奇跡の夜


「いい加減諦めろ」
「だめです……っ」
「もう無理だろう」
「いや……あぅ……」
 嫌だとゆるく首を振る。私の緩慢な動きに兵長は溜息をひとつ吐いて、私へと手を伸ばした。
「無駄な抵抗はよせ……もう瞼が半分閉じてるだろう」

 ──眠いなら無理すんな。

「いやぁ……まだ、眠く、ねむ……」
 油断すると私の意志とは関係なく閉じようとする瞼。ぶんぶんと首を振って眠気を吹き飛ばそうとする。いや、眠くなどない。これは睡魔などでは、決して。
「日付変わったら、最初に、兵長に、おめでとうって……」
「ぐらんぐらん揺れながら言われてもな」
 現在時刻は夜十一時。
 あと一時間で日付が変わって、二十五日がやってくる。兵長の、誕生日が。
 せっかくこうして二人きりで部屋にいるのだ。誕生日を迎えたその瞬間に、おめでとうと告げたい。それは恋人として何ら間違っていない願望だと思う。
「なら仮眠したらどうだ」
 ソファに座ってぐらぐら頭をゆらす私を支えながら兵長は言う。
「起こしてくれますか?」
「寝かせておくだろうな」
「それじゃあ駄目じゃないですか!」
 今の私の調子では、間違いなく朝までぐっすり眠り込んでしまうに違いない。どうして今日に限ってこんなに眠いのか。普段ならまだ起きている時間帯だというのに、今の私は既に思考がふわふわしている。
「オイ、どこに行く気だ」
 不意に立ち上がった私を見て、兵長が怪訝な顔で問う。私の答えは至ってシンプルなものだった。
「ちょっと眠気覚ましにその辺りを走ってきます」
「よし、ベッドだな」
「違うのにー!」
 外へ出ようとする私をあっさり捕まえて、その上担ぎ上げた兵長は寝室へと事も無げに私を運ぶ。もぞもぞと無駄な抵抗をしても兵長は全く意に介さず、足で扉を押し開けるとそのまま私をベッドへ放り込んだ。
 人気のなかった室内は隣よりも少しだけ冷えていて、背中に感じるシーツも冷たい。ぼんやりしていた頭が少しだけすっきりして、いいぞこれなら眠気が吹き飛んでくれるかも──
「あぁぁ入ってきちゃ駄目ぇ……!」
 私に引き続き、兵長も当然のような顔をしてベッドに潜り込んできた。
「俺のベッドを俺が使って何が悪い」
 そうすれば私の身体はあっという間に兵長の体温に包まれて、先ほどまで冷たかったベッドもじわじわと暖まっていく。いけない、これじゃあどんどん居心地が良くなってしまって。布団の中が、最高に気持ちよくなってしまって。
 ふかふかと柔らかいベッドの中で、すぐ目の前には愛しい人。おまけに軽く引き寄せられて、背中やら後頭部やら撫でられてしまったら、もう。
「全力で寝かしつけようとするのはやめてください……!」
「わかったわかった」
 そう言いながら、兵長はゆっくりと一定のリズムで私の背中を優しく叩く。わかってない。何もわかってない。
 極上の心地よさに包まれて、普段ならば最高の入眠──となるころだけれど、必死に睡魔と戦っている私には大変つらい試練でもある。無理しなくていいから眠れと囁く兵長の声は優しい。
 日付が変わって一番に言いたい「おめでとう」も「大好き」も「愛してる」も、目が覚めてからで遅くないと宥めるように。
 それでも私はまだ諦め悪くぐずっていたのだけれど、その内に少しずつ意識が遠のいていった。

