ぬるい雨にうたれて家に帰る。むわっとした空気が自転車を漕ぐ体に纏わりつく。不快だ。

 バブルと共に増殖していったマンモス団地。今では人も減って、老朽化して酷く寂しい。その一棟の前にある錆びた屋根を乗せた共同駐輪場に自転車をとめる。錆びてかかりにくくなった鍵を無理やり閉めた。
 階段をゆっくり上がって、五階。向かって右側の扉。首に吊していた鍵で扉を開けると、ちょうどトイレから出てきた姉ちゃんが見えた。姉ちゃんはにっこりと笑うと、玄関を入ってすぐ右手にある風呂を指差した。まず、風呂に入れ、と。
 濡れて体に纏わりつくシャツを脱いで洗濯機に入れる。ズボンを脱ごうとベルトに手をかけたとき、ごんごんと壁を叩く音が聞こえた。顔を上げて、横をみやると寝間着にしているスウェットを持って姉ちゃんが立っていた。ありがとう、と礼を言って受け取る。

 少し前まで誰かが入っていたのか、まだ少し湿気の残る浴室に入る。
 普段は絶対置いてないはずのカミソリが洗顔料の横にあるのがみえた。父がしまい忘れたらしい。すくな目のお湯に肩まで浸かる。ぬるいなあ。なんというわけもなく、カミソリに手を伸ばした。
 また、頭の中でマーチが鳴る。毎回毎回、なんだよ、アンパンマン。
 ああ、でも。失血死は時間かかりそうだし、痛そうだし、嫌だな。なんて。思いながらも、カミソリをしっかり握って、首筋にに近づける。お決まりの手首はだめ。トラウマだから。黄色と赤が視界をちらつく。はらおうと頭を振ったら皮膚にカミソリの刃が擦れた。でもこれくらいじゃ傷はつかない。安全設計のカミソリ。

「お前はさあ、人の言うことをきけねえのか」

 ばしっ、と後ろ頭に衝撃。からん、とカミソリが浴室のタイルの上に落ちた。
 叩かれました。何で、傘で。誰に、カサに。どこを、頭を。
 頭をさすりながら睨みつけると溜め息を吐かれた。

「なんでこんなとこに居るんだよ」

 カサは俺を叩いた傘を開いてさし、風呂椅子の上に立っている。狭い風呂場がさらに狭く感じられた。

「死ぬなっつったろ」

 俺の問いには答えてくれないんですね。
 カサはゆったりした動作で床に落ちたカミソリを拾い上げる。首を傾げながらじっとみた。

「あんた、なにしてんの」

 大道芸人がナイフを飲み込むようにカミソリを喉の奥に滑り込ませたカサは、得意げに鼻で笑った。

「お前は死なせねえよ」

 傘をくるくる回して、畳んで、俺の頭をチョップするように、軽く叩く。

「しばらく、つきまとってやるから覚悟しとけよ」

 そう言うのと同時にカサは消えた。なんか、吹き消されるみたいに。

 とりあえず、顔とか頭とか体とか洗って、風呂を出る。髪をがしゃがしゃと乱暴に拭く。そう言えば、今日の夕食当番は俺だった。なに作ろう。冷蔵庫庫、なに入ってたっけかな。

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