黒猫と革紐。 | ナノ



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act.7 苟且(かりそめ)の感情なら良かった


病室で何故だか紫煙が揺れている───と思ったら、顔面を張り倒された。否、殴られた。
パーではなく中々に男らしいグーで。



「───よっくもまあ、おめおめここに来ましたネェ」

「……何でお前煙草吸ってんだ」

「ハイ? ああまだ殴られ足りないですかそうですか。なら気の済むまで殴り倒して差し上げましょう」

「いやその……遠慮し、」


遅かった。

ばちん、なんて鳴っていれば可愛らしい乙女の張り手で済ませられたかもしれない。だが違う。
素晴らしいスピードで繰り出された怪我人とは思えない力強いアッパーはゴッキィイ!! と背筋の凍るような音を立てて、しかも頬ではなく顎下を打ち抜いていた。気を抜くと軽く三分は気絶する危険なポイントだ。タイミングからして舌を噛む危険すらあったが、すんでの所でそれは免れた。免れたのだが、ぐわんぐわんと眩暈がする。立っていられない。

「いっ……」

「これでも私が行くのは無茶だったと言えるのかイ? 君の方がそんな小汚い格好になってる癖に、それでよく人眠らせてまで行きましたねえ」

口の端で煙をくゆらす上司は何というか、かなり男気溢れて結構だがよく観察してみればそれは自分が消して残していった煙草だ。女のようなパジャマ姿でそれを銜えたまま皮肉を浴びせられ、妙に滑稽な気分だった。
とにもかくにも立ち上がれないでいるギルバートに手を貸そうともせず、ブレイクはふぅっと煙を吹き付けてまた嫌味を言った。


「ったくお嬢様にまで迷惑を掛けて。これがばれたらナイトレイとレインズワースの問題にまでなるでしょうが。君が出ていった後お嬢様は本当に増援が居るのか不安で確認した挙げ句事務員の人数まで増やして世話を焼いたんですから。君、分かってマス?」

「……そこまでしたのか……」

「ほーら分かってない。この大馬鹿貴族様がッ」

「ぁでっ!」

ばしんと額を指で弾かれ、ベッド横に座り込んだままギルバートは赤くなっているだろう額を押さえた。

「で、何か弁解は?」

「………、」


───問われた所で、何もないというのが本音だった。
本当なら口をきく事さえ避けられていてもおかしくないのに、こうして皮肉を浴びせかけてくれている。それだけで感謝したいくらいだった。
まだブレイクはギルバートと関わっていく事を否定していないから。
それがたとえどんな形でも、もう十分に思えた。これより上はただの我儘だ。


「……まだ足りなかったら気が済むまで殴れば良い。それだけの事をしたんだから、好きにしろ」

「ほう、君にしては殊勝なことで結構。精々歯ぁ食い縛ってもらいましょうか?」


では、とベッドの上から振りかざされた拳は高速で顔面に迫った。
ぎゅっと目をつぶる。

(……流石に顔面は痛そうだな)

下手をしたら鼻の骨が折れるかもしれないな。
呑気にそう思ってもやはり、遅かった。

衝撃と共に口の中に苦い味がする。

(………、え?)



「こんな苦いもの残していって。どうせ詫びるならもっとマシなものを用意出来ないんですか君は」



身構えたよりもずっと軽かった衝撃。
閉じた歯に無理矢理突っ込まれたのは、チョコレートだった。
もう一つ用意していた、苦い苦いカカオとリキュール入りのチョコレート。

「ブレイク……?」

「明日はちゃんと甘い物を持って見舞いに来なさいヨ。後二週間は薬を飲まなきゃなりませんから、その間に君のレパートリーを消化させてもらいましょうか」

「………、」

唖然としていると、これもお返ししますよ、と中途半端に灰になった煙草を唇に突っ込まれた。


「あまり頭ごなしに君を責める権利は私にはなかった。だからもうこれで終わりにしといてあげますヨ。形はどうあれ、君に心配される程度には不調だったと認めましょう」

「………、良いのか?」

「君がそーいう趣味で殴られたいならご希望にお応えしますが?」

「いや…止めとく」

「賢明ですネ。何だかんだでちょっと、苛々してますから」


息を吐いてベッドに転がったブレイクはぼうっと宙を見上げて、それきり口をきかなかった。
ギルバートも床に座り込んだままベッド横に背中を預け、ゆらゆらと上がっていく煙を眺めて何も言わなかった。不思議と心地良く思える沈黙。あれだけのことをしておきながら、今になっての後ろめたさは感じなかった。ほっとしている、と言った方が良いのかもしれない。
しばらく時間を弄んだ挙げ句、ふと思い立ったギルバートは一本だけ残った箱から煙草を取り出して仰向けの上司に渡してみた。
すると意外にもくるんと転がってブレイクは受け取った。次に、くいくいと人差し指で何かを要求してくる。

「………、火」

「お前さっきのは何で点けてたんだよ」

「何でも良いでしょう」

「………、」

「火」


わざわざ唇に銜えての要求にギルバートは折れ、自身の煙草の先から少し灰を落とした後、二つの先を付けるために顔を近付ける。
鈍く燃え出した先端とゆらぐ二つの煙。

まだ満ち足りたとは言えないものの、そこに安らぎのようなものを覚えてギルバートは自身とブレイクから上ったその先が一つになるのを見送った。


「……不味い」

「なら吸うなよ勿体ない!」


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