※姉弟以上な新×妙です。苦手な方はご注意下さい。
まず、視界を塞ぐ。
手のひらで目を覆い、瞼を指で下ろし、世界から隠してしまう。
それが二人の合図だった。
夢を見た。
君と僕が他人同士の。
夏と呼ぶには涼しくて、だからといって春ではない。梅が色づく時期に降る雨だから梅雨と名づけられたこの季節。しかし本当は、春とも夏とも言えないからそう呼ばれるのかもしれない。
水分を含んだ湿った空気がそこかしこに立ち込めて、独特な気配が身体中にまとわりついていた。
「――降り始めましたね」
新八が襖の開けて窓を見ればそこに透明な粒が張りついているのが分かる。それは涙のように流れ落ち、窓の縁へと溜まっていた。
「雨の音がここまで聞こえるわ」
縫い物をする手を見つめたまま妙が言葉を返す。視線の先には愛用している縫い針と新八の稽古着。白い大きな着物は男物であり、妙には少し大きい。これを弟である新八が着ているのかと思うと何とも感慨深くなった。こんなにも大きくなっていたのだと、一針縫い進めるごとに思うのだ。
「明日の仕事は外なんですよね」
新八は窓を伝い落ちる雨の粒を目で追う。静かな午後。耳に入るのは雨の降る音、雫の跳ねる音、そして姉である妙から生まれる音。
「止めばいいけど……無理かな。梅雨だから仕方ないですね」
しん、とした廊下に吸い込まれていく声。この広い家には新八と妙しかいない。もう、ずっと前から。
「それなら合羽を用意しておきましょうね。銀さんと神楽ちゃんの分も」
「そうですね。僕が明日持って行きますよ」
新八が振り返ると、妙は「お願いね」と手元を見つめたまま微笑む。新八はその光景を無言で眺めていた。
慣れた手つきで糸を結び留める指先。白い糸をぴん、と張って口元へ。紅をさしていない唇は淡い桃色で、ちらりと見えた白い歯はすぐにその色で隠される。唇が動いたと思ったら、ぷつんと糸は切れて落ちた。
「出来たわよ、新ちゃん」
四方まできっちりと折り畳まれた稽古着を膝の上に乗せ、ぽんぽんと軽く叩く。
「綻んでいたところも縫い合わせたし……これを着てまた稽古に励んでね」
「ありがとうございます姉上。また頑張ります」
「ええ。応援してるわ」
新八は妙の傍らに座り、綺麗に畳まれた自分の稽古着を受け取る。じんわりと肌に当たる微かな温もりは妙から移ったものだろうか。生温い熱はとろりと手のひらに伝わった。
「新ちゃん」
耳たぶに息がかかる。唇が触れたかもしれない。新八の眼鏡がすぅと妙の手で取られた。見慣れた顔が目の前に現れる。その目もその鼻もその輪郭も、妙が昔から知っているもの。
「少し……伸びたかしら」
眼鏡を机に置いて、妙は新八の髪に触れた。黒髪の中に指を入れ、何度も何度も梳いていく。よく似た髪質と髪の色。妙はまるで自分の髪を梳いているような感覚に囚われた。
「姉上も……。ここが、ほら」
妙の前髪を一束つまみ、そのまま指をするりと滑らせた。ほどよく日焼けした手は妙と似ていない。骨張った指と硬い手のひらは女の妙にはないもので、細い指と柔らかな手のひらは男の新八にはないものだった。
「私が切ってあげる」
妙はふんわりと微笑みながら、新八の目をその女らしい手のひらで隠していく。新八の視界から妙が消えていった。
雨は勢いを増すこともなく淡々と降り続ける。窓ガラスには透明な水玉模様が幾つも生まれ、それは蛇のように跡を残しながら滴り落ちていった。
妙は耳のふちで雨音を聞きながら、瞼を閉ざす新八の顔をどこか懐かしむように見つめていた。幼い頃と同じようなあどけない顔立ち。年頃の男らしさはあまり感じられないが、しかし姉だからこそ新八の成長がよく分かるのだ。もう子どもではない。少なくとも、何も感じ合えない歳ではなかった。あの頃よりも大人びた顔。誰かに似ている気がして、それは自分なのだと妙は思った。
「私と似ているわね」
