土方が取った電話の相手は志村妙だった。
屯所にわざわざ連絡してきた用件といえば、
『お宅の局長さんを迎えに来てくださらない』というもの。
午後から家を空けるので、それまでに連れ帰ってもらいたいのだそうだ。
この忙しいときにと思わず顔をしかめたが、彼女の言い分の方が正しいのだから仕方ない。
隊士は見回りに出払っており、いつもならサボり魔の沖田ですら屯所にいなかった。
つまり迎えに行ける人物は一人だけ。
「すぐに行く」
皺の寄る眉間を手で押さえながら、土方は短く言葉を返した。
「煙草はこちらにお願いしますね」
恒道館の門を抜け庭に回ると何かが埋まっていた。
それが近藤だと知り、土方が小さく溜息を吐く。
気分を変えようと懐を探っていたとき、その声が聞こえてきた。
声のする方に視線を動かせば、手に小皿を持った妙が縁側で微笑んでいた。
「私も新ちゃんも吸わないから、灰皿は置いてないんですよ」
その場に腰を下ろした妙は藍色の小皿を自分の隣に置いた。
土方が志村邸で煙草を吸うのは初めてではない。いつもは持ち歩いている携帯灰皿を使っているし、それを妙も知っているはずだ。
こうやって自分の家の物を土方に使えということは、仕事中に私用で呼び出したことに対する妙なりの気遣いなのかもしれない。
特に遠慮する理由も見当たらない土方は、小皿を挟んだ妙の隣に腰掛け「悪いな」と礼を述べた。
「あんた、用があるんじゃねえのか」
煙草をくゆらせながら当初の予定を思い出す。仕事の合間を縫って来たのは別にここの縁側で落ち着くためではない。妙が一刻も早く近藤を連れ帰れと連絡してきたからだ。
「そうですね。実はあのあと、急な用事が入ったから一時間ほど遅れると連絡があったんですよ」
「弟か」
「いえ、九ちゃんです」
「ああ、柳生の」
土方にも覚えのある相手だった。土方に、妙という存在を見つめるきっかけを与えた人物でもある。
それまでの土方にとって、妙は他人を通して見る存在だった。
万事屋の新八を通して。そして、真選組局長である近藤を通して。
他人を介してしか知らなかった妙を、初めて自分の目で見て知ったのが、あの結婚騒動のときだろう。
「出かけるつもりだったから家の用事は済ませてましたし、今さらすることがないんですよね。だからこの際、貴方にお相手していただこうと思いまして」
「俺は時間潰しの相手か」
土方が鼻で笑った。
「いけませんか?」
「・・・いや。構わねえよ」
土方とて決して暇ではないのだが、思いのほかこの場所の居心地がいいので、今すぐ屯所へと戻る気が失せていた。
こうやって仕事から離れ、心穏やかに過ごすのはいつぶりだろうか。
土方も妙も、互いをあまり知らないからこそ、肩肘を張らずに話せるのかもしれない。
十八のわりには生意気な女だと思う気持ちは変わらないが、はっきりとした物言いながらどこか一歩引いた態度は二人の間に程よい距離感を与え、それが土方には心地よかった。
そろそろ時間になるだろうかと、土方が小皿に灰を落としたとき、妙がつい、と土方に顔を向けた。
「ねえ、副長さん」
「なんだ」
「ご結婚はなさらないのですか」
今までの話から外れた問いかけに、土方は一瞬返答に詰まる。
「―――どうかな。今は考えちゃいねえが」
灰を落とした煙草をくわえ、そしてまた離して。
「そういう未来があればいいとは思ってるよ」
白い煙と共に吐き出した言葉は本音だ。きっと叶うことのない未来だとも思っているが、それを妙に伝える必要はない。
「いつかいつかと思いながら死んでそうだけどな」
笑い話のように言ってみれば、「でしょうね」と妙に即答された。お愛想の相づちを打つ気は更々ないらしい。そんな妙の態度に、土方はうっすらと笑みを浮かべた。
