「不知火」
「……んだよ原田」
「先生、だろ?ったく、お前も相変わらずだな」
「文句聞く気はねえぜ。何か用、有んだろ?」
原田左之助。保健体育の教科を担当している、教員含む学園の女共から絶対的な人気と支持を集める専ら格好良いと評判のエロ教師だ。俺の兄貴と同学年で、にも関わらず兄貴よりも俺の方が昔から何かと腐れ縁だったりする妙な奴。今でこそ教師なんかやってるが、過去の荒れようとか諸々知ってる俺にとっちゃ敬えるはずもない相手であり、『先生』なんて敬称付けて呼ぶことなんざ到底有り得ない話だった。
原田の用とやらは予想通り体育祭のことで、腹に負担掛けさせてどうする、とか、最悪貴崎を落っことしたときの可能性やらを軽く説教されたが、しかし本人はそんな小さい点にはそれほど思うところもないようで、ただ『教師』という立場であるから叱っている、程度のノリだった。俺とコイツの間に有る『妙な信頼感』ってヤツが『そんなヘマするような奴じゃないっていうのは最初からわかっているのに、叱るってのもなあ』的な空気を醸し出している。互いに口には出さねーが。
故に阿呆らしい上下ごっこはすぐ終幕を迎え、会話は同じ話題の中、段々と緩い雑談のようなものに変わっていった。
「それにしてもお前、人ひとり担いだ方が引っ張るより速いって、どんだけ馬力……」
「っせーな。学級の勝ちに貢献してやったんだから文句ねえだろ」
「そうか?何か裏で手、回してたらしいじゃねえか。参加させてやりたかったんだろ?」
「知らねーな」
ぞんざいに返しながらあのコースを回想する。
一位だった奴が鈍足で越せるかもしれない状況の中、貴崎と手を握ったまま速度を上げるというのは貴崎の体力的にも無理があった。とは言え担ぐのだって充分不利であるはずなのだが、と、そこまで考えてまた、あの嫌な感覚が蘇ってきた。
走ってるときはそれなりに必死だったから、驚きこそしたものこあまり気にすることも無かったのだ。しかし、数日置いて冷静になってから考えると……恐ろしくなる。
「――軽かった」
軽すぎた。女一人分にしては。
俺が貴崎担いで走った方が速かったのは馬鹿力でも何でもねえ。単純に貴崎が小柄だったってのと、尋常じゃねえくらい軽かったってだけの話だ。それだけの話だが、そこにこそ問題は存在する。
虚弱体質ってのは皆ああなのか、などと聞かれてもきっと答えはノーだろう。あんなんじゃ、回復するもんも出来ねえだろうに。
脆い。下手をすれば、折れる。
壊れてしまう。
人間一人が、簡単に。
そんな恐怖に、不意打ちで直面した。
「……」
しかし、折角あれだけ喜ばせておいて今更それを指摘する、というのも、俺の心情的にはどうしたって憚られる行動だった。言えるはずがない。貴崎の体調なんぞに口を出せるほど、近くに居たわけでもない。近くなった覚えも無い。
体育祭のアレは飽くまで俺の自己満足であり、貴崎はそれに巻き込まれた。たったそれだけの関係で。
潰れるような真似すんな、なんて。
言えるかよ。
「そう、か……まあ、軽いよな羽織は。松江さんの話じゃ、普段からあんま食ってねえみたいだし」
「ああ。前も、……」
「前?」
「……いや、」
一緒に飯食ったことが有る。それも貴崎宅で、貴崎の家族と一緒に。
あまり知られたいことではなかった。特に原田には。
何でもない、と半ば強引に原田と別れて帰路に着く。今日は貴崎と会いたいような気分でもなかったし、このまま帰宅する前にどっか寄ってくか、と寄り道の算段を立てながら歩き出した。
しかし、寄り道について考える頭はまた次第に貴崎のことを考える頭へと戻っていく。心配、と言えば聞こえは良いがこれはきっとそんなもんではない。にも関わらず気付けば、奴の食生活の改善法だとか、人付き合いの下手さの改善法だとかを編み出そうとしていた。
「……俺ばっか構うのも良くねえな」
そうだ、貴崎にはロクに知り合いが居ない。
だから、心配する人間も、口出しする人間も、少ない。
せめて同性の友人が一人二人居れば今の状況はかなり改善されるはずであり、俺の方が悶々とする必要も無くなるのだ。……後者が実現するのかはともかく。
思わず溜め息が出た。
次の行動
決して心配などではない。
正体不明の何かを――あの日の裏庭でも感じ取った何かを、理由もなく、ただ、恐れているだけだ。
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