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「逃げてる?」

彼女は不思議そうに、俺の言葉を繰り返した。本当にわからないって顔をして。

「私がですか?」
「逃げてるだろ」
「何から?」
「俺から」

その言葉に、少しだけ会話が止まった。彼女が普段見せない戸惑いの表情が滲みだす。

「・・・逃げてるのなら、こんな風に話しをするはずないでしょう」
「逃げてるから話しをしようとしてんだろ」
「意味がわかりません。もういいですか」

小さく溜め息をついて「急いでるんです」と、俺に背を向けた。
わかりやすい拒絶。
予定通りの行動に、思わず笑みが零れる。

「そうだよな。あのゴリラみてぇに言い寄られたら、お前も抵抗しやすいよな」

そう言って、あの大きな黒い瞳を思い浮かべながら手をのばした。黒髪がハラリハラリと広がる。

「殴って蹴って拒否すればいい。冗談みたく」
「なにを・・・」

驚いて振り返る瞳に焦りの色がうかんでる。
思った通り。と心の中で呟いた。

「あいつは間違えてんだよな。やり方」

流れる髪を指で掬うと絡むことなく、サラリとすり抜けてゆく。心地よい感触。

「本当に手にいれたいのなら、お前の気持ちなんか無視して強引にやればいいんだよ」

そう言って、俺は艶やかな黒髪を掴んだまま、彼女の首に両腕を回した。

「ほら、こうされると抵抗できない」

耳元で囁いて噛んでやると僅かに揺れる身体。聞こえるように、音をたてながら舐めて吸って口付けし、滲んだ涙を舌で受け取った。彼女のと俺のとが混じり合い、見える箇所が湿って濡れて跡を残す。
それでも足りなくて。
もっと滴らせたくて。
何度も何度も味わった。
白い肌が恥じらい、朱色に染まるのを存分に楽しんでから、ゆっくりと顔を離した。

「本当は、わざと逃がしてやってんだよ」

好きだから。

「だからさ、あんまり俺をいじめるなよ」

何をしてしまうか、わからないから。

「ね、お妙さん」

彼女の瞳を覗き込み、そこに自分の姿があるのを確認してから、笑った。
俺がおろした彼女の髪を手早くまとめて結い上げる。

「はい、おしまい」

手を離し解放すれば、目の前にはいつも通りの彼女。違うのは、笑顔の消えた表情だけ。泣く事も怒る事も忘れたかのように、俺をじっと見ていた。

どれくらい後か。実際は少しの間だろうけど。

「逃げますよ」

凜とした涼やかな声で、彼女は言った。

「もう二度と、貴方なんかに捕まってあげませんから」

予想外な彼女の反応に驚きつつも、口元はだらしなく緩む。
全く、飽きない女だよ。これだから困るんだ。

「逃げきれると思う?」
「もちろんです」

彼女はそう言って、俺が知ってる中で一番の笑顔をうかべた。
だから困るんだよ。
本当に逃げきれないのは俺の方なんだって思い知らされるから。
過去も今もこれからも、彼女に捕まったままなんだって知ってるから。
逃げたいなんて、思ってもいないけど。

「だからさぁ・・・いじめるなって、お姉さん」

くしゃくしゃの銀髪を掻きながらため息まじりに呟いた。


『ニゲル』
2007.12.18
2008.10.01改訂
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