いとしいとしと言う心


 兵長のいない夜はせつない。
 小さな明かりだけを灯した薄暗い部屋。ベッドに潜り込み身体を丸め、ふんふんと鼻を鳴らして兵長の気配を感じ取ろうとしている私は、人というより獣の気分だった。
 勝手に持ち出した兵長の部屋着を抱きしめる。皺になると叱られるかもしれない。その時はまあ、その時だ。
 いつもなら今頃は、二人きりでいられるはずなのに。
 恨みがましくかぷりと兵長のシャツに歯を立てた。兵長本人ではないだけ褒めてほしい。ごろんごろんと寝返りを打っても転がり落ちることはない。それだけ兵長の寝室のベッドは広かった。
 恋人のベッドで一人、自暴自棄になって転がっている。
 自分の部屋で一人よりはましなのか、それとも淋しさが増す分つらいのか。今の私には判断がつかない。
 淋しい。
 ので。
「まだかなぁー……」
 情けない声は、自然と口からこぼれ落ちた。


     ▽▽▽


「わかりました。お仕事なら仕方ないです」
「……」
「遅くなるようなら先に寝てますね。いってらっしゃい」
「…………なぁ」
「はい」
 私が先程から返しているのは、いわゆる「いいお返事」というやつだった。物わかりよく、例え恋人と夕食の約束をしていても、急な任務が入ってしまえば反故にされるのも仕方がないことだと頷いた。
 その恋人というのが調査兵団の兵士長、リヴァイ兵長であれば当然のことだと思っている。いる――のだが。
「……そういうのは、俺にしがみつくのをやめてから言うもんじゃねぇのか?」
「わーん! だってー!」
 ――ご指摘の通り、先程から私は兵長の首筋にかじりついていた。
「悪かった」
「兵長が悪いわけじゃないですし……」
「流石に俺だって連続して三度は気が咎める」
 しがみつく私の背中に腕を回してくれながらも、兵長の声はどことなく沈んでいる。久々に兵長とデートだと浮かれていたところに緊急の召集。断れる筈もなく出かけていく兵長に、我が侭を言わないようにするだけで精一杯だったけれど、兵長の方も少しは残念がっていてくれるのだろうか。
「少しで済むかよ」
 その声音に私の方の機嫌は即座に直る。頬ずりしながら甘えても、撫でる手が止まなかったので余計気分がいい。頬やら耳やらに兵長の唇が掠める度、そこからとろけていってしまいそうだった。
 うっとりと兵長の手を享受していたいのは山々だが、いつまでもこうしているわけにもいかない。そろそろ兵長を解放して見送らなくてはならない。ならないのだけれど。
「良い子でお留守番なら任せてくださいね」
「ああ」
 口ではそんなことを言いつつどうにも離れがたい私に、兵長は耳元で小さく囁いた。
「良い子に教えてやろうか」
「何をですかー?」
 良い子、とわざと同じ言葉を返されてくすぐったい。思わず笑みを浮かべて聞き返すと、兵長は事も無げに私の耳に言葉を流し込む。
「さっきからな、向こうであいつらが見ている」
「!?」
 ばっ、と勢いよく兵長から自分の身体を引きはがし、辺りを見回すと――ああ!
 廊下の曲がり角、隠れるのが間に合わなかったという様子の団長とハンジさんとミケさん。つまりは兵団トップ幹部勢揃いという状態で、私は暢気に兵長に懐いていたわけで――もう、もう。
「なんで、兵長、なん……っ」
 気付いているなら早く教えてほしいし、ドアの前とはいえ部屋の外で甘やかしてくれるなんて珍しいなあとか、誰もいないしまあいいかーなんて考えていた私は今すぐ消え去りたい。
 ちらりと廊下の向こうに目をやれば、ハンジさんがひらひらと手を振ってくれたのが救いだろうか。その場で崩れ落ちたかったけれど。
「じゃあな、行ってくる」
 良い子で待ってろ、なんて殊更に強調して、兵長は最後にひとつ頭を撫でると、涼しい顔で去っていってしまった。
 取り残された私は、しばらくの間その場に立ち尽くすしか出来なかった。


     ▽▽▽


 そんなちょっとした辱めを受けながらも、結局私は兵長の部屋で大人しく待っていた。全力で甘えているところを人に見られた! と思うと自分の部屋に戻って不貞寝を決め込もうかとも思ったのだが、回収しに来た兵長にすごいことをされた過去を持つ身としては、大人しくベッドに潜り込んでいるほかない。
 それに、結局のところ私だって兵長の気配が残る場所に居たい。
 シーツも枕もシャツも全部、兵長の空気に包まれていたいと思うのだ。我ながら重症だと思う程に。


