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「さん・・・副長さん・・・伊東さん!」

突然現れた肌色に伊東の視界は遮られた。小さく息を飲み、次第に肩の力が抜けていく。ぼやけた肌色が少しずつ遠くなると同時に、それが人の手のひらなのだと理解した。

「お気付きになられましたか」

傍らから声がして、伊東は視線を流す。

「妙さん」

目線が合った。妙は柔らかな笑みを浮かべて頷く。

「伊東さんも夜の町にいらっしゃるのね」

そう言われて、伊東はようやく自分が居る場所に気が付いた。

「ここは・・・かぶき町ですか」

まだ静かな繁華街。看板を出す店や、どこかの業者、出勤途中の女たちがぽつりぽつりと目についた。あと数時間もすれば、ここは色鮮やかな光に溢れた夜の町となる。伊東にはあまり縁のない場所だ。

「ここまで来るつもりはなかったけど、少しぼんやりしていたみたいだ」
「毎日お忙しいのでしょう?おつかれさまです」
「はは、ありがとう。妙さんは今から仕事ですか」
「ええ、今から」

と頷いた妙は、不意に表情の色を変えた。

「伊東さん、大丈夫ですか?」
「・・・なんのことかな?」

何を問われたのか分からず、伊東は首を傾げて聞き返す。

「いつもと様子が違いますよ?顔色も悪いですし、本当にぼんやりとしてらして」

伊東に自覚はないが、どうやら自分は様子がおかしく見えるらしい。妙の目尻が心配そうに下がる。

「少し休まれていかれませんか。お店、すぐそこなんです」

指差した先には、近藤からよく聞く店名の看板があった。あそこが妙の職場なのだろう。

「伊東さんはあまり好まない場所かもしれませんが、もしお嫌でなければお寄りになって」

台詞だけ聞くと、まるで客引きの言葉のようであるがもちろん違うと分かる。純粋に心配しているのだと、伊東の顔色を伺う優しい瞳が語っていた。


◇◇


彼女に初めて会ったのはいつだったろうか。伊東は薄暗い店内を眺めながら思考を巡らせていた。
名前を聞いたのは、近藤と出会ってからわりとすぐだったと記憶している。だが、実際彼女に会ったのは随分と後だった。今ではそれが口惜しい。
彼女を初めて見たとき、それはまるで絵画を鑑賞する感覚に似ていた。見た目をなぞり、それにだけ感想を抱く。そこに感情は介在しない。その絵が破かれたとて、その美しさが損なわれたことを惜しみはしても心は痛まないように。

「───伊東さん」

呼ばれて初めて傍に人が居ることに気付いた。普段なら有り得ない事。それだけ自分は疲れていたのかとようやく理解し、顔を上げると、妙が柔らかな笑みを浮かべてこちらを見つめていた。

「ああ良かった。少し顔色が良くなりましたね」

ほっとしたのか、優しい目を更に細める。

「お隣、宜しいかしら」
「もちろん。どうぞ」

伊東がソファーに身体をあずけると、妙はその隣へ腰を下ろした。と同時に、お盆がテーブルの上に置かれる。

「お酒以外だとこれしかなくて。伊東さんのお口に合うかしら」
「ああ、すみません。気を使わせてしまって申し訳ない」

カクテル用のジュースだろうか、鮮やかな色の液体が瓶の中で揺れていた。ジュースなど久しく口にしていない。ここに来たからには少量でも飲むつもりではあったが、まだ仕事中である自分への心遣いが嬉しかった。

「伊東さんと初めてお会いしたときも、お酒は口になさいませんでしたね」

グラスにジュースを注ぎながら妙は口元を綻ばせる。伊東もまた同じように笑った。

「あのときは近藤さんを連れて帰ることが目的だったから。仕事中で、僕は頭が固いから、近藤さんのように臨機応変には振る舞えないよ」

近藤の特質すべきところは、その視野の広さと懐の深さだと伊東は思っている。だからこそ彼は馬鹿をやっても人に愛される。

「彼が羨ましい」

様々な足枷に捕われて動けない自分と、足枷などものともせず軽々と越えていく近藤。自分は彼にはなれない。なりたくもない。なのに心に巣食った羨望の欠片を打ち消すこともできずにいた。

