私とケンカ

「私は大丈夫だから!姫子はゆっくり休んでて!」

そう言って、詩織は家から出てきた稲葉を押し返した。玄関で立ち尽くし、数回咳き込む。まだ微熱があるにも関わらず家を出た稲葉は、その熱を隠し通す自信があった。だが実際はどうだ。家を出て顔を合わせるや否や、詩織は稲葉の体調不良に気がついた。否、もしかしたら気づいてほしかったのかもしれない。気づいて、それでも一緒に学校に来てほしいと、せめて寂しそうに、そしていつか「早く帰ってきてね」と送り出してくれたときのように、自分の復帰を願う言葉をかけてほしかったのかもしれない。
だが詩織は無理をして家を出てきた稲葉を叱り、一人でも大丈夫だと言い切った。一人きりで学校に向かった詩織の表情に寂しさなんてものはなかった。
もちろんそれは、自分を心配させないためだということを、稲葉はわかっている。わかっているからこそ、より一層詩織が離れていってしまうように感じた。
どれくらい立ち尽くしていたのだろう。時計を見ると、まだ学校には十分間に合う時間だった。
そっとドアを開けると、もちろんそこには誰もいない。喉の違和感を飲み込み、稲葉は一人家を出た。

一方その頃、詩織は走っていた。昨日一人で登校したといってもたった一度きりの経験で平気になることはない。
見知らぬ生徒と目が合わないように、間違えても話しかけられないように、ひたすら走る。
そろそろと音をたてないように教室のドアを開け、静かに席に座る。だが、その努力虚しく「おはよう!」とかけられた声に、詩織はびくりと肩を震わせた。恐る恐る振り返る。そこで片手をあげて笑顔を浮かべていたのは伊織だった。それがわかった途端、1#は長く息を吐き出した。ようやく心臓の音がおさまってきたようだった。

「今日も稲葉んお休み?」

「うん。まだ熱あるのに学校行こうとするから家に押し込んできた。」

「あはは、さすがだね稲葉ん。」

今日は昨日みたいなことにならないといいね。と言われ、詩織は心の底から頷いた。
今日も帰りに稲葉の家に寄っていくつもりだ。その時にまた泣いてしまわないようにしなければ。
しかし、稲葉が教室にいないという事実はやっぱり寂しくて、そばにいたいと思ってしまう。詩織は落ち込みそうな自分に渇を入れ、今日1日を無事乗りきろうと意気込んだ。
その時だった。がらりと教室のドアが開いた。普段は気にしないのだが、ふと視界をちらついたよく見知った容姿に詩織は目を見開く。

「姫子……?」

その呟きが聞こえたのだろうか。稲葉はチラと詩織に目を向けた。だがそれはほんの一瞬で、まるでなにもなかったかのように自分の席につく。
どうして来たのだろう。熱があるのに。しばらく呆然と稲葉を見つめていた詩織だったが、ハッとして席を立った。

「姫子っ何で来たの?」

「来たかったから来たんだ。」

「まだ熱あるのに……」

稲葉を帰さなければならない。詩織はそう思って必死に稲葉に食い下がった。だが稲葉は詩織と目も合わせようとしない。呼び掛けても、手をつかんでも、裾を引っ張っても、稲葉は自分の席から動こうとせず、ずっとそっぽを向いたままだった。

「私なら大丈夫だよ!」

「お前のためじゃない。授業に遅れないためだ。」

「熱あるのに来ても集中できないでしょ!」

詩織の必死の訴えに、周囲のクラスメートもざわつき始める。稲葉は「大丈夫?」「帰った方がいいんじゃない?」と優しくかけられる声には一つ一つ返事をして、力ないが笑顔を見せた。ようやく稲葉が自分にだけ冷たいと言うことに気がついた詩織は、くしゃりと顔を歪める。普段とは違う二人の雰囲気を感じ取った伊織はそっと二人に近寄った。

