迷信


「いってくる。大丈夫、風邪なんてひかないさ」

ひらりと手を振って、心配そうに差し出された傘を避けた。バタンと閉まった扉の音がやけに頭に響く。一時間ほど前まで柔らかな雨だったのが、今はざあざあと本降りになっている。一歩踏み出すと、ぐらぐらと視界が歪んだ。

予兆はあった。気のせいだと無視した自分に落ち度がある。弟に任せるという手段もあったが、それは兄としてのプライドが邪魔をした。この程度なら平気だろう。自分にそう言い聞かせれば、きっとなんとかなる。

いつまでも玄関先にいてはまた心配されてしまう。すぅ、と深呼吸して、降りしきる雨の中駆け出した。大量の水の塊に撃たれているのに、なぜか体は火照っている。走る度に内蔵がシャッフルされている気分になりながらも、足は休まず動いていた。








「死んでるかと思った」

うぅ、と掠れた呻き声が足元から聞こえる。うつ伏せに倒れていた体が億劫そうに上を向く。いつも本人の性格を表すようなきらきらとした瞳は虚ろで、開いているのか閉じているのかもわからない。ずぶ濡れな赤い顔がゆっくりとした動作でこっちを見た。

「兄さん、帰ろう。そんな体じゃクッパにたどり着く前に死んじゃう」

ひゅうひゅうと浅い呼吸を繰り返していた口が明確な意志を持ってやだ、と二文字を捻り出す。そんな様子の兄に心底呆れながらそっとしゃがみこむ。

「バカは風邪ひかないって言葉、嘘だったんだね。だって今の兄さん、子供みたいだもの」

心外だ、とでも言いたげに眉を顰めた。本当に馬鹿だ、この兄は。こちらがどれだけ心配して、家事もろくに手につかずに、ここまで無我夢中でやってきたのか、知らないからそんな態度が取れる。

「ね、帰ろう。あとはボクに全部任せて」

慌てたのかけほ、と乾いた咳が出た。これで赤い液体でも出たらどうしようかと思ったが、そこは普通の風邪だったので安堵する。腕を持ち上げるのも辛いだろうに、震えた指先が雨に打たれて少し色が濃くなった緑の服を掴んだ。

「でも、ボクは、ヒーロー、だもの」

雨に打たれてすこし潤んだ青が必死に訴えてくる。やっぱり何もわかっていやしない。自然とため息がこぼれた。

「あのね兄さん、ボクだってヒーローだよ。まだスーパースターではないかもしれないけど、兄さんの弟なんだよ。ボクは兄さんの体が心配なんだ」

それとも弟が信用できない?
にこりと笑ってそう言ってやれば、諦めたようにぱたりと大の字に寝転んだ。

「その、言い方は、卑怯……」

恨めしげに目を閉じた彼にもう一度、帰ろうと手を握る。兄は仕方無さそうにしぶしぶこくりと頷いた。
ああ、なんで昨日のうちに気づかなかったかなあ。兄も馬鹿だが、自分も大概鈍感で馬鹿なのかもしれない。力が抜けた人間の体重を背に乗せながら、しみじみそう思った。

20160306

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