私と姫子の不在

「悪い、詩織。
今日は学校欠席するから一人で登校してくれ。」

そうメールが来て、詩織は見るからに落ち込んだ。兄や姉に励まされ、母に背中を押され、やっと家を出る。一人きりの登校は、高校に入ってからは初めてだった。
とぼとぼと通学路を歩く。いつもよりずっと遠く感じる学校に、詩織は何度もため息をついた。学校が近づくにつれ
増えてくる学生たちに、詩織の足も重くなっていく。いつもは稲葉が居てくれるから平気なのだが、今は違う。知らない人だらけのこの空間に一人きり。じんわりと、目に涙が浮かんだ。

「姫子ぉ……っ」

ぐしぐしと涙を拭い、幼馴染みの名前を呟く。だが当然、稲葉が現れるなんてことはなく。
教室に着く頃には、詩織は伊織や太一が引いてしまうほど不のオーラを漂わせていた。机に突っ伏してため息をつき続けている。

「え、と……天草はどうしたんだ?」

「多分、稲葉んがいないからじゃないかな……」

今日お休みみたいだよ。と伊織は稲葉の席を見る。鞄も何も置かれず、ぽっかりと空いているその席は、稲葉の不在を表していた。稲葉のことだから、体を引きずってでも学校に来そうだが、そんなに具合が悪いのだろうか。と伊織と太一が顔を見合わせる。

「メールしてみるか。」

伊織は携帯を取りだし、そのボタンを押した。




その頃稲葉はベッドに横になっていた。身体中がだるく、食べ物も受け付けない。酷い風邪を引いてしまったようだ。と稲葉は熱い息を吐き出した。
その時、携帯がピカピカと光り、着信を知らせる。手に取ると、どうやらそれは伊織からのメールのようだった。

「1#死亡中」

その言葉と共に、詩織が机に突っ伏している写真が貼り付けられている。
稲葉は咳き込みながら寝返りをうった。伊織や太一がいてもダメなのか。と稲葉はため息を吐き出す。だが、一人でちゃんと登校できただけでも大きな成長と言える。否、高校生にもなって一人で登校できない方がおかしいのだが。

「悪い。アタシは風邪でダウンだ。
明日までには治すから。詩織は放っておいたら明日には元気になる。」

そう返信をして、稲葉は携帯を閉じた。この返信をみて、詩織はどうするだろう。そういえば、風邪がうつるといけないから、見舞いはいらないと言うのを忘れていた。そう思いながら、稲葉は下がってくる瞼に抗うことは出来なかった。目が覚めたらメールを送ればいいか。と決めて、稲葉は眠りについた。



「姫子つらそう……」

「稲葉んが休むんだから相当手強い風邪なんだろうねぇ。」

「ていうか、勝手に来て稲葉怒るんじゃないか?」

こそこそと話し声が聞こえて、稲葉はうっすらと瞼を開けた。それに真っ先に気づいたのは詩織だ。「姫子っ」と名前を呼びながらベッドに駆け寄る。
稲葉は起きたばかりで動かない頭を働かせた。なぜ、こいつらがいるのだろう。そう思って時計を見れば、とっくに学校は終わっていた。どうやら寝過ぎたようだ。

「何だお前ら……
風邪移るから来なくていいってメールしようと思ってたのに。
特に詩織は移りやすいんだからあまり近くに……」

「うぅっ、姫子ぉ……っ」

「聞いちゃいねぇ。」

ダルい体をゆっくりと起こせば、詩織はひしと稲葉に抱きついた。ひくひくと跳ねる肩や背中から、詩織が泣いているのがわかる。稲葉はため息をつきつつ詩織の背中を撫でた。

「お前もいい加減大人になれ。
アタシがいないだけでそんなんになってどうする。」

「それがね、稲葉ん。
詩織頑張ってたんだよ。でもちょっといろいろあって……」

ね、と伊織は太一に目配せする。
いったい何があったと言うのか。稲葉が尋ねると、伊織は苦笑いを浮かべながら詩織がこうなってしまった経緯を話し出した。
伊織の言葉通り、詩織は朝はこれでもかと言うほど落ち込んでいたのだが、稲葉のメールを期に、一人でも頑張って見せると伊織たちに誓った。稲葉を心配させないためにも、明日無理に学校に来ようとするだろう稲葉を止めるためにも。
だが、今日に限って授業でグループを作らなければならなかったり、体育では個人競技だからと安心していた卓球で急遽ダブルス試合になったり、挙げ句部活動でミーティングがあった。帰る頃には詩織の涙腺は崩壊寸前で。

