ランタナ・カレイドスコープ
心に兵長の形の穴が空いているのです。
▽▽▽
寝起きのぼんやりした頭で無意識に腕を伸ばす。
自分以外の温もりを探してベッドの中をもぞもぞと這う私の手。けれど目的のものは見つからずに、不可解だと思いながらそこでようやく目を開けた。
「へいちょう……? ん、あ……ああ」
私を置いてどこへ──と問いかけようとして、ようやくここがどこであったか思い出した。
自分の部屋の、自分のベッドの中だ。
昨夜は兵長の部屋に泊まらずにここへ帰ってきていたのだ。なるほど兵長が不在なのも頷ける。
途端に起きる気力が失われて、ごろりと仰向けに寝転がった。見慣れた天井だ。隅に蜘蛛の巣など張らせているところを見つかったら、どんな目にあうかわからない。きちんとチェックしなくては。机にも本棚にもそろそろ埃が積もり始める頃かもしれない。今度の休みにはちょっと気合いを入れて真面目に掃除をした方がいいような気がする。
掃除は毎日やるものだと真顔で言うあの人とは違って、私は埃を見つけてから排除する人間だった。油断すれば本や書類がその辺りの机や棚に積み上がってしまうし、ランプのガラスを毎日磨き上げたりもしない。私の部屋はかろうじて兵長に及第点──極限まで甘い採点をしてくれているそうだ。愛故にだろうか?──をいただく、ありふれた個室だった。
同室の人間はいない。兵団内の資料や文献、蔵書を管理する職務の都合上、私の荷物は多く、その為か個室を与えられていた。役職付の人間ならば、自動的に個室が与えられるらしい。私の仕事にはあいにく班長も分隊長も存在しないので、例外的な個室ではある。ありがたいことに。
そんな部屋でぼんやりと一人、天井を見上げていた。
いつもより早く目が覚めたので、時間にはまだ若干の余裕があった。兵長にまとわりついて、朝食前にしばらくじゃれる位には。
しかしながら今朝はそれもできない。目覚めた瞬間から兵長にしがみつきたいのなら、昨夜も自分の部屋に帰りたくないと一言言えば済む話ではあったのだけれど。何となく、そう毎晩毎晩泊まり込んでしまっては申し訳ないかな、なんて考えてしまったのが原因だった。それで眠りが浅くなってしまっていたら世話はない。
兵長はどうだったかな。うるさいのがいないから安眠だ、なんて切ない台詞がいともたやすく想像できる。想像の中の兵長にひどいとしがみつく妄想をしたところで、流石にそろそろ起きなくてはまずいかと身を起こした。せめて着替えて、身支度を整えるくらいはしないと。
今度お気に入りのブラシを買い足して、兵長の部屋に置かせてほしいと頼んでもいいだろうか。髪をとかすのにいつも借りてばかりでは申し訳ないし──などとぼんやり考えながら、鏡の中の自分と向き合っていた。
騒ぎが起きたのは、その時だった。
「ああ、あれはお前の兵舎の方だったか」
「そうなんですよー」
夜になって、兵長の部屋に押し掛けた。
一日何かと慌ただしく、兵長に会えずじまいだった私は、食堂で夕食をとってすぐに兵長の部屋へと直行したのだった。
それも全て、朝の騒ぎのせいである。
「浸水したと聞いたか、お前の部屋は問題ねぇのか」
「おかげさまで。私の部屋って、水場からちょっと離れてるんですよ」
「そうだったか」
今朝兵舎で起きたトラブル。
その正体が何かというと、一言で言えばポンプの故障だった
少し前から、二階部分の汲み上げポンプの調子が悪いというのは聞いていた。けれど中途半端に使用できてしまっていたのが良くなかったのか、工事の依頼が遅れていたのだという。兵舎各所には水を使うために管が通っているのだけれど、やけに水漏れする場所が増えてきたなとは皆うすうす分かっていたのだ。流石にそろそろ一度業者を入れようか──と話し合っていたらしいのだが、既に遅く。
今朝になって兵員が水を汲もうとしてポンプが暴発、溢れた水は辺りにまき散らされ、水漏れしていた管のいくつかは水流が増したせいで破壊された。
結果として、兵舎の各所に浸水する騒ぎとなったのだった。
私の職場──つまりは資料室や書庫は当然のことながら、私の部屋も水場からは離れていた。おかげで水びたしになることは避けられたのだけれど、兵員の中には自室にまで被害が及んだ者もいると聞く。数日は復旧作業に駆り出されるに違いない。
実際、私も今朝からモップと雑巾を持って兵舎を駆け回っていた。慣れない肉体労働にぐったりしていたけれど、こうして兵長の隣に座っているだけで身も心もじわじわと回復していくのがわかる。
