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「オレの国は、あの場所にあったんです」
旅商人のなりをして気ままに国々を彷徨っていた時にふらりと立ち寄った夕暮れの街。
いわゆる色町と呼ばれるその街の片隅にあった娼館の一部屋に、たった一人だけ男娼として座っていた金の瞳の美しい青年。
夜を過ごす気もなくただ金だけを払い各国の様々な話を語る自分に最初は不思議そうな顔をしていた彼も、客は客だと判断したのかそれともこちらの話に興味を持ったのか、ぽつりとそんなことを呟いた。
自分の国は今ある強国の場所にあったのだと。そして自分は、その国の最後の皇族だと。
───嘘臭い言葉。そう思った。
「……にわかには信じがたいナァ」
まっさらなシーツの上に転がり、頭を部屋の主の膝に預けながらくすりと笑う。
青年はまだ少年のようなあどけなさを残していて、年若く十代から抜けていないように見えた。波打つ黒い髪と金の瞳がまるで砂漠の夜空を思わせる彼はそうでしょうねとこちらに合わせて軽く笑いながら、隣に置いてある酒の瓶に手を伸ばす。
「楽しいお話をたくさん聞かせてもらいましたから。これはオレからのお礼です」
ここを出たら忘れて下さいねと前置きを口にした青年は杯に透き通った酒を注ぎながら、絵本を語るように昔話を話しだす。
昔あった大きく豊かな国。そしてその豊かさ故に攻め込まれ、命を絶たれた賢帝とその家族、仲の良かった兵達。語りはまるで本当の出来事であったかのように細部まで及び、攻め入った赤い髪の領主の事を語ると少しだけ青年の表情が憂いを帯びて陰る。
話を聞いているうちに語りの信憑性は段々と増し、いつしか月が高く上り詰める頃には手にした杯の中身が体温で温くなるほどだった。
「……けれど、帝の家族の者でたった一人だけ、兵達の尽力によって逃げ出した姫が居ました」
「それが君ですか」
「はい。小さな頃は身体が弱かったので、権力の争いに巻き込まれないように女のふりをさせられていたんです」
自分もあまり力に見合う人間ではないと思いましたし、と少し寂しそうに目を伏せて呟いた青年の瞳は琥珀を溶かしたような金色をしていて、視線が向かった小さな窓の先には大きな城壁がそびえていた。
ここは語っていた強国の城下町だ。
「復讐とかは考えなかったのかイ?」
不謹慎だとは考えつつもそう問うと、青年はふっと淡く笑う。
「今オレが城の前で皇子だと名乗れば、一笑にふされて不敬罪で殺されるでしょうね」
「…しかしよくこんな場所で見つからないものですネェ」
「普段は店に居ないことにしてもらってるんです。でも今日はもうオレの部屋しか空いてなかったんですよ」
「ふーん…」
そういえばここは一覧表に無い部屋だったなと来た当初のことを思い出しながら適当に頷くと、ふと別な考えが浮かんで謀らずも笑みが滲んだ。懐から一握り金貨を出し、それをチャラチャラと鳴らしながら青年の膝に手を置く。
ありふれた話の礼に一つ、悪役になってみても良いかもしれない。
「まあ要するに、君は亡国のただ一人の生き残りの皇子サマという訳ですか」
「そうなりますけど、何か…?」
「……皇族を抱く機会なんて、一生来ないと思いません?」
「え」
むくりと起き上がると長身の割に薄い肩を引き寄せて交わす口付け。
押し倒した青年の表情は、余計なことを話すんじゃなかったと心から後悔しているようだった。
「…話だけで良いって言ってたじゃないですか……」
「っていうか君が初めてなんて知らなかったんですから仕方ないでしょう。大体ここで働いてるんじゃなかったんですカ?」
「普段は店の人達の食事を作ってるんですよ!」
ぎゃあ! と叫ぶも腰に響いたのかすぐにシーツの海に沈む半裸の青年を見てやれやれとため息を吐く。とんだ皇子サマだと内心首を振るが、それにしても初めてだとは思わなかった。よほどこの宿は客が来ないらしい。
上玉が揃っている割に惜しいことだと他人事に哀れみながらシーツを友にうめいている青年の腰をゆっくりさすってやる。所々自分が散らせた赤い華が踊る白い絹のような肌は、言い替えれば何年も日の光をまともに浴びていない証拠だ。
「ま、何事も経験が大事ですヨー」
「にしても酷いですよ…もういいですから寝かせて下さい。お客さんも朝まででしょう」
見送りは出来ませんが、とどこか恨めしげに呟く青年はなんとか起き上がって前の開いた上着だけを羽織るとそっと胸の中心に触れた。
その場所には、一直線に肌を裂いた古い傷跡がある。
昨夜そのことについて問うとうわごとのように答えてくれたが、いまいち覚えていないのでもう一度聞いてみると、至極嫌そうに返答があった。どうやら昨夜自分がこの傷にかこつけて散々攻め立てたらしい。
周囲に散らされた赤い痕に顔をしかめる辺り、思い出すのも嫌らしい。かなり分かりやすい顔だ。
が、
「だから、後ろの兵をかばったって言ったじゃ───」
ないですか、と続くはずだった言葉が不意に途切れた。
急に口をつぐんだ彼を不思議に思いながら問い掛けると、視線がある一点に釘で打ったように固定されていることに気が付く。
「………、それ…」
「?」
身仕度を整えていた足元に落ちていた一枚の紙。昨日の昼間街にやってきたばかりの時に通りでばらまかれていたものを拾っていたのだ。
翌日に城の城主、つまりこの国の支配者の参加する式典があるらしく、砂漠から飛ばされてきた砂でかりかりに乾いた紙には城主の顔が色鮮やかに描かれている。その城主の顔はまだ若く、せいぜい二十半ばを過ぎるぐらいだ。
まるで柘榴の実のような赤い髪が印象的なその似顔絵を見て、青年の顔色が傍目に分かるほど青ざめている。
「これがどうかしたんですか?」
「……この、人…は……でも、そんな…」
問いに答えようとして、しかし途中から思考の海に沈んでしまった青年は食い入るように紙に描かれた絵を見つめ、無意識なのか傷が刻まれた胸に強く手を当てていた。
否定の言葉と疑問の言葉を代わる代わる呟いて、しかし次の瞬間にはっきりと瞳に差した影が濃く、暗くなる。
「この名前……」
絵の下に記された名前を指でなぞって、青ざめた青年がそう零した。
「バルマというのが城主の姓らしいですね。あまり聞いた名前じゃあありませんが」
「オレは…聞いたことがあります……」
「客の名前ですカ?」
「いいえ」
違います、と答えた彼は白い肌に上着だけを羽織ったまま、しかしそんなものには構っていられないとばかりに紙を握り潰した手をガタガタと震わせている。首を振った後に顔を伏せたまま告げた声の端は、心なしか震えて滲んでいるような気がした。
「………、お客さん、旅商人だって言ってましたね……」
「そうですケド?」
「お願いがあるんです」
しばらく紙を見つめていた視線を上げて、キッとこちらを正面から見た青年の瞳に不覚にも呑まれそうになった。
旅の傍ら、ある程度の危険に巻き込まれるのには慣れていたはずであった自分がただの男娼であるはずの彼にそう感じたのは、きっとそれだけ込められた思いが強かったからだろう。
その瞳は、まぎれもなく高潔な意志と覚悟を映していたのだから。
「お願いです。オレを……逃げ出した十年前の皇子を捕まえたと、城の城主に伝えて下さい」
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