悪戯心で鏡に映った自分と口付けることは、幼い頃にはよくあることかもしれない。これは、その行為によく似ている。
「僕は姉上の弟ですから」
新八が声をださずに笑う。閉じられた瞼に微かな空気の流れを感じ、しっとりとしたモノが触れた。瞼から瞼へ移る熱。目尻に鼻先に感じる熱。ゆったりとした感覚で続いていく感触。
「……温かいですね」
新八は自分の輪郭をなぞっていた手に自分の手を重ね合わせた。己のものよりも幾らか小さな手。ほっそりとした指。そのどれもが新八よりも弱いもので、妙という存在が近く思えた。この手のように重なり合うことはないけれど。
「それに……柔らかい」
そう言って瞼を上げれば視線の先に黒い瞳。その大きな瞳は新八のものとよく似ている。が、似ているようで本当は似ていないと新八は思っていた。
「私は女だから」
妙の瞳はいつだって滴るほどの水分を含んでいて、まばたきをするたびに零れ落ちそうだった。水気を帯びた瞳は鏡のように新八を映して、新八はそれが嬉しかった。姉の中へと入ることの出来ない自分が唯一彼女の中に存在する方法。それしかなかった。現実が、二人がそれ以外を許さなかった。
「姉上は姉上ですよ」
新八の指が妙の瞼に触れ、ゆっくりと撫でるように妙の視界を塞いでいく。紅をさしていないはずの唇が赤く色づいていた。
「そうね。新ちゃんは新ちゃんだわ」
新八の手のひらが妙の目元から遠ざかり、伝うように鼻へ頬へと下りていく。感触が心地好い。動いていた指先が濡れた唇に触れて止まる。何度かなぞったあと、隙間から少しだけ中へと押し入った。指先にあたる硬い感触と、指を包む湿った熱。確かめるように中指で形をなぞり、そうっと離れた。
「一緒にいられるのは、いつまででしょうか」
新八は自分の頬で重なったままだった妙の手を、両手で包むように握った。小さな妙の手がもっともっと小さく思えた。幼い頃から握り続けた体温は変わらない。涼やか空気とは逆に、緩やかに高まる熱。
「いつまでも一緒にいましょう」
熱いのは妙や新八だけではない。二人を包み込む全てが熱帯夜のような終わりのない熱量を帯び、二人はその世界に閉じ込められていた。
新八は細い指を掴み、整えられた爪先に口づける。微かに香るのは姉の匂い。名残惜しそうに何度か唇を擦りつけたあと、その手を妙の膝へと戻した。
眼鏡をかけると馴染んだ重さが耳と鼻にかかる。レンズ越しに目の前にいる妙を見やれば長い睫毛が少しずつ上がり、黒い鏡に新八が映った。その姿がぐにゃりと歪む。妙が笑っていた。
「――そろそろ神楽ちゃんが来る頃ね」
壁に掛けてある時計は、おやつの時間と言われる位置を指し示していた。
「銀さんも来そうですね。甘いものには目がないですから」
新八はよっ、声を出しながら立ち上がり窓の外に目を向ける。小さな粒の雨が庭にある花や葉に降り注いでいた。
「今頃二人で傘さして来てるかもしれないですね」
「じゃあ、私はお茶の準備をしようかしら――」
そう言って立ち上がろうとする妙に新八が手を差し出した。
「どうぞ。姉上」
レンズの奥にある目が細くなる。
「ありがとう、新ちゃん」
華奢な手が新八の手のひらに重ねられた。薄い皮膚から体温が伝わる。その皮膚の下を流れるのは同じ赤い液体。その音は雨の音に似ているのかもしれない。
春にもなれなくて夏にもなれないこの雨の季節のように、姉弟というものから大きく逸脱した感情を互いに持ちながらそれでも結ばれることはない二人。
だから夢を見る。
同じ夢を二人で。
「明日も雨かな」
「そうかもしれないわね」
重ねられた手は糸のようにぷつん、と離れて落ちた。
「夢を見た。君と僕が他人同士の。」
title/DOGOD69
2009.06.13.
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