 いつの間にか、眠ってしまっていたのだと思う。
 兵長のことを考えながら、夢も見ない程にぐっすりと。
「……それでどうして、こんなことに」
 ふと目覚めた私は、途方に暮れた声を出す。
 ――私の視線の先には、どこか恨みがましい顔で私を見つめ返す兵長の姿があった。
「なにがだ」
 一言聞いただけでわかる。酔っている。完全に酔っている。
 お酒の強い兵長にしてはちょっと珍しいレベルで泥酔していた。一体どれほど飲んだのか。いや、飲まされたのか。
 団長達と向かった先で、何かがあったというのだろうか。多分その想像は合っている。しかし確かめようにも当の兵長がこの状態では。
 ベッドの上で私に覆い被さるようにしていた兵長は、そのままずるずると身体の力を抜く。途端に重みを感じるけれど、文句を言うわけもない。酔っているせいか、兵長はいつもにも増して体温が高い。兵長の熱と吐息。首筋にかかる息にぞくぞくした。それを受け止めながら、宥めるように兵長の背中を撫でた。これでは夕方と立場が逆のようで、思わず唇は弧を描く。
「……兵長」
 声が優しく響けばいい。そう思ってそっと呼んだ――のだが。
「ひゃっ!?」
 勢いよく身体を起こした兵長に、思わず妙な声が出た。おそるおそる見上げると、兵長の目は完全に据わっている。これはなんだかまずい気がする。
「兵長?」
 繰り返し呼んでみると、兵長はぎゅっと眉をひそめた。
「……兵長兵長言いやがって、俺の名前を知らねぇんじゃねえだろうな」
「リヴァイさん」
 呼んでほしいということだろうかと思って、即座に切り替えた。こんな風に請われるのは珍しい。ベッドの中でめちゃくちゃにされて、頭の中がぐちゃぐちゃになった時などはいつも無意識で呼んでしまって――いやいやいや、今はそれを思い出している場合ではなくて。
「ん……」
 満足したのか、リヴァイさんはひとつ頷くと、そのまま再び私に向かって倒れ込むように脱力した。
 これは重症だ。
 少しばかり努力して身体を動かすと――逃げるのかと勘違いされて、抱きしめる腕の力が強まるものだから苦労した――リヴァイさんの頭を胸に抱え込むように抱きしめた。ゆるゆると後頭部などを撫でてみたりもして。心地よさそうな吐息が胸の中心を熱くする。
「リヴァイさん」
「ん」
「リヴァイさん……好き」
「ん……」
「大好きですよ、愛してる」
「……」
 繰り返す言葉は独り言のように部屋に響いた。けれど返事はなくとも、ぐりぐりと顔を擦りつけられていることから、どうやら聞こえているらしいとわかった。
 酔っていて呂律が若干怪しいのと胸に顔をうずめているせいで、もごもごとしか聞こえないけれど、リヴァイさんもどうやら私の名前を繰り返し呼んでいるらしい。その度に「ここにいますよ」とか「どこにも行かないから大丈夫」とか、言葉を返しながら、ゆるゆると頭を撫で続けた。
 こんな風に甘えられることは久しぶりで、珍しいなと思いつつ嫌な気はしない。というか最高に嬉しい。いつも私が甘やかされてばかりの恋人が、気を許してくれているようで。
「ぁ、っ」
 不意に兵長の手が脇腹というか胸の端というか、きわどい部分を掠めたものだから声をあげてしまった。恥ずかしくて思わず俯くと、いつの間にか顔を上げていたリヴァイさんと目が合う。
「悪い、」
 咄嗟に出た謝罪の言葉に、驚いて首を振る。
「なんにも悪くないですよ」
 全力否定の構えだ。
 身も心も。その言葉通り、私の身体は頭の先から足の先までこの人のものだ。二人きりで寝室のベッドの上、そんな状態で触られて、悪いなんてことがあるものか。人前だと確かに恥ずかしいけれど、それでも困るだけで嫌なわけではない。後半はうっかり口にすると後々困りそうで、今のところ口にしたことはないけれど。とにかく私は。
「好きなだけ触ってくれたら嬉しいです」
 だらしなく表情を緩めてしまいながら、どうぞと言わんばかりに身体の力を抜いた。リヴァイさんはと言えば、少しばかり目を見開いて、
「…………おう」
 それならいい、とかなんとか。またも顔を埋めてもごもごと何やら呟いていた。
 そのまましばしの間抱き合っていると、不意にリヴァイさんが身を起こす。もういいのだろうか。見上げた頬は未だに少しばかり上気しているし、瞳もどことなく潤んでいるようだ。お酒が抜けていないのは明かで、このまま眠ってしまった方がいいと思うのだけれど。
「なあ」
「なんですか?」
 何を言われても頷くつもりだった。もっと深く触れたいとか、お風呂に入りたいとか。
 けれど兵長の口からこぼれ落ちたのは。
「――調査兵団をやめるつもりはないか」
 そんな、予想もしない言葉で。

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