「ご苦労だったな」
「ふふふふ……」
「だらしねぇ面しやがる」
兵長には一日会えなかったし、身体は疲れているけれど、わしわしと乱暴に髪をかき混ぜられて疲れなんて吹き飛んだ。
「拭いた床はきちんと乾拭きもしたんだろうな?」
「今そこ気にしますか……?」
恋人と二人、部屋でゆったりとくつろいでいる時に飛び出す話題かという疑問は残るけれど、それでこそ兵長だという気もする。
「気になるからって明日自分で確かめに行ったりしたら駄目ですよ」
「何故だ」
何故も何も。
一般兵だらけの場所にいきなり兵士長が乗り込んできて、掃除の指揮を執り始めたら問題だと思う。きっと、いつものフル装備でやってくるのだろうし。
「兵長は兵長で忙しいじゃないですか……いっつも、昼間は机に向かってて」
根を詰めて書類をさばく兵長に、少し休んでくださいとお茶を持って行くのが私の日課だった。放っておけば休憩も取らずに黙々とペンを動かす兵長に、邪魔だと罵られつつ一緒にお茶にしましょうとねだるのだ。
「ろくでもねぇ書類にサインしたり、くだらねぇ会議なんざ出るより、床でも磨いてる方が有意義だろう」
「……兵長もしかして今日ご機嫌斜めですか」
いつもより幾分か駄々をこねるような口調で、そうと気付いてしまった。むっつりと閉じられた口も寄せられた眉も、眇められた瞳も何より雄弁だ。
「そんなことはない」
「だって」
私の言葉を否定するものの説得力はない。何かあったのだろうかと尋ねようとして、腕を引かれたので黙る。
そのまま抵抗せずにいれば兵長は私を抱き寄せ、腕の中に閉じこめるからだ。実際、その通りになった。
首筋の辺りに兵長の吐息を感じる。呼吸の度にくすぐったくて軽く身をよじらせてしまうものの、逃れようとは思わない。
兵長は何か言おうとしているのか、口を開こうとしては閉じるのが伝わる。もぐもぐと唇を動かす仕草でそれがわかった。
そっと右手を伸ばすと、兵長の左手が見つかった。手の甲を指で何度か撫でて、そのまま握り込む。私よりも少しだけ大きな手。短く切りそろえられた硬い爪のカーブを指で撫でていると、兵長からも指を絡めてきた。指の内側が擦れあって、それにも思わず身をすくませる。こんなところも過敏に反応するだなんて、兵長にされるまで知らなかった。
「……別に、機嫌が悪いつもりはねぇ」
「そうですか?」
その表情は伺えないけれど、こうして身を寄せ合って手を握り合っていると、先程よりも声が柔らかくなっているのは気のせいだろうか。私の方もうっとりと身体の力が抜けてしまって、思考もとろけてしまっているから余計にそう感じるのかもしれない。
「休憩時間よりも、お前は掃除が良かったんだろう」
「え……」
「……別に他意はない」
「大ありじゃないですか!」
ぎゅう、と握りしめていた手の力を強くする。顔を見せたがらない兵長に、仕方がないからぐりぐり額を擦り付けて。
「私がいないと、兵長は休憩ちゃんととってくれないんですもんね」
「自惚れるな」
「自惚れますとも!」
兵長が言いたいのはこうだ。
私は今日一日ずっと兵舎の後片付けに駆り出されていた。急ぎの仕事は抱えていなかったし、それ自体は構わない。けれどそのせいで休憩時間に一人抜け出すというわけにもいかず、昼間兵長の元へ行くことが叶わなかったのだ。そのせいで兵長が先程の発言に至ったというのならば。
「もー……もー!」
「牛か」
「違いますよ!」
もうやだ兵長大好き。
そんな気持ちと言葉が溢れて上手く言葉が継げなかっただけだ。
「邪魔にしかされてないと思ってましたけど、本当は兵長も……!」
少しは私とのお茶の時間を、楽しみにしていてくれたということでいいだろうか。いいということにしよう。そうしよう。
「邪魔は邪魔だが」
「またそんな意地悪言う……」
いつの間にか私をしっかりと両腕で抱きしめながらそんなことを言ったって、説得力なんてどこにもない。そんなことを言うなら首筋に噛みついちゃいますよ、と思って、間違いなくやり返されるのがわかっていたのでやめた。きっと、軽く歯をたてるくらいでは済まないのは目に見えていたからだ。
「今日の分、明日はお菓子もつけますね」
「お前が食いたいだけだろう」
「そうですよー。だから付き合ってくださいね」
けしてめげない私に、兵長は嘆息し、結局は
「……ちゃんと来い」
念を押すような言葉と共に、腕の力を強くした。
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