これで、さようなら。

パンッと頬を叩かれた衝撃で目が覚めた。何度も何度も、衝撃が頬を襲う。痛い。また彼は機嫌が悪いのか。そう思ったが、すぐにそれは違うと気がついた。
そうだ、私は街に出ていて、知らない男にお腹を殴られて気絶してしまったはず。
ハッと目を開けると、ようやくその手は止まった。目の前には私を殴って気絶させた男の顔がある。周りを見渡すと、どうやら複雑に入り組んだ路地裏らしい。
端の方に人1人がうずくまれるほどの布と、食べ物のカスが散らばっている。そのわずかな生活感に、この男はホームレスなのだろうと感じた。
男は汗をかき、だが顔色はすこぶる悪い。肩で息をする男は、馬乗りになって私の動きを封じていた。

「なに……?」

「ハハッ、ハハハハハッ!ようやくお目覚めか?
さぁ、どっちかな?女か?それとも、プリックスのお出ましか?」

「プリックス……?」

初めて聞くその言葉に、私は眉を寄せた。
その反応に、「チッ」と舌打ちをした男は、苛立たしげに顔を歪める。

「まだ女のままか。
まぁいい、じっくり炙り出してやる。」

理解する間も無く、再び男の手が振り上げられる。
殴られる。そう思い目を閉じたその瞬間、想像以上の衝撃に、私の体は吹っ飛んだ。

「!?、カハッ」

全身を壁に打ち付けられ、あまりの衝撃に一瞬息が止まった。何が起こっているのか、理解する間もない。
ずるりと壁伝いに座り込んだ私に、男はゆらゆらと近づいてくる。
どうして、どうしてこんなことに。ずきんずきんと痛む体に鞭を打ち顔を持ち上げると、男の手は先ほどと違い、人間離れしたバケモノのようなそれだった。

「な、にそれ……」

何者なんだ。こいつは。
逃げようにも体が動かない。頭から血が出ているようで、目の前が赤く染まる。
それでも、さっきの一撃で体はボロボロだ。血を拭こうと腕をあげることもできない。

「早くプリックスを出せ……
オ前ノ命ハナイゾ……」

「……っ」

目の前の男の顔が、不自然に歪み、人間のそれからバケモノへと変化していく。初めてみるその姿は、私の頭を真っ白にするには十分だった。
バケモノの手が私の首を掴む。体が震えた。苦しい。怖い。私はここで殺されるのだろうか。
言いつけを守り、ベンチで待っていたのに。ちゃんと、逃げなかったのに。これじゃあヴィンセントに逃げたって、勘違いされちゃうよ……
また、あの時のように、私は誰にも、迎えに来てもらえないのだろうか。

「プリックス……プリックスゥ……」

「……ぅっ、く、ぁ」

気がつけば私の足は地面を離れていた。首だけを掴まれ、宙に浮いている。
死ぬ。ここで、死ぬのか。頬に涙が伝った。
その時、

『お前ほどの低級に、私が使いこなせるわけがないだろう』

「……!」

「アァ、プリックス……!
コレデ世界ハ俺ノ……!」

また体の中が熱くなる。それと同時に聞こえた声は、いったいどこから発せられたのかわからなかった。
ハッと気がつくと、私を囲むように無数の大きな針がバケモノに向けて、構えられていた。

「っ、たす、けて……!」

その針を見て甘美の表情を浮かべていたバケモノに、体の赴くまま、力を込めて、針に祈る。
その言葉に応えるように、針はバケモノに向かい、放たれた。

「ゥ、グゥッ、ウアアアアッ!!」

何本もの針がバケモノを刺し貫いた。びちゃびちゃと音を立てて血が飛び散る。そんな光景におぞましさを感じる余裕すらもない。
首を締め付けていた手が緩み、私の体は地面へと落とされた。倒れ込んだその状態のまま、もう動くことはできない。
あの力を使ったあとは、以前と同じように体がどっと疲れる。それに伴い体全体の鈍痛が酷い。血も出ている。ぐったりと薄れていく意識に抗う術はなかった。
もう、痛みも感じない。せっかくバケモノを倒したのに、私は死んでしまうのか……

