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「志村?」

その姿を認めると、銀八の表情が僅かに変わった。
普段よりも幾分か優しげな声音になったのは、その相手に対する好意によるものだろう。

「呼んでも来ねーのに、珍しいな」

そう言いながら後ろ手でドアを閉め、すぐ横にあるアルミ素材の書棚に数冊の本を重ねて置く。
資料が折り重なり積まれたこの部屋は、ほとんど銀八の私室のようになっていた。銀八の私物もたくさん持ち込まれている。
入ってすぐ先にある小さな窓から差し込む光が部屋に明かりを与えていた。窓際に置かれた机には授業で使用する資料や教科書が乱雑に並べられている。

「珍しいですか?ここの掃除や本の整理のお手伝いによく来てましたけど」

窓を背にした志村妙は僅かに小首を傾げる。

「それは委員長として呼んだとき。そうじゃなくて」

ネクタイを緩めながら銀八が笑み浮かべ、声をひそめた。

「恋人として呼んだとき、だよ」

教師が教え子の少女に投げかけた言葉の中に、酷く不釣り合いな単語が混じる。
その違和感は、ここが学校であるということも相まって、余計に際立っていた。

「当たり前です。身の危険を感じましたので」

当然でしょう?と、妙が微笑む。

「俺、先生だからね。こんなとこで襲わないから。時間もねーしゴムもねーし」
「じゃあ、それが揃っていたら襲うんですか?」
「誘ってんの?」
「まさか」
「だよね」

妙の冷たい視線を受けながら銀八は着ていた白衣を脱ぎ、それをネクタイと共に椅子の背もたれへ掛けた。

「で、志村さんは何の用ですか?まさかそれだけ言いに来たわけじゃねェだろ」

質問してはいるが、妙がここに来る理由など当に分かっていた。しかし自分から言いだすつもりはない。できれば話したくないことでもあるからだ。
かけていた眼鏡を外し、乱暴に机の上に置く。眼鏡がないと多少幼く見えるが、それでも妙よりは充分に大人だ。

「お別れの挨拶にきました、先生」

窓を背に微笑む妙の瞳に、どこか淋しさを感じたのは願望だろうか。
そんな女々しい自分の思考に、銀八の口端が上がり笑みが零れた。





「――人魚姫って知ってますか?」

とりとめのない会話が途切れたところで、妙が唐突に質問をなげかける。椅子に腰かけ煙草を吸っていた銀八が白煙を吐き出し、そのまま消し潰した。

「んー、……ああ、王子に惚れて人間になったはいいが結局海の泡になったっていうやつな」
「そうです。私ね、あまり好きじゃありませんでした」
「へえ」
「だって、ハッピーエンドじゃないお姫様なんて悲しいもの」

海の泡になれば王子様が幸せになれるなんて、自己満足でしかないのに。

「でも、今なら分かる気がします。どうして諦めてしまったのか」

目を伏せたまま妙が笑った。睫毛が震え、一瞬泣いているようにも見えた。頼りなく、小さく。

「悲しいことじゃないんです。背伸びすることもやめて、人間のふりをすることもやめて、素直な気持ちを伝えられない苦しみから解放されて。王子様を好きなまま海に帰れたから」

淡々と穏やかな声はその裏にある感情を匂わせる。妙が泣いているように見えたのは、銀八がそうあって欲しいと望んだからかもしれない。

「じゃあ、そのお姫さまに逃げられた王子さまがどう思ったか分かる?」

椅子を鳴らしながら立ち上がり、妙の手を引く。胸の中に閉じ込め隠すように腕を回し抱き寄せた。

「傍にいてほしかったのに勝手に消えやがって……て思ったんじゃね?かわいそーに」

残された王子は青色の水溜まりを見るたび、それを両の手で掬うたび、突然消えてしまった人魚姫に想いを馳せてしまうのだろうか。

「ねえ、先生」

差し込む光が弱くなり、部屋は一段と薄暗くなる。

「形あるものはいつか滅びるって言うでしょう?じゃあ、形のないものなら永遠に続くと思いますか」

銀八の胸元に顔を埋め、その温もりが肌に伝わる。妙は眠るように瞼を閉じた。

「永遠もなにも、終わらせたのは志村の方だろ」

ため息混じりに答える。言葉だけだと責めているようにも感じられるが、どこまでも優しい声。

「アハハ、そうでした」
「お前……アハハじゃねーよ。振られた俺の気持ちを考えろっつーの」

拗ねたように言いながら妙の髪に触れ、それに指を絡ませた。馴れた感触が指先から伝わる。

「やっぱさ、別れるのやめねェ?俺もう泣きそうなんですけど」
「大人なんだから、我慢してください」
「あのなァ……俺が我慢できる大人なら生徒に惚れたりしねーって」
「そうですね。惚れたうえに告白して付き合ったりしないでしょうね」

くすくすと笑いながら妙の腕が銀八の背中に触れる。じんわりとした温もりが銀八の中の中まで染み込んでいった。
初めてではない。
だが、何度味わっても飽きることのない温度と感触。

「これで終わりかよ。呆気ねェもんだな」
「おとぎ話じゃないもの。現実はこんなものですよ」

抱きあったまま、いつもと変わらない会話を交わす二人に悲しみの色は見えない。しかし緩まない力は離れがたい願いを滲ませる。

「先生」
「なに」
「先生」
「なんだよ」
「ごめんね」

小さな声で囁かれた言葉は、この別れを現実のものにしていく。

「先生に逢えて良かった」

想いは絶え間なく溢れだすのに、それは叶うことなく溶けていく。
溶けた想いは想いと混じりあい、決して消えることはない。
制服の上から、手のひらから、触れた頬から伝わるこの温もりを、忘れられるわけがないのだ。
銀八は僅かに目を細める。
湿った瞳が鏡のように妙を映し、それを焼き付けるようにゆっくりと瞼を閉じた。


「そして溶けるの」
2009.5.19

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