ああ、浅かった。こちらが思っていたよりも実力はあるようだ。いつもならあれだけで動きを封じられるのに。舌打ちをする。夜明けまで時間がない。次の一手が勝負になるだろう。ならば小細工は無用。あやめは構えを解き、両手をだらりと下ろした。
「そろそろ終わらせましょうか」
あやめの態度を降伏と勘違いしたのか、男は嬉々として武器を振りかざした。あれを躊躇なく突き立てるのだろう。あやめがそうやってきたように。
男が土を蹴った。
「───」
ふわりと頬を掠めたのは風だろうか。それとも月夜に煌めく刃だろうか。
あやめの足元に赤色が滴り落ちる。うっすらと出来上がりつつある血溜まりの上に、黒い塊が崩れ落ちた。
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妙はゆっくりと目蓋を押し上げた。真夜中の室内は暗くて何も見えない。だが、気配はある。身体を起こし、辺りに視線を動かす。
「お妙さん。私よ」
静かな声が妙の手を握りしめた。一瞬の驚きは、その声の主に気付いたことで霧散していく。妙はほう、と息を吐いた。
「もう・・・驚かせないで」
「あら、お妙さんでも驚くことがあるのね」
「当たり前です」
闇に慣れてきた目がお互いの顔を映す。小さく声を上げたのは妙だ。
「猿飛さん、それ、頬の」
「ああ、ここでしょ?ちょっとね」
眼鏡の下にある新しい傷。今は乾いているが、赤い痕が生々しい。
「私の腕が悪かっただけ。気にしなくていいわ。血も止まってるみたいだし。大したことないから」
傷は浅く、痕に残るようなものでもない。あやめはそう判断していた。実際そうなのだが、妙は心配気に眉を下げる。
「猿飛さんが気にしなくても私が気になります」
「あら、それは傲慢ね。私の意思はないのかしら」
「私はあなたの心配もしてはいけないの」
頬をすべったのは暖かい手。遠慮がちに触れたそれにあやめは目を細める。
「心配なんていらないわ。手当もしなくていい」
頬にある手を、自分の手で覆った。洗う暇などなかったから、きっと赤いままだろうけれど。あやめはおかまいなしに妙に触れる。
「・・・痛くないんですね」
「ええ。それよりもね、眠たいわ」
そう言って、妙の肩にもたれかかった。
「あーあ。こんな時間まで仕事だなんて。肌が荒れたらどうするのよ」
「じゃあ早く寝てください」
「そのために来たんでしょ」
「私に抱きまくらになれとでも?」
妙がくすりと笑った。黒髪が揺れる。いつも結い上げている髪が顔の横にあるだけで、妙の雰囲気が違うように見えた。
「存分に寝て下さいな」
あやめの身体が包まれて、どちらからともなく布団の上へ倒れ込む。柔らかい感触に身体を沈みこませて、二人は緩く抱き合った。
「あなたの心臓の音がするわ」
あやめの耳元で刻む音。血の流れる音。生きている証。
「もっときかせてちょうだい」
腰で結んだ帯を解く。白い寝間着の境目を崩し、その肌に触れた。柔らかな膨らみの傍の鼓動を探す赤い指先が、淡い肌色を染めていく。
「・・・鼓動が少し速くなったわ」
「猿飛さんがそんなふうに触るから」
「あなたでも緊張するのね」
「慣れるものじゃないですよ」
「・・・ねえ、お妙さん」
外気に触れ、震えた肌に口づける。どこもかしこも柔らかいそれを、そっと啄んでいく。
「あ、」
「私以外の誰かと、こういうことしてる?」
「っするわけ、ない」
「そう・・・でもいつか、どこかの男の人のものになってもいいのよ」
普通の生き方ができるなら、普通に幸せになってほしい。誰が見ても幸せだと言えるような、そんな未来を手に入れてほしい。
「でもそのときまでは、私のお妙さんでいてね」
心臓の音がする。吐息が肌を擽る。柔らかな波に揺られながら夢を見る。重ねた唇から微かに血の味がした。
2016/11/30
title/けしからん
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