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本編

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世界が五分前にそっくりそのままの形で、すべての非実在の過去を住民が「覚えていた」状態で突然出現した、という仮説に論理的不可能性はまったくない。
→異なる時間に生じた出来事間には、いかなる論理的必然的な結びつきもない。
→それゆえ、いま起こりつつあることや未来に起こるであろうことが、世界は五分前に始まったという仮説を反駁することはまったくできない。
→したがって、過去の知識と呼ばれている出来事は過去とは論理的に独立である。


― ラッセル "The Analysis of Mind"

四月一日椿という人物はこのラッセルという男の言うことが理解出来るほど出来のいい脳みそを持っているわけではない。ましてや、理解する気もない。

しかし四月一日は今目の前で起こっている出来事が嘘であればよいのにとこの数分で120回は繰り返した。

「おいこら上司月夜君よぉ、なんで俺様の愛しの林檎先輩のお体に傷がついてんだこのやろう。
ぶっ殺すぞてめぇ。」

「いやいやいやいや、落ち着きなよエイプリルフール。」

月夜は四月一日のことを愛(笑)をこめてエイプリルフールと呼ぶ。
四月一日本人は初めのうちはその愛称を止めさせようと躍起になっていたが、今となっては特に気にも留めていない。
と、いうよりは気にしていたことを忘れているのだ。
とんだ鳥頭だ。

ところでエイプリルフールこと四月一日は愛する濃霧が監禁尋問を隣国の悪魔初茜に受けていたと報告を受けて別の区域で行っていた戦闘を強制終了させて馳せ参じた次第である。

「四月一日、僕はなんともありません。
怪我なら大方治っていますし」

もちろん濃霧の顔にも体にもキズ一つない。
しかし四月一日にはどうしても許せない事がある。
まさにかの邪知暴虐の王ともいえる初茜に毒されたことだ。
毒されたとは過大評価だが、手が触れたのだから初茜菌に感染しているに他は無いだろうとまるで小学生のような屁理屈を捏ねるのだ。

「許せません。あの青ちびぜってぇ殺します。」

「その心意気は悪くないよエイプリル。
でも今のお前じゃ赤子の手を捻るが如く殺られるのが話のオチさ」

そう月夜がケタケタと笑い声をあげる様を四月一日が忌々しげににらみあげる。
月夜の言うことに間違いはなく、まさにこれこそ場数の違いである。
80年以上を戦い続けてきたサイコパスとつい最近名を馳せ始めた若い兵士が渡り合えるわけがないのだ。

「くそがてめぇもろともいつか仕留めて沈めてやんよ」

「できるもんならやってみればいいさエイプリルフール」





「残念なことをした‥‥」

一方天津神。
初茜は少しもそう思っていなさそうな顔をしながらそんなことを呟いた。

「あの臈たけた美しさ‥‥まさに小生の隣に立つに相応しいというのに‥‥」

彼の思考の中枢は先程取り逃がした捕虜のことにある。
その執着とは恋愛などに相応する思考ではなく、初茜自身の美しさを更に際立たせる香辛料(スパイス)としてのみの価値を見いだした思考である。

「なんて残念なんだろう。」

初茜という男はそれはそれは自身の可憐な容姿をよく分かっている。
巷では天使などと詠われるほどに美しい容姿をしているのだ。
初茜はその自身の美しさを最大限に利用している。

「閣下、」

唯一初茜の本性を見抜いている腹心の部下が初茜に声をかける。
初茜は声の方を見ることなく徐に壁にかけかけてある日本刀に手を伸ばし鞘を抜くと部下に刀身を投げつけた。
その間正に1.5秒。

間一髪で日本刀の刀身をよけた腹心の部下は長めの前髪の奥から疑問符と恐怖と安堵とが入り交じった複雑な瞳を除かせた。

まるでこれでは濃霧が悲劇のヒロインの様ではないかと敵でありながら同情した。

「なんだ?腹心(笑)吉野」

この哀れな腹心。
人生生まれてこの方外れ籤を引き続けてきた哀れな男。
吉野 絹(よしの しるく)という。
これには繻子(さてん)という妹がいる。
この妹もまた天津神の諜報部員として世界中を飛び回っている。
さて絹だが、これはまったくもって残念な男である。
常々、初茜のストレス発散や暇つぶしとしてサンドバッグにされている。
巷では天使と名高い初茜の評判を落とさないように誰にも相談できずにいるわけだ。

不運を擬人化したようなおとこであるが、どうしてたが、戦場で野垂れ死ぬこともなく、今まで副官としてよく働いている。
恐らくこれが彼の天職なのであろう。
誠に残念だ。

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