「伊東さんのそういうお話、初めて聞きました」

自然と下がっていた目線の先に置かれたグラス。綺麗な色の液体が揺れている。

「もっと伊東さんのこと聞きたいわ。何がお好き?好きなものを教えて下さい」
「好きなもの?」

唐突に話が変わり、虚をつかれた伊東は口をつけかけていたグラスから顔を上げた。

「どうしたんですか?いきなりそんなこと訊いてくるなんて」
「あら、いきなりじゃありませんよ。初めて会った時、私になんて仰ったか覚えてませんか?」

あの時のことなら覚えている。忘れるわけがない。

「"あなたと話してみたかった"」

そうだ、話してみたかった。どんな女か確認したかったのだ。近藤が惚れている女を見て、話して、溜飲を下げたかった。この程度の女に惚れ込んでいるのかと思い込みたかった。彼より劣っているかもしれない自分を認めたくなかったから。

「あれは不意討ちだったわ。全く表情も変えずにいきなり仰るものだから直ぐに反応できなかったもの」
「実は僕自身も驚いてました。口にするつもりはなかったので」
「とういうことは、伊東さんの本音だと受け取っていいんですよね?それともただの口説き文句?」
「はは、口説き文句か。それはいいな」

伊東は思わずといったふうに、レンズの奥にある切れ長の目をふっと緩ませて笑った。

「じゃあ妙さんは覚えてますか。そう言った僕になんて返したのか」

雰囲気を和らげた伊東に、妙は得意気な視線を送る。

「"私にあなたのことを教えて下さい"ですよね。違ったかしら?」
「正解です。これこそ不意打ちでしたよ」
「ただの口説き文句かもしれませんよ?」
「では、そういうことにしておきましょうか」

顔を見合わせて笑いあうことがこんなにも温かいものだと、もっと早く知りたかった。

「話がしたいって知りたいってことでしょう?だからまずは好きなものから教えてもらいたいなって」
「ああ、さっきのはそういう意味でしたか」

伊東は困ったように笑う。

「僕を知りたいだなんて、あなたも物好きだな。何も面白味のない男ですよ。それでもいいなら訊いて下さい」

自分の上には常に誰かが存在していた。認めてもらいたくて、がむしゃらにやっても認めてもらえることはなくて。いや認めてくれなくてもいい、自分を見てほしかった。自分を知ってほしかった。

「──じゃあ次。そうね、伊東さんはお酒はよく呑まれるの?」
「嗜む程度には」
「隊の皆さんはよく呑みそうですね」
「彼らはね。大きな任務終わりは近藤さんを筆頭に浴びるように呑んでますよ」

苦笑する伊東を見やり、目に浮かぶわと妙は頷く。

「次は・・・そうね、好きな色は何色?」
「んー好きな色か。そうだな、明るい色。あまり手の加えられていない自然な色」

妙は口元に手をやり考える素振りをする。

「自然の色・・・花や草の色かしら」
「そう。菫や白詰草、桜に松の木。身近にある色が一番落ち着きます。妙さんの家にはたくさんありますね。木も花も草も共存していて、どれも大切に手入れされてる」
「まあ、ありがとうございます。嬉しい」

花が綻ぶような笑みが惜しみなく向けられた。

「今度は近藤さんのお迎えではなく、ごゆっくりできる時にいらして下さいな。縁側から見る庭が一番自慢なんですよ」

それはとても綺麗なのだろう。彼女の表情がそれを物語っている。
伊藤は一瞬言葉に詰まった。自分にその約束が果たせるのだろうか。動き出した現実はもう止められない。その景色に彼女はいない。

「あなたとそれを見られたら楽しいだろうな」

未来への約束はあまりにも儚くて、遠くて。それでもそこへ向かうために。その道が暗く険しいものであっても、望んだ未来が形を変えたとしても、色付いた思い出だけを胸に。





ある晴れた日、妙の元に手紙が届いた。
差出人は不明であったが妙には分かった。
真白い封筒に几帳面な字で綴られた名前。
期日指定で出されていたのだろう、消印は一週間前になっていた。
それは彼の背中を見た最後の日。
妙はその手紙を優しく撫で、そっと胸に抱いた。



太陽より向こうのあなたに

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2013/09/07
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