「!、女の子が倒れてる!」

「遅かったか……っ
おい!しっかりしろ!おい!!」

意識が途絶えるその瞬間、誰かの声が聞こえた気がした。




「シオリ……?」

チョコレートを片手に広場へと戻れば、ベンチにシオリはいなかった。好奇心旺盛な彼女のことだ。ふらふらしているのではないかと辺りを見渡すがその影はない。
まさか……。
ふっと怒りが湧いた。逃げた、のだろうか。あんなに言い聞かせたというのに、僕の言いつけに背いて。
あぁ、僕が馬鹿だったんだ。気まぐれにしても、甘やかすんじゃなかった。

「いい覚悟だ……」

僕のおもちゃの分際で、うまく逃げられると思うな。連れ戻したら、もう一生、自由になんかさせるものか。

「……」

ベンチに触れればまだほんの僅かだが暖かさを感じた。
僕がここから目を離したのは、ほんの10分程度だ。
そう遠くへ行けるわけではない。
ましてや相手はここに来て間もない。土地勘なんて皆無だ。見た目においても目立つシオリを、見つけられないとは思わなかった。



「……っ、?
なんだ……?」

シオリを探し始め、数分がたったその時。突然、奇妙な感覚が襲った。
僕の中のチェインが落ち着かない、とでも言うのだろうか。心臓が、ドクドクと音を立てる。立ち止まり、ぐるりと周りを見渡した。

「……」

ある1点、建物が連なる方向へと目を向けると、その感覚は大きくなる。
それはどこか、シオリのあの不思議な力に触れた時のものと似ている。
こっちだ、と言われている気がした。それと同時に、嫌な予感もした。
あの力は、シオリが危険な目にあった時に発せられると仮説を立てていた。それを今発したのだとしたら、彼女の身になにかあったということだ。

「逃げておいて死にかけるなんて、本当、馬鹿な子だ……」

今ままでの様子から、あの力を使った後は、疲れでしばらくは動けないはずだ。そう、シオリはすぐそこにいる。
これからも、僕のおもちゃとして、駒として、存分に使ってあげるから。
自然と足の動きが早まる。入り組んだ路地裏を、感覚だけを頼りに右に左にと曲がる。
ここだ、と力を感じた箇所へと続く角を曲がり、そして、見えた光景に絶句した。

「……」

めちゃくちゃに荒れたそこは、何かがあったことを知らしめている。
片方の壁は抉れ、もう片方の壁は何かが刺さったような穴があいていた。そして広がる血。たくさんの血。
この量を1人の人間が流したのだとすれば、まず助からないだろうと思った。だが、肝心の人間は、そこにはいない。
この感じ、恐らくこの惨事の仕業は、

「違法契約者……」

巻き込まれたのだろうか、この現場に。だとすれば、もう連中が来て被害者は移動している可能性が高い。
だが、こんなところに人がいくらもいるだろうか。
ボロボロになってはいるが、ホームレスが暮らしていたような跡が見える。
もし、もしシオリが僕から逃げるために入り組んだ路地裏に入っていったとすれば……。ここで暮らしていた輩が違法契約を交わしたものだとすれば……。
格好の餌食となったのはシオリ1人で、そして、この血が、シオリのものだとすれば……

「……馬鹿な子だ。」

間違いなく、シオリが力を発した場所はここだと、体が感じている。だが、あの不安定な力がどこまでのものなのか知りはしない。力を発するのを失敗した。自分の身を守りきれなかったと、考えた方がよさそうだと思った。
自由を求め、逃げ出した結果がこれだ。愚かだ、と思った。
だから言ったんだ。居場所のない、身元もわからない、たった1人で運命から抗おうとする女に救いの手を差しのべるほど、この世界は優しくはないと。

「……」

買ったチョコレートの袋を、広がる血の真ん中に置いた。
これで、さよならだ。この言いようのない感情はいったいなんなのか。とうの昔に置いてきたはずだった。なのに。
ぐっと心臓の辺りがおかしくなる。大きく息を吸って、吐いて。それでも無くならない違和感に、僅かに苛立ちを感じた。
人1人。しかも赤の他人。ただの駒に過ぎない相手に、こんなにも情をかけていたのか、自分は。
それが酷く情けなく思った。否、でも。
小さく頭を振り、否定する。僕にこんな感情はない。きっと、何かの間違いだ。そう決めつけ、僕は黙って元来た道を戻った。












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