***

 気付くとそこは外だった。
「あれ?」
 私はさっきまで兵長の部屋の兵長のベッドで、兵長の腕に包まれながらやだやだ眠らないと駄々をこねていた筈なのに。
 今は睡魔もどこかへと吹き飛んでいる。はっきりとした頭で先程の自分の醜態を思い返すと、頭を抱えてのたうちまわりたい。
「眠いと甘えたになるなお前は」
 呆れたように笑う兵長の言葉に、そんな筈はないですと必死に反論していたのはいつだったか。実のところ、そんな筈はあった。
 眠いとどうにも自制心が吹き飛びがちで──というのは言い訳で、兵長に甘えたくて仕方のない本心が隙を見ては溢れ出すのだ。
 因みに兵長は正気を取り戻した私が、羞恥でのたうち回れば回るほど喜ぶ。その姿が見たくて、寝ぼけた私をつい際限なく甘やかすのだと言われて絶句した。
 閑話休題。
 寝間着姿だった筈の私はいつの間にか兵団服を身につけていて、マントまで羽織っている。ベッドに放り込まれる前に「外へ走りに行く」と言い張っていたから、無意識に飛び出してしまったのだろうか。夢遊病の可能性に思い至って、頭の隅が鈍く痛んだ。兵長も流石に呆れて、黙って見送ったのかもしれない。
 外に──それが無意識とはいえ──出て動き回ったからか、眠気も無くなっていたし寒くもない。年末を前にしてこのところ冷え込みがどんどん厳しくなっていたし、本来ならマントを身につけていても風が痛い程だというのに、今はそれもなかった。
 そろそろ戻ろうかな、と思う。
 あいにく時計が見あたらない。今が何時だかわからないけれど、外をうろつきまわっている間に兵長の誕生日になっていました──なんて笑い話にもならない。
 さてと辺りを見回して、私は絶望的な気分になった。
「ここどこ……」
 寝ぼけて走り回るものではない。
 次からはもっとちゃんと兵長の言うことを聞こう──無駄かもしれない決意を、胸に刻み込んだ。



 道に迷った時はむやみに歩き回ってはいけない。
 ──人通りの多い目立つ場所で、わかりやすいように立っていろ。迎えに行く。
 出かける時に兵長によく言われる言葉だ。
 いい年してそう簡単に迷子になりませんよと口を尖らせはするものの、実際兵長とはぐれたことがないとは言えないので結局は素直に頷いた。
 しかし今回はそれとは少しばかり事情が違う。
 私一人が外に出たのなら、兵長は今頃部屋にいる筈だ。待っていても見つけてもらえないだろうし、自力で帰らなくてはいけない。
 とりあえず、明かりのある方へ行こう。
 今更のように気付いたけれど、私がぼんやりと佇んでいたのは灯りもろくにない裏路地のような場所だった。狭くて暗い。両側に迫る建物の壁に威圧感を感じながら、足下にいくつも転がる石に気をつけて歩き出した。
「────っ」
 路地から顔を出そうとした瞬間、何かとぶつかりそうになる。慌てて身を翻すと、その何かはどうやら人のようだった。それも、小さな子供。
 慌てて駆け込んできたからきっと足下にも気付かない。危ないよ──と声をかけようとしたが既に遅く、派手な音を立てて子供は転んだ。泣き声は聞こえず、小さく呻き声だけがその場に響く。
 慌てて助け起こそうとして、後ろから騒がしい声が聞こえた。
「畜生! どこだクソガキ!」
 自分が怒鳴られているわけでもないのに、思わずびくりと肩を震わせてしまった。慌てて路地から外の様子を伺うと、前掛けをつけた恰幅の良い男が怒声を響かせている。見たところどこかの露店の主のようだ。返せ、とか泥棒鼠が、とか叫んでいるところを見ると、追いかけているのは──まず、後ろのあの子で良いのだろう。
 見つかればどんな目に遭うかは想像に難くなく、私は自然と路地を塞ぐような形でその場に立った。
「クソガキが……どこ行きやがった」
 私の目の前で忌々しそうに吐き捨てる男性は、左右を見渡しているが路地には目がいかないようだった。
「あっちに走っていったような気がしますよ」
 男性の来た方向を指さして伝えるが、私の言葉など耳に入らないのか、返答はない。
 いらいらと近くの壁を蹴りつけて、それでも彼は私の指し示した方角へと去っていった。
 ひとまずの危険が去って、ほっと溜息を吐く。別に、私があの男性に何かしたわけでも、追われていたわけでもないのだけれど。
「ね、大丈夫?」
 振り向いた場所にまださっきの子供がうずくまっているのを目にして、思わず声をかけ──言葉に詰まる。
「……」
 無言のまま地面を睨みつけて、打ち付けたであろう腕や膝を押さえている姿。その表情に、見覚えがあったから。

