが付き合っていたら、ショックを受けていてほしい、なんて。ほんとに、わたしはいつからこんなに変になっちゃったんだろう。

目の奥が熱い。喉の奥が震える。顔を俯けて、スカートの裾をぎゅうっと掴んだ。

「あるっつうの…!!」

予想外の返答に驚いて顔を上げると、黒田くんとばちりと目が合った。何か覚悟を決めたかのような意思を宿していた。体が熱くなって荒北さんの背中に隠れようとしたら、がっちりと肩を掴まれた。へ、と戸惑っているわたしをお構いなしに、荒北さんは自分の正面にわたしを置いて、黒田くんと対峙させる。

「あ、荒北さん、はな、」

抗議の声を上げる途中で「植原!!」と怒声が飛んできてびくっと身を竦めた。黒田くんがしっかりと苛立ちながらわたしを見据えていた。逃げんじゃねえと目が言っていた。

も、もう…何が…何だか…。

ふらりと眩暈を覚え、意識が軽く飛んだ時だった。

「植原がすきだから関係ある!!」

荒北さんがひゅうっと口笛を鳴らした。

…。

……。

………。

いつまで経ってもドッキリ大成功〜!の看板は出てこない。きょろきょろと辺りを見渡す。もういいんですよーと声をかけたい。

「植原!」

黒田くんに名前を呼ばれて、肩が跳ね上がる。顔をめぐらせる。視界に入ってきた黒田くんの顔は真っ赤だった。全力疾走したみたいに肩で呼吸をしていた。

「ドッキリじゃねえからな!!」

強い眼差しを射抜くようにして向けてくる。すごい、考えてること当ててきた。ぼんやりと感心していると「な、んか言えよ」と手の甲を口元に宛がいながら黒田くんはせかしてきた。

「なんか、と、言われても…ドッキリ大成功…」

「やっぱお前ドッキリって思ってたか!ドッキリじゃねえってさっきも言っただろ!」

「だって黒田くんわたしみたいな陰キャ嫌いって」

「嫌いとまでは言ってねえだろ!っつうかお前なんでそんな、いつのまに荒北さんとデートする仲になってんだよ!!」

「違う。わたしは東堂様とデートしてたの。荒北さんは…オマケ?」

「このガキまじでムカつくわァ」

「…は?」

ぽかんと口を開けた黒田くんの肩にぽんと手が置かれた。

「すっげーおもし…見事だったぞ、黒田」

東堂様は笑いを必死に噛み殺したような顔を下に向けてから、優しげは微笑みを湛えた。

「あーめんどかった」

荒北さんはぐるぐると肩を回したあと、ぽきぽきと首を鳴らした。

わたしはぱちぱちと瞬くことしかできない。

…どういうこと…?とひたすらクエスチョンマークを浮かべていると「植原さん」と東堂様に呼ばれて背筋をぴんと伸ばした。

「黒田のヤツな、オレが『植原さんと荒北がデートするようだ』と言ったらな、どうでも良さそうにしておきながら、待ち合わせ場所と時間をそれとなく聞きだそうとしてきてな。すげェおもし…大変微笑ましかったんだ」

「アンタ取り繕い切れてねえから!!」

「キレんなキレんな」

「キレるに決まってんだろーが!!」

「ワハハ。お、荒北。ご苦労だったな」

「なァーにがご苦労だったな、だよ。あーめんどかった」

「ノリノリでやってたくせに」

「へっ。黒田の絶望顔が面白くて面白くて。っつーかオレが気付かなかったらどうするつもりだったんだよ」

「お前なら気付くと確信していた。黒田を煽るということもな」

「はいはい流石東堂様」

二人の会話を聞いていた黒田くんが「あ゛―――ッ!!」と突然頭を抱えた。チクショー!とかふざけんなー!とか喚いている黒田くんのお尻に「ッセェ」と荒北さんが蹴りをいれた。黒田くんが荒北さんにギャンギャン喚き立てていると、東堂様が「植原さん」と優しく声をかけてくれた。ぽんっと、両肩に優しく手を置かれる。正面に東堂様のご尊顔があった。