「あたしと太一もなんとかフォローしようとしたんだけどさ、グループは席で決まっちゃったし、卓球は男女別で、組方は前の試合の成績順だったからどうにもならなくて……
部活に関しては手も足も出なかったよ。」

「なんていうか……天草はよく頑張ったと思う。
だから、あまり責めないでやってくれ。ここに来るまで泣くのもずっと我慢してたみたいだし。」

「……」

二人の言葉を聞いて、稲葉は詩織に目を向けた。相変わらずひぐひぐと肩を震わせる詩織は、稲葉の胸に顔を埋めたままくぐもった声をあげる。

「がっ、がんばった、けど……っ
こわっ、こわかった……ぁっ」

「悪いことが立て続けに起こったから参っちゃったんだよね。」

よしよし、と伊織は詩織の頭を撫でる。稲葉は何とも言えず、抱きついたまま離れない詩織を見つめた。だが、訪れた喉の違和感に数回咳き込む。詩織はパッと涙でグシャグシャの顔をあげ稲葉を覗き込んだ。

「冷えぴた!冷えぴた買ってきたよっ
あとのど飴も!」

「あぁ、ありがとう。
お前、酷い顔だぞ。」

バッと差し出された袋を受け取り、目尻にたまった涙を拭ってやる。ふっと笑えば、詩織はむっと唇を尖らせた。「だって悔しかったんだもん。」という言葉に、稲葉はパチリと目をしばたく。

「何が悔しかったんだ?」

「お見舞いに来たときに一人でも大丈夫だったよって言いたかったのに、結局ダメだったから……」

姫子離れ出来るようになったと思ったのに。と項垂れる詩織に、稲葉は息を飲んだ。詩織が、自分から離れることをいいこととしている。それが驚きで、そしてどうしようもない思いに胸が締め付けられた。恐らく寂しいのだ。と稲葉は思った。
ずっと一緒にいてやっているわけじゃない。詩織の方が稲葉にくっついているのではなく、稲葉が詩織から頼られることをよしとしているのだ。

「姫子?」

「あぁ、悪い。なんでもない。
よく頑張ったな。」

稲葉に頭を撫でられ、詩織は笑顔を見せた。

「明日、熱下がってなかったら学校来ちゃダメだよ。
私頑張れるからねっ」

「わかった。
もう帰れ。風邪移るぞ。
太一と伊織も、ありがとな。」

だが、稲葉の言葉に、詩織はすぐに眉を下げた。家に着てからまだ30分程度。1日に30分しか一緒にいられなかったことが、かつてあっただろうか。
ベッドの縁から動こうとしない詩織に、伊織は呼び掛けた。伊織を見て、稲葉を見て、俯いた詩織は寂しさを紛らわせるように一度きつく稲葉に抱きつく。それを受け止めた稲葉は苦笑して、詩織の頭をぐりぐりと撫でてやった。

名残惜しげに出ていった詩織をベッドから見送って、稲葉は小さくため息をついた。
少し、考えるべきなのかもしれない。今の自分と詩織の関係を。そうは思うが、考えれば考えるほどどうしようもない気持ちは膨れ上がっていく。
詩織の距離を置く。一緒にいることが当たり前になっていて、想像することすらできない。
だが、自分が動き出さなければ、きっと変わらない。なんとかしなければならないのだ。自分が。
その決意を邪魔する気持ちを覆い隠すように、稲葉は布団にくるまった。




****
inaban様より、「文研部メンバーと主人公に看病される稲葉」採用させていただきました。








×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -