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音もなく雪が降り積もるのを、神威は興味深く眺めていた。夜更けであるのに空は薄い灰色で、まるで煙に覆われているよう。あの向こう側に月も船も浮かんでいるのだろうか。ここからでは何も見えない。

「たえたえ、ほら見てよ、外が明るい」

神威は薄闇の空を見上げたまま家主の名を呼ぶ。いつもなら「なあに神威さん」と穏やかな笑みを浮かべる彼女が、今は言葉を返してこない。

「───やりすぎちゃったかな」

神威は畳の上に横たわる妙を見下ろしながら小首を傾げた。手加減はしたはずだが足りなかったのかもしれない。どうやれば良かったのか。弱い者を極力傷つけずに動きを封じることがこんなに難しいとは。

「大丈夫だよね?」

神威は妙の傍らにしゃがみこみ、上下する胸元を確認する。人間もここが動いていれば生きているらしい。その性質や圧倒的な戦闘能力の違いはあれど、夜兎族と人間は見た目も中身もよく似ていた。

「たーえ」

鼻を寄せて匂いを嗅ぐ。微かに香るのはなんの匂いだろうか。神威には分からない。しかし良い匂いだとは思う。
もっと嗅ごうと妙の首に顔を近付けた。脈打つ血液の音まで聞こえそうなほど近くに鼻を寄せると、生き物の匂いと女の匂いが脳に充満していく。
神威の唇が弧を描いた。

「美味しそうだね」

緩やかに高まる興奮に指先まで熱くなっていく。

「ねえ、起きてよ」

血の気を失った白い頬を爪でなぞると、妙の睫毛が僅かに震えた。なめらかな皮膚が裂け、赤い血が滲み出てくる。

「早く起きないと食べちゃうよ」

愉しげに呟いた神威は指で血を拭いとり、それを妙の唇に塗り付けた。紅を差したような赤い唇は白い肌によく映える。夜兎の肌の白さとは違う、女の艶かしい肌の色。
神威は微かに目を細め、唇に塗った血を舐めとった。

「味は同じ、かな?」

もう一度確認するように、今度は頬の傷口を舐めてみたが、やはり血は血でしかなく何も変わらない。

「ねえ、何が違うんだろうね」

神威には分からなかった。妙にだけ動くこの感情の意味が、沸き上がるこの衝動が。腹の奥で燻り続ける感情の名など神威には分からないのだ。憎いのか、欲しいのか、犯したいのか、殺したいのか。それともそれ以外のなにかなのか。











肌を刺す冷気に妙は身を震わせた。何度か瞬きをして、ゆっくりと辺りを見渡す。雪だ。ここから外が見える。ちらちらと降り積もる雪と、薄く明かるい景色は幻想的で美しかった。
隙間から風が入り込み、妙はまた身体を震わせる。
おかしい。雪が積もっているのに戸は開けっ放しになっていた。頭がぼんやりとしている。自分はなぜこうしているのか、ここはどこなのか。妙は不明瞭な意識の中、絡まっている記憶を手繰り寄せた。


朝から雪が降っていた。昼にはすっかり雪景色で、庭も白一色。弟から雪で帰れないと連絡があったのは夕方だった。妙の仕事も雪の影響で休みとなり、一人で過ごす夜は寂しくて、そんなとき神威が訪ねてきたのだ。あのときも雪が降っていて───


妙は弾かれたように飛び起きた。思い出した。なにもかも、自分がここで気を失い倒れていた理由も。

「たーえ」

その声に背筋が凍る。妙は動けなかった。心臓が張り裂けそうだ。息を飲み、震える唇が呼吸を漏らす。

「ほら見て。雪兎。教えてもらった通りに作ったよ」

ひょいひょいと重さを感じさせない歩き方。いつもと変わらない声、変わらない表情。妙は驚きで動けないまま神威を見る。

「最後の仕上げ」

しゃがんだ神威が妙の唇を指先でなぞった。ひんやりとした感触。冷たい感覚が現実を押し付けてくる。

「やっぱり目は赤くないとね」

なぞっていた指を雪のかたまりに押し当てれば、その箇所がうっすらと赤く染まる。唇に紅など差していないのに。

「ほら、妙にそっくり。白くて小さくて脆くて、目が赤い。人間は泣いたら赤くなるんだね。泣くほど嫌だった?」

神威は自分を凝視する妙を観察するようにのぞき込んだ。人間にない瞳の色。そこに感情は混じらない。淡々と事実だけを拾い集めているのだ。
どれだけそうしていたのだろう。神威がふと顔を逸らす。

「やっぱり見てるだけじゃ分かんないや」

刹那、妙の身体がふわりと仰向けに倒された。痛みはない。どう倒されたのかも分からない。
突然視界が変わり妙は混乱する。起き上がろうとしても何故か身体が動かない。必死に抵抗するが不意に顔の横に何かが落ちてきて、それに気が逸れた。ぐしゃりと崩れた白いかたまり。それが先程の雪兎だと認識できたとき、腹の上に何かが乗った。

「っ・・・神威さん」

妙の腹を跨ぎ、馬乗りになった神威がひゅっと唇を吊り上げる。

「やっと喋ってくれたー。ねえ、もっと名前呼んで」

嬉しそうにしながらも妙の手首を畳に縫い付け、容赦なく自由を奪う。

「何が目的なの?」
「雪兎、また後で作ってあげるよ」
「質問に答えて。・・・分からないの。あなたの考えてることが分からない」
「オレも分からないよ」

神威がにこりと微笑む。

「だから連れて行くんだよ」

この笑顔を見たのは二回目だった。一度目は妙が気を失う前。いつものように神威が訪ねてきて、二人でご飯を食べて、妙が雪兎の作り方を神威に教えて、二人で作って遊んで、いつものように二人で、いつものように───

「神威さん・・・どうして・・・」

瞼が降りるたび、涙が流れ落ちていく。もうあの時間は戻らないのだと理解するのが辛かった。

「妙はオレが嫌いなの?だから泣くの?さっきもあんなに抵抗して、嫌だ嫌だって」

神威は心底分からないといったふうに妙を見る。溢れてくる涙は止まらない。分かりたいのに、分かり合えない。分かってあげたいのに、何も分からない。言葉は通じるのに、心も通じているはずなのに、肝心なところで隔たりが見えてくるのだ。

「今度は抵抗しないでね。上手く加減ができないみたい」

傷つけたくはない。だが、神威は知らないのだ。愛され方を知らないから、愛し方も知らない。彼女を優しく撫でるはずの手は、いつも何かを壊してしまう。

「どうして泣くの?宇宙は退屈しないよ。一緒に色んな星に行こうよ」

瞼を舐め、舌で涙を掬い取る。なぐさめ方も涙のぬぐい方も知らないから、まるで獣が傷口を労わるようなやり方しかできない。
神威の長い指が鎖骨に触れた。吐いた息が白い。生きた指先が脈打つ皮膚を舐めていく。

「夜兎と人間って繁殖方法と生殖機能がほとんど同じなんだって。だから今すぐじゃなくていいけど、いつかオレの子を産んでね」

妙の全てを奪おうとしているのに、神威は無邪気に笑い、嬉しそうに頬を擦り寄せる。

「たえ、あとで外に出てみようよ。夜なのに明るくて、すごく綺麗なんだ」



ましろいせかい

2013/4/25
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