六十八億人もいるのだから、いなくなった方がいいんじゃないか、なんて。だれだって、満員電車はきらいだろう。地球は、もう満員御礼。どっかでリタイアしているだれかとかわりたい。エゴだけど。わかってるよ。
 マーチを歌いながら、アンパンマンが怒っている。母さんが言っていた。俺を産むときずっと歌ってて、先生に笑われたって。なあ、アンパンマン。俺にアンパンチ、一発かましてくれ。そしたら、なんのために生まれて、なにをして生きるのか、わかるかな。結局人任せ。


 学校の屋上。昼休み。空は広い。初夏の匂いをまとった風が気持ちいい。丸襟のシャツにゆるく結んだ紺の紐リボンがゆれる。廊下はすこしひんやりしとしていたけれど、太陽の光があたるところだとあついくらいだ。学校指定の黒いセーターがじんわりと熱をはらんでいく。
 こんなすがすがしい青春の一ページ。錆びて何色かもわからなくなったフェンスを越えて、下をみおろしてみたところで恐怖なんて浮かんでこない。下っ腹がすーすーするだけ。ただ、それだけ。校庭からは高いとも低いともいえない声が校舎のざらざらした肌をせり上がってくる。フェンスに体をあずけて、焦点をぼかして、ただぼーっと前をみる。高くはねあがったサッカーボールがボールをさえぎるために高く高くはられたネットにあたって落ちる。丘の上に建つこの学校の校庭のどん詰まり、高い高いネットの先は青い。青い青い空にもくもくとした入道雲がどーんとういている。片足をその空に向けてだしてみる。すーすーが酷くなる。
 一歩、踏みだす。なにかに挑戦するようで、なんかいい響きだ。

「そうだ、今だ。そのまま死んじまえ」

 だれも居なかったはずの背後から声がきこえた。思わず踏みだした足を引っ込める。

「んだよ、死なねえのかよ。へたれめ」

 学校ではあまりきかない、おとなのおとこの低い声が背中にあたる。先生にしては選ぶことばが悪い。死んじまえ、なんていまどき小学生でも言わないんじゃないか。首をかしげて、そのままあごを力いっぱい上げる。フェンスにごりごりと頭がこすれた。みえない。さっきフェンスをまたいだとき手が茶色くなったことをおもいだした。頭も錆びくさくなるのかな。
 首だけで振り返ると、柵の向こうには、黒尽くめの人がぷかぷかと浮いていた。浮いていた。雨でもないのに黒い傘をさして。

「なにじっとみてんだよ。んあ、人間には俺、みえてないのか」

 きれいな顔がことりと首をかしげる。黒いフードから金髪がこぼれた。きらきらと光を反射する。
 しかし、この人はなんなのだろうか。エスパー。エスパーって飛べるのか。そんなことを思いながらじっとみていると、黒い人はすっと横にスライドした。長いマントみたいな、ローブみたいな服がひるがえる。思わず目で追ってしまう。

「もしかしてお前、俺のことみえてる」
「みえてない」
「声もきこえてるのか。そりゃーいい」

 琥珀色の瞳がいじわるくゆがんだ。整った顔だけに、とてもこわい。

「それなら、話は別な。さっき死ねっつったけど撤回。お前、死ぬな」

 死ぬな。命令形。なんだこいつは。
 だれが死ぬと言った。いや、自殺願望がないわけではないけれど。いやいや、ものすごくあるけれど。いつもいつも死ねないけれど。きょうもきょうも生きているけれど。禁止されたらやりたくなるのが人間というもので。わけのわからない状況で、一歩踏みだしてみようかな、なんて。そろそろ痛くなってきていた首を黒から青に向けた。
 そして、一歩、踏みだす。
 ふわっと体が浮いて、体がバランスを崩す。視界がぐわりとまわって、黒くなった。

「お前、人の話しきいてんのか」

 ほら、きょうもきょうも生きている。
 今、俺は黒い人の小脇に抱えられてぷかぷかと浮いている。空に。

「なにしちゃってくれちゃってるんですか」
「俺も長い間ここらにいるけど、話せるやつに初めて会ったんだ」

 また、あごを力いっぱい上げる。みえた。でも、逆光で表情は読めない。

「はあ」
「暇してたんだよなあ」

 だから話し相手をしろと。黒い人はにんまりと笑って言う。そして、俺を抱えたまま、ふわりと高度を上げる。ふわふわと昇っていく。きもちが悪い。窓から教室の中がみえた。しかめっつらのベートーベンと目があう。ざらざらの壁が鼻先を滑っていく。
 フェンスが眼下を通過した後、ほとんど落とすように、屋上の柵の中におろされた。

「あなたは何ものなんですか」

 黒い人と対峙するように立つ。ひざを打った。痛い。黒い人はあいもかわらずぷかぷかとういたままだから、いろいろとききたいことはあったけれど、声になったのはそれだけだった。あなたはエスパーなんですか。

「人はさあ、死んだら傘になるんだよ」

 黒い人は持っていた傘をたのしげにまわしながら言う。

「俺はさ、その傘を集めてんだ」

 真っ黒な大きい雨傘がたのしげに踊る。一か所、骨が折れている。

「俺、まだ死んでないけど」
「死にそうだったから見物に来たんだよ」

 しかし、いいやつに会ったなあ、と黒い人は笑った。俺は笑えない。

「なあ、お前、名前なんてんだ」
「坂本蘭」

 なぜかふつうに名乗っていた自分自身におどろいた。そういうお前はだれなんだ。なんなんだ。
 もしかしたら、黒い人自身にもわからないんじゃないか。傘をまわしつづけるその狼のような眼は、ずっと遠くをみているようにおもえた。

「俺は、カサだ」

 まわりつづけていた傘がぴたりととまる。そのまんまじゃねえか。
 訝しげに俺がみていると、カサは少し眉を下げて笑った。そして、きれいに通った鼻をひくひくさせる。

「ラン、今日はこれから雨が降るぜ」

 すっと近づいてきて、俺の髪をわしゃわしゃと掻き回して、ふっと視界から消えた。
 ああ、雨の匂いがする。
 ずっと上げっぱなしだったあごを下げると首がぺきょりとなった。すこし調子のはずれたチャイムが鳴り、長かった昼休みが終わりを告げた。教室に帰ろう。

飛び降り

出会ってしまったらもうしかたがない。そんなひとりとひとりのであい。

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