「あらまあこんな時間」
「そうか」
煙草の灰を落とした土方が腰を上げる。少しばかり強張った筋肉は長い時間同じ姿勢で座っていたせいだろう。しかしそれも気持ちの良い疲労感だ。
「すっかりお付き合いさせてしまいましたね」
「いや、久しぶりにのんびりできて良かった。ここだと店と違って金の心配しなくていいしな」
「あら、灰皿代としていただいても構いませんよ」
土方は伸びをしたまま声にだして笑う。
「そういうところがあんたらしい。その鼻持ちならねぇ、くそ生意気なところがな」
「今回だけ誉め言葉と受け取っておきますよ」
いつもの食えない笑顔で受け流した妙が庭に目をやった。
「副長さん」
「あ?」
「お好きな方はいらっしゃらないのですか」
妙の視線は動かないままだった。庭を見ていたのか、青々と茂る草木を見ていたのか。
その態度と声があまりにも静かなものだったので、土方の心にスッと染み込んでいく。
頑な瞳が、柔らかな夢を映し出した。
「―――幸せになってほしい女がいた」
ゆっくりと紡がれる土方の言葉に、妙は耳を傾ける。
「誰よりも幸せに、できるだけ永く生きていてほしい女がいたよ」
過去に戻りたいとは思わない。
自分の選択に後悔はない。
罪も業もすべて背負って生きていく。
ただ一つ。
彼女の気持ちが知りたかった。
幸せだったのかと。
「これは私の勝手な言い分ですけどね・・・」
立ち昇る煙草の煙が土方と妙の間で揺れる。
「貴方が誰かを好いて、その方の幸せを願うのなら。まず、貴方が幸せでいなきゃ駄目ですよ」
―――胸を突かれた気がした。
心の隙間に温かな水が染み渡るような感覚に、苦い何かが込み上げてくる。
土方は空を見上げた。
「そうだな。あんたの言うとおりだ」
彼女が幸せだったのかは、きっと一生分からないままだろう。
幸せだったのだと、そう信じて生きていくしかないのだ。
今の自分のように、幸せだったのだと。
「幸せでいねぇとな」
白い煙が、空へ空へと昇っていった。
「さしあたり、貴方のなさることはそこのゴリラを連れ帰ることですよ」
「分かってる。―――おい、近藤さん」
「ん・・・んん」
土方が何度か揺すると、近藤が意識を取り戻し、両目を瞬いた。
「・・・あれ?トシじゃねえか。なにやってんだ」
「そりゃこっちの台詞だ。あんたの迎えに来たんだよ」
埋まっていた場所から自力で這い出してきた近藤は、何事もなかったかのように隊服についた土を払う。
「急ぎの案件か」
「松平のとっつあんが局長に預けた仕事はどうなったのかってよ」
「・・・あれか!!」
すっかり忘れていた仕事を思い出し、近藤は焦ったように頭を掻いた。しかし、のんびりとはしていられない。
「ではお妙さん!また明日来ます!」
名残惜しいが責任を果たさなければいけない。
近藤は何度も妙に手を振って、慌てて走り去っていった。
遠くなっていく足音。
その場には迎えに来たはずの土方が残された。
近藤を迎えに来たはずが、本人は土方を置いて一人でさっさと帰ってしまったのだ。これでは何の意味もない。一体自分は何のために来たのやら。
「あらあら、置いてけぼりですね」
からかいまじりの言葉には舌打ちで返す。
腹立たしげに煙草をふかした土方を見て妙が笑った。
「―――――じゃあ。またな」
「ええ。また」
妙に背を向けたまま片手を挙げ、その手に挟んでいた煙草を口元にやる。
緑が茂る庭に名残惜しげな煙を置いて、土方は馴れ親しんだ自分の世界へと戻っていった。
「happiness」
2010.08.27
back to top