「だって姫子熱あるのに……」

「大丈夫だって言ってるだろ。」

「っ、他の人にうつしちゃったら迷惑かけちゃう……」

「迷惑なら、」

稲葉が漸く詩織を見た。だが、その目はいつもとは違い、苛立ちを含んでいる。詩織はびくりと肩を震わせた。

「迷惑なら、お前の方がさんざんかけてるだろ。」

「!、ちょっと稲葉ん……っ」

稲葉からの冷たい言葉に、詩織は大きく目を見開いた。伊織も驚いて、あまりに辛辣な言葉を吐き出す稲葉に詰め寄る。だが、稲葉のその表情を見て、思わず口をつぐんだ。詩織の目にみるみる涙が溜まっていく。それに気づいても、稲葉は以前のように謝りはしない。ひくりと詩織がしゃくりあげ、その震動で涙がポタリと落ちた。
その時、調度登校してきた太一は、意外な光景に足を止めた。詩織が泣いている。にもかかわらず稲葉はなにもしていない。ということは、稲葉が詩織を泣かせてしまったのだろうか。一体どうして。

「っ、姫子なんか……姫子なんか風邪こじらせて死んじゃえ!!」

「あ、詩織っ!」

混乱する太一をよそに、事は進んでいく。伊織の呼び掛けを無視して、扉の前にいた太一にぶつかりながらさっていく詩織。これは、追いかけるべきなのだろうか。迷う太一に気づいた伊織は太一の名前を呼んだ。目を向けると、無言で頷かれる。行け、ということなのだろう。太一は鞄を放り出し、詩織を追った。

「稲葉ん。」

それを見届けた伊織は、悲痛な表情を浮かべる稲葉の腕をつかんだ。「立って。」ただたんたんとそう言って、腕を引っ張る。しんとする教室で十分聞こえているはずなのに、稲葉は動こうとしない。「立って。」もう一度、今度は少し口調を強めて腕を引く。

「保健室行こう。
熱、あるんでしょ。」

言われ、稲葉はゆっくりと立ち上がった。そのまま稲葉を支えるようにして、伊織は教室を出た。
歩いているうちにチャイムが鳴り、授業が始まる。静かになった廊下で、伊織はポツリと呟くように口を開いた。

「保健室行くなんて、思ってないよね。」

「……」

「何であんなこと言ったの?」

「……」

伊織の問いに、稲葉は俯いたまま答えない。着いたのは部室だった。ソファーに稲葉を座らせ、伊織はその前に立つ。稲葉がチラと伊織を見上げた。伊織の表情は、怒っているようにも、怒っていないようにも見えた。

「稲葉んのことだから、何か理由があってんなこと言ったんでしょ?」

「……あれがアタシの本心だ。」

「そんなへったくそな嘘であたしを騙せると思ってんの?」

伊織は感情のわかりづらい表情と声色で、稲葉を問い詰める。だが稲葉は頑なに口を開こうとはしなかった。
らちが明かないと判断した伊織は、ため息をついてパイプ椅子に腰かけた。それきり、伊織は稲葉になにも尋ねようとはしなかった。
授業終了のチャイムが鳴り、伊織は腰をあげた。顔色の悪い稲葉を見ても、伊織は労りの言葉をかけようとは思わなかった。言いたくなかったのも、あるのかもしれない。だが、そんな言葉をかけられたら、稲葉が嫌がるのではないかと思った。

「じゃあ、あたしは次の授業出るから。
稲葉んは早退する?」

「……いや、これの次は出る。」

「はいはーい。じゃあね。
あ、あと……」

詩織は絶対、稲葉んと離れることを望んだりしないよ。
そう言い残し、伊織は部室を出ていった。核心をついたその言葉に、稲葉は顔を歪めた。どうして、こんな方法しか思い付かなかったのだろう。どうして、あんな言い方になってしまったのだろう。どうして、こんなことになってしまったのだろう。どうして、どうして。

『姫子なんか風邪こじらせて死んじゃえ!!』

詩織が溢していた大粒の涙は、自分が流させたものだ。詩織から「死ね」と言われる日が来るなんて、いつ考えたことがあっただろう。
今頃詩織は、太一に慰めてもらっているのだろうか。もう、昨日までのような関係に戻れないのだろうか。
ソファーに仰向けに寝転がり、天井を見上げる。風邪じゃない喉の痛みに、稲葉はひゅっと息を吸い込んだ。何度かわざと咳き込んでみる。だが、その喉の違和感は、どれだけ咳き込んでも、なくなってはくれなかった。




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