「金木犀の香りは秋雨とかのあとの冬がちょっとまじった空気のなかで嗅ぐからいいと思うんだよなあ」
この気温でこのあまったるいにおいはちょっとくどい、なんていいながらもちいさなオレンジ色の花に顔を近づけて戸田はしあわせそうに目を細めた。それから、またおれの横に戻ってくる。ふたりで歩調を合わせて歩く。奇跡だ、と思った。 馬鹿みたいに暑かったあの日、おれの頭も馬鹿になっていた。 暑い、と吐きだされる戸田の息がなによりも熱かったし、気をぬけば戸田の顎から喉につたう汗を目で追っていた。 文句をいいながらもシャーペンを動かしつづける戸田に負けじと動かした右手は大量の消しカスと赤いバツしか生みださなかった。それに気づいた戸田に、なに相良おまえばかなの、と笑われて、ああこりゃだめだ、と立ち上がった。飲み物をとりにいく、と。すると、なぜか戸田もつられたように立ち上がって、それと同時に崩れ落ちた。 あわてて受けとめた体はものすごく熱かった。それに頭の中のなにかを焼き切られたような気がした。 瞬間、うるさかったはずの蝉の声がきこえなくなり、水につかったように世界