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手のひらに命。
頬の端まで血の色。
肉を削ぎ、体液が滴る。
それでも俺は笑うことができた。















「銀さん」

路地に背を向けて立っていた俺を呼んだのは女の声。
顔を横に向け、視線を後ろに投げる。
ああやっぱり、見知った笑顔。

「ここでお仕事ですか?」
「んー・・・お仕事は体力の限界を感じたので自主的に休憩中でーす」
「それってただのサボりでしょ。しっかりしてくださいな雇い主さん」

背中越しにかけられた呆れを含んだ声が、嗅ぎ慣れた気配を運んでくる。日常と非日常の境目はこんなにも曖昧だ。

「奇遇ですね」

こんなところで会うなんて、と妙が微笑んだ。そりゃそうだろう。人通りなどほとんどない薄暗い路地。ここはそこから更に奥へと通じる脇道で、一見すると道があるのかさえ分かりづらい場所。

「お妙こそ、こんな所でなにやってんの」
「私は頼まれ物を届けに」

そう言って、胸に抱いた紫色のふろしき包みを見せるように少し持ち上げた。

「お店の女の子に、ここを通り抜けると大通りまで早いと教えてもらいまして」
「ああ、ここ近道か」
「はい。出掛けに思い出したので初めて通りましたけど・・・」

妙は笑みを潜めて辺りを見回す。

「ここは、嫌だわ」

そうポツリと告げ、理由は分からないんですけどね、と困ったように笑った。
細長い路地を吹き抜ける風が埃を舞いあげ、細かな砂が皮膚を弾く。

「───知ってるよ」

酷く醒めた声だと思った。
妙が僅かに首を傾げたのを見て、俺はゆっくりと口を開く。

「ここと似た場所。知ってる」

知りたい?と視線で問えば、妙は僅かな逡巡のあと首を左右に振った。

「今は結構です。またいつか、教えて下さいね」

そう言われ、可愛くねえなと吐き捨てながら安堵する自分がいた。
知りたいかと聞いたくせに、知られたくないのだ。
目の前の聡い女は、きっとそれに気付いていて。
だから何も聞かないし知りたがらない。見ないふりをし続ける。
それがありがたかった。

「そろそろ行った方がいいんじゃね。なんか頼まれてんだろ」
「ええ、そうですね。もう行かないと。銀さんはどうされますか」
「あー、小便したら帰る」
「ここで?」
「ここで」
「家に戻られたらいかが」
「むりむりー。間に合わねえって」
「だからってここで?」
「じゃあどこですんの?お妙が受け止めてくれんの?そのまな板で?」
「黙れ天パ」

笑顔のまま悪態を吐いた妙は不意に空を見上げた。俺も何気なく目線を上げる。空の色が薄い。今まで輝いていた太陽を灰色の雲が隠し始めていた。
───雨が降るのかもしれない。

「・・・仕方ないですね。次からは家まで我慢すること。銀さんもいい大人なんですから」
「分かってるよ」
「あと、さぼってばかりじゃなくて、ちゃんとお仕事して下さいね」
「だから分かってるって」
「それと、雨が降りそうだから寄り道しないで早めに戻るのよ」
「分かってるっつってんだろ。お前は俺のかあちゃんか」
「返事」
「へいへい」

妙の澄ました顔を目の端に流しながら、俺は自然と笑っていた。変わらない日常。退屈で平凡で。これが今の俺を纏うもの。

「・・・あ、そうだ」

数歩進んだところで、俺は首の後ろを掻きながら振り返った。同じように歩みを止めた妙がこちらを振り返る。笑顔はない。俺にも、お前にも。

「あんまりここ、来ねえ方がいいんじゃねーの。近道だかなんだか知んねえけど、お前に似合わねえから」

暗くて、狭くて、終わりの見えない、こんな泥の底みてえな場所は。

「───銀さんにも似合わないわ」

生温くなった風が埃と女の匂いを運んでくる。
白い肌、桜色の爪、ほんのり朱色の唇。
そこには、たおやかな笑みの花が咲いていた。
俺は目を細め、睫毛を揺らす。何かが内側から零れ落ちそうになるのを堪えながら、一瞬芽生えたくだらねえ望みを静かに沈めた。





銀時、お前狙われているぞ。
あらら、モテる男は辛いねえ。
冗談ではない、気付いているのだろう?
まあ、心当たりはあるわな。
ならどうして逃げない。
どこにいても同じじゃね?なら俺はここがいい。
ここを捨てられぬか。
その気はねえな。
傍に居る者を狙われたらどうする。
心配すんなって。そこは大丈夫だから。
・・・手を汚すつもりか。汚す、ねえ───







「───今更だっつーの、馬鹿ヅラ」

昼間なのに薄暗い路地裏。
完全に女の気配が消えたとき、俺は深く息を吐き乱暴に頭を掻いた。

「あー、焦った・・・」

風の向きが変わる。
女の残り香は消え、変わりに生温い風が雨の匂いを伝えた。

「バレてねーよな」

刀も血も嫌いだ。理性が吹っ飛んで、視界に入る生き物を手当たり次第に斬りたくなるから。だからこうやって刀を使う場所を選んでいるのに。
一度視界を閉じたあと、通路の入口に目を向けた。そこに先程まであった気配は既になく、ただ空間が存在するだけ。

「───銀さんにも似合わないわ・・・か」

自嘲気味に呟いて、俺は両の手のひらに視線を落とした。そこにあるのは握り潰してきた命の染み。
あの女はどこまで気付いたのだろうか。知らなくていいのに。知る必要もない。ただ自分の幸せだけを見つめていればいい。働き者で優しい男と結婚して、元気な子を山ほどこさえて、賑やかで温かな光景の中で綻ぶように笑っている。そんな幸せを。そういうのが一番似合うから。
それは妙だけではない。新八も神楽も皆、知らないままでいてほしい。何も知らずに、綺麗なものだけ見つめて。幾つもの笑みの花を咲かせて。


風が止んだ。


「・・・さあてと、後片付けしねえとな」

視線の先にあるのは、暗くて、狭くて、終わりの見えない泥の底。
あの優しい女の気配は消えてしまった。
ならば躊躇うものはない。
汚れた両手をだらりと足らし、気怠い足取りで路地裏の奥へと向かう。
鳴り響く砂音。
深くなっていく陰影。
目を伏せれば瞼の奥に咲いた花。
つられるように俺は笑った。



手のひらに命。頬の端まで血の色。肉を削ぎ、体液が滴る。
濁る虹彩。潰れる声。刀は光り、命が散らばる。
生きるなら皆で。死ぬときは一人で。汚れるのは俺だけで。
それは誰にも見せない。お前はなにも見ない。ここには誰もいない。ここまで来てはくれない。
それでも俺は笑うことができた。


笑うことができた。






2011.06.20

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