「リヴァイさん」

 暗い瞳と痩せた身体。今の兵長よりもずっとずっと小さいその姿が、かつての恋人の姿であると私は理解していた。
 それと同時に、ここがかつての地下街であるということにも気付く。ちょっとした事情があって、私は過去の兵長──リヴァイさんにも、過去の地下街にも見覚えがあるのだ。
「大丈夫なんですか? 怪我は──」
 ここが「いつの地下街」なのか、正確な時間軸はわからない。それでも今のリヴァイさんがどうしようもなく弱っていることだけはわかって、思わず手を伸ばした。
「擦りむいちゃってますから、まずは洗って──っ!?」
 思わず目を見開いた。
 驚くのも無理はない。
 私の手は、リヴァイさんの身体を素通りした。
「…………」
 すかすかとリヴァイさんの身体を通り抜ける私の手。傷の手当てどころか、まず触れることすら叶わない。
「リヴァイさん?」
 薄々わかっていたけれど、私の声も聞こえないようで、リヴァイさんはぼんやりと地面を見つめたままだ。ぴくり、と肩が動いてこちらを向いたので期待したけれど、視線は私の背後の通りに向けられていた。
 やはり、私という人間を知覚できてはいないらしい。
 この状況について考える。
 まさか私は死んでしまったなんてことは──ないと思いたい。
 幽霊になってまで、会いに来るのがリヴァイさんのところというのは私らしいなと納得できるのだけれど、できたら死んでも側にいるより生きて側に居たい。私からしか見えないというのは、想像以上に淋しいものだった。
 せめて、傷口くらい拭ってあげられると良いのだけれど。
 そっとその場を離れた私は、記憶を頼りに清潔な水が使える場所を探す。程なくして目的のものを発見した私がポンプに手を伸ばすと、幸いなことに無機質な道具は私を受け入れてくれるらしかった。触れることの出来るポンプを使って布を水で濡らした。
 路地裏までの帰り道、露店に置かれたものに目を留める。幾ばくかの紙幣がジャケットの胸ポケットに入っていた。
「すみません」
 店主に声をかけてみたが、案の定こちらの声は聞こえないようだ。
 それでも気配のようなものだけは感じ取ることができるのか、こちらを向いて誰もいない──店主の視点にとっては──空間に首をかしげ、また道行く人々相手の呼び込みを始めている。
「お金、ここに置きますね」
 聞こえないのを承知で、いくつかの品を選んだ私は紙幣を置いた。一応お金は置いていくし、泥棒にはならないと思いたい。

 再び路地裏に戻った私は、相変わらずそこにリヴァイさんがうずくまっていることに少しの安堵を覚えるのと同時に心配にもなった。
 まさか、こんな寒くて暗い場所で夜を明かすつもりなのだろうか。
 私の予想は当たっていたようで、リヴァイさんは少しでも体温の低下と空腹を避けようとするように微動だにしない。
 時折聞こえてくる、小さなお腹の音に心が痛んだ。
「傷口きれいにしますからね、ちょっと我慢ですよ」
 聞こえないのを承知で声をかける。清潔な布でそっと膝を拭うと、痛みが走ったのかリヴァイさんが顔をゆがませた。
「……っ」
「痛いですよね、ごめんなさいすぐ終わりにしますから」
 こびりついた泥と、滲んだ血を落としていく。
 触れている人間は見えなくとも、綺麗になつていく己の膝は見えるのだろう。リヴァイさんは呆然とした表情を浮かべながら、それでも動かずに自分の身体に起きている怪現象を観察していた。
「次は肘と……あ、ほっぺも」
 一通り傷口は綺麗になった。幸いなことにどれも軽症だったから、しばらくそっとしたおけば綺麗に治ってくれるだろう。
 頬についた泥を落とし終わると、その頃にはリヴァイさんも不思議な現象に慣れたのか、自ら手を身体の前に出した。
「はい、お手々もですね」
 その様子がどうにも微笑ましく、私は頬が緩むのを感じながら泥で汚れたリヴァイさんの手を拭った。綺麗になった手を見つめて、満足そうに息をつくリヴァイさんを見て、更に笑みを深める。
 汚れが落ちたことで空腹を思い出したのか、リヴァイさんはしきりにお腹をさすっている。暖めて空腹を紛らわそうとでもいうのだろうか。この寒空の下、それは得策ではないように感じた。
 ぽん。
「!」
 リヴァイさんには、突然空中から林檎が沸いて出たように見えたかもしれない。
 実際は私がリヴァイさんの手に林檎を持たせただけなのだけれど。
 急に現れた林檎も、空腹を抱えたリヴァイさんには怪しむべきものではなかったのだろう。目を輝かせて林檎にかぶりつく姿に安心した。
 しゃりしゃりと音を立てながら、林檎を咀嚼していく。本当はもう少し温かいものか何かを用意してあげたかった。地上の、それこそ中心街にでも行けば温かいものを売るデリカッセンでも見つけられたかもしれないが、そんなものを探している間にリヴァイさんが凍えてしまっては一大事だ。
 林檎をふたつ程平らげたリヴァイさんは、とりあえず人心地ついたらしい。林檎と同じように私が手渡した瓶から、水をこくりこくりと飲んでいる。
 とりあえずの空腹の危機から逃れ、リヴァイさんはおもむろに立ち上がると路地の奥へと進んでいく。
 当然、私は後をつけた。

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