綺麗なお顔だ。うっとりする。箱学で一番格好いい人は?と訊かれたら、わたしは東堂様と答える。

「黒田は良くも悪くもプライドが高い」

こくりと頷く。

「その黒田が、ここまでの行動をしたんだ。きみと荒北がデートしていると聞いて我慢できなくて見に行って、しかもこんな、」

東堂様はぐるりと首を180度にめぐらせた。周りの人たちが、わたしたちを物珍しそうに見ている。よくやるよね〜とかあの人超イケメンじゃない?とかそんな声が聞こえる。

東堂様はふっと口元を緩めた。

「こんな人前で、プライドを捨てて思いを叫んでしまうくらいには、植原さんのことがすきなんだよ」

そう言う東堂様は、少し意地の悪い『先輩』の顔をしていた。

「ああああ死にてェマジで死にてェくっそふざけんなってマジであああああ」

黒田くんはしゃがみこんで頭を抱え込みながら呻いていた。

「なァ、なんでオレとデートしてるっつったんだよ。別に東堂でもいいじゃん」

「オレよりもお前の方が効果的だと思ってな」

「あーー…。っとにめんどくせェなコイツ…っつかいつまでグダグダ言ってんだよ。うっぜえな」

荒北さんは呆れたように黒田くんを見下ろして言う。続いて何か言おうと動いた口を、わたしが目で制した。

「黒田くん」

ひっそりと息づくような声で、黒田くんを呼ぶ。目線を合わせるようにしゃがみこむと、黒田くんの顔が更に赤くなった。

「わたしのこと、すき?」

じいーっと見据えながら問いかける。また赤くなった。東堂様が「おお」と面白そうに声を上げ、荒北さんが「意外とやんなァ」と興味深そうに呟いた。

「さっき、言っただろ」

「もっかい」

「なんでだよ!!」

「やっぱりわたしのこと嫌いなんだ」

「なんでそーなんだ!!」

「もうやだ。辛い」

「ツイッターに意味ありげな呟きするメンヘラか!!すきだっつってんだろーが!!」

ブフォッと噴出す声にハッと黒田くんの肩が跳ね上がった。荒北さんがお腹を抱えてひいひい声を殺して笑っている。東堂様は顔を覆って「…辛い…」と震えた声で呟いていた。

「どういうところが」

「なァ頼むマジで勘弁して」

「どういうところが」

じいーっと黒目を見つめながら、もう一度問いかける。黒田くんは観念したように息を吐いた。

「…わっかんねえよ」

もっと懇切丁寧にこういうところがすきでこうこうと説明されるものだと思っていたわたしは、落胆でムッと眉間に皺を寄せる。

「なにそれ」

「自分でもわっかんねえんだよ、だって顔も全然好みじゃねーしつーかお前みてェにぐちぐちめんどくせー女とか苦手だしうざってえしめんどくせーしめんどくせーしめんどくせーし」

ハァーと大きなため息を吐いて、がっくりと首を落とした。前髪の隙間から見える瞳が羞恥で揺れていた。

おなじだね。

心の中で小さく呟く。

わたしも、東堂様の方が格好良くて優しいと思う。ど真ん中ストライクだ。夢を見せてくれる。

なのに、なんでか。
目の前で顔を赤くしてしったかめっちゃかになっている男の子の方が、特別に想えるのだ。

「黒田くん」

丁寧に文字をなぞる様にして、丁寧に名前を呼ぶ。黒田くんは顔を上げる。羞恥からか子どものように拗ねた顔をしていた。

「わたしと付き合いたいの?」

「ここまできてそれも言わせる気か…!」

「なあ東堂こいつSじゃね?」

「正直今悪魔の尻尾が見える」

「アンタらいつまでいんだよ!!」

「ここまで来たら最後まで観させろや。今日の映画の五十倍は面白ェ」

「ねえ、どうなの?」

何時まで経っても答えてくれない黒田くんに痺れを切らして、ずずいと不服そうな顔を寄せる。黒田くんは「あ゛ーもう!!」と声を荒げた。

「そーだよ!!」

真剣に向けられた瞳に嘘の色はなかった。痛々しいくらいに、真っ直ぐな光。胸がきゅうっと痛んだけど、なんだか愛おしく思える痛みだった。しっかりと受け止めてから、微笑む。うん、と小さく頷いてから、わたしはさらににっこりと笑った。

