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『お前は一体何なんだ? あれの探していた兄とはいえ、あの薄気味悪いベザリウスの餓鬼に媚びていた奴だろう?』
『……っ!』
そこまで言うと、初めて金の目がまともにこちらを見た。
その目には今まで見せた事の無いような、狂気にも似た強い拒絶の色が差し込んでいるのが見える。
『何も、知らないで……坊っちゃんを悪く言わないで下さい…!』
(───、)
一瞬、何か正体の掴めない毒気にあてられた気がした。
金色の月の奥に覗いた狂気と、それ以上にどろどろとした濃い恐怖。足が竦むような感覚は奇しくも初めて封じられた鴉と対面した時とよく似ていた。
けれどそれが何だというのか。
傷を負った無力な子供に一体何が出来る。
『まだ……そんな目が出来るのか?』
少し引きつった嘲笑。次に、それは折れた足を思い切り踏み付けるという形を取った。
『あっ……が…ッ!』
『自分の立場が分かっているのか? 下賤の身で貴族に入れてもらえた恩も無く、ベザリウスの人間を庇うだと? どこまで家を侮辱すれば気が済むんだ!?』
『ッ……!!』
ごりごり、と骨が軋む振動が靴越しに伝わってくる。
最初はただ頬を打つ程度だった行動がエスカレートしているのは自分でも分かっていたが、止める気はなかった。
足元の少年は痛みに耐えかねて圧迫から逃れようと藻掻いていたが、やがて時折痙攣を起こす以外に全く動かなくなった。辛うじて意識はあるようだが、腫れて悪化した痛みに全身が苛まれているのは瞭然だった。
聞き取ろうと思わなければ聞こえない程度の吐息が唇から漏れている。
(……何だ…?)
屈み込んで顔を近付ける。
届いたのは、言葉だった。
『オ……、坊っ…ちゃ……』
散々庇っていた名前。浮言ですらも、この子供は自分に屈せずに反抗している。
坊っちゃん。坊っちゃん。
泣き声の代わりに搾りだす言葉の繰り返しに、温い油を垂らされたような気味の悪さを覚えた。
ここまで痛め付けられても、足を折られても、何故その人間に固執出来るのか。忠誠心の一言で片付けられる範囲をとうに越えている。
第一、名前の人間はアヴィスに堕ちて久しく、もうこの世界に居ないというのに。
『……っ』
底知れない沼の淵を覗いたかのように、ぞくりと悪寒がした。
夜中に偶然合わせ鏡を覗いた、あの果ての見えない暗いリフレインの世界。それが眼下の少年から広がっていく。
同じ言葉を呟いて、呟いて、呟いて、
どろりと足元を侵食していく。
『……坊っ…』
『黙れッ…!』
衝動的な行動だった。
そして、声は止んだ。
蹴りつけたこめかみは内出血でどす黒く痣が浮かび、靴の角で切れた傷から流れた血が絨毯を汚している。完全に意識を失った少年を転がすとあれほど抵抗していた身体はあっさりと従い、そこでやっと安堵の息を漏らしている自分が居る事に気が付いて苛立った。
愚かにも、あの狂気じみた目を見ないでいい事に安心している。
月の狂気をそのまま写し取った金色を。
『……くそっ…!』
父がこの少年を置く意味など分からない。何を持っているのかも、それがどうナイトレイに関わってくるのかも。それでも、狂気の中にその一端を垣間見た気がした。
そして、自分はそれを怖れているのだろうとも。
あり得ないと必死で理性が平静を繕う。だが、一度刻まれたその感情は薄れる気配を見せなかった。自分は我を忘れた行動でそれを証明してしまったのだ。
暴力的に、力ずくで黙らせたという事実で。
『……おい』
今認めたばかりの事から目を逸らしたくてゆさゆさと小さな身体を揺さぶるものの、一向に返事は返ってこない。
まさか本当に死んだのかと都合のいいことを考えたが、すぐに触った胸が上下しているのが分かって落胆の息を吐いた。証拠の隠滅は屋敷裏の崖下に転がすか、外の窓の真下に置いておくぐらいか。
そう考えて襟首を掴むと、意識のない身体は簡単に持ち上がった。
(………、)
軽い身体。ぐにゃりとして動かない人形のような身体。そう意識した途端、冷水を浴びせられたように、奇妙な感覚が指先に走る。
気づいたのは一つの事実だった。
あれほど自分に反抗的だったこの子供が、今は素直に自分に従っている。たかがそれだけの事に暗い歓喜が芽生えていた。
今、自分が、この子供を支配している。
『は…ははっ』
誰に向けてでもなく零れた暗い笑みが、受け取り手のないまま虚しく木霊する。
襟首を吊られた格好のそれをソファーへ乱暴に放ると、嫌な方向に曲がっていた足と痣で赤黒く染まった片手がだらりと下がった。それでも目が覚める様子はなく、薄い瞼が僅かに震えるだけ。
そこに一筋だけ伝っていた涙は、自分がこの子供を屈伏させたと錯覚するには十分過ぎるものだった。
足元まで侵食していた感覚が引いていき、代わりに満たされていったのは、生来持ち合わせていた支配欲。
恐怖すら抱いた存在を自分の下に置いた事実に、妙な高揚感を覚えた。
もう一度肩を揺すってもやはり返答はなく、代わりに緩んだリボンの向こうに日に当たらない白い肌が覗いた。その様に小さく嘲笑が漏れる。
これは、ただの子供。何の力も持たず絶対的な力に支配される弱者で、歯向かう牙の無い小さな獣。
───そして、力を失った獣の末路はどれも同じ。
他の獣に蹂躙され、食い荒らされ、何も出来ずに消えていく。
何かに取り憑かれたように緩んでいたリボンを解き、釦を外した奥に覗く肌に口を寄せた。
がり、と噛みついた後に残ったのは赤い征服の印。手足の痣とよく似たその色は、白い肌をじわりと侵して美しかった。
『ああ、何だ』
散々痕をつけて、欲を吐き出して。
見上げた部屋の窓にはもう日が沈んだ後の暗闇しか映っていなかった。
微かな星明かりだけが照らす肌には伝染病のように鬱血痕が散っている。
あれだけ恐れた月は、もう無い。
『月は欠けるものだったじゃないか』
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