「ごめんね」

…と、奇妙な沈黙が流れた。

「…ごめんって」

「うん。ごめんね。無理です」

「…ハァー!?は!?この流れで!?えっ!?」

「東堂どうすんだよコレ。結局黒田のヤロー無様にフラれてんぜ」

「こ、こんな結末になるとは…。え、だってどう見ても植原さん黒田のこと…。あれ…?」

「だってわたし、黒田くんに謝られてない」

ぷくっと頬を膨らまして、大袈裟に怒ってみせる。

「え、」

「さんざんなこと言われたのに、謝られてない」

ポッカーンと口を開けて、ぱちぱちと瞬いている黒田くんに「それに」と人差し指をたてて、注意した。

「もっと気持ちをこめて、交際の申し込みをして」

『こんな人前で、プライドを捨てて思いを叫んでしまうくらいには、植原さんのことがすきなんだよ』

東堂様の言うことが本当なら、こんな上から目線のお願いだって効いてくれるはずだ。

「てっめ…!」と一瞬声を荒げた黒田くんは何か思ったようにコホンと咳払いをして、「あー」とマイクテストするかのように、声を出した。

「…その、ひでーこと言って、ゴメン」

そこまで言うと、一旦言葉を区切った。何か言おうと逡巡の息を漏らしてから唇を真一文字に結ぶ。きょろきょろと落ち着きなく目玉が動くが、決心したように、わたしに向かれた。

「すきだから、オレと、…付き合ってほしい、ん、だけ、ど」

後半にいくにつれて、ボソボソと言葉が靄のように消えかかっていく。耳まで真っ赤だ。憧れてきたスマートな告白とは程遠い。夜景の見える高層ビルで花束と伴に告白されることが夢だった。それなのに、がっかりする気持ちは微塵もない。

胸に染みわたっていく暖かい気持ちを確かめるように、そっと胸に手を添える。

「ユキちゃん、」

自然と生まれた笑顔のままに、答えた。

「いいよ」

黒田くんの目が大きく見開かれた。へなへなとお尻を床にべちゃっとつけて、空を仰ぎながら「あ〜…」と気の抜けた声を漏らした。

「ワハハ!良かったな黒田!オレに感謝しろよ!」

「オレにも感謝しろよォ」

「アンタら絶対面白がってただけじゃねえッスか…」

「ワハハハ!そうだな!!」

「クソ面白かった」

「ぜってーいつか寝首掻いてやっから覚悟しとけよマジで!!」

ユキちゃんは東堂様と荒北さんの良いオモチャにされていた。ひとつしか年が違わないのに、二人の先輩に挟まれるとユキちゃんが幼く見える。先輩達のが大人っぽくて頼りがいを感じられる。東堂様はもちろん、荒北さんも顔はともかく、恰好いいなあと純粋に思えた。

それなのに。

「…東堂様は格好いいなあ」

「ワハハ!ありがとう、植原さん!」

「お前オレの前で言うとか喧嘩売ってんだよな!?」

「売ってないよ。事実を言ってるだけだよ」

「余計に腹立つわ!!」

怒鳴ってる顔がヤキモチに駆られていて、可愛い。胸に広がる暖かいひだまりのような気持ち。これからもきっとどんどん大きくなる。そんな気がしている。

「ユキちゃんは、可愛いね」

ふふふと笑いながらそう言うと、ユキちゃんの頬に赤みが差した。

あ、ほら。
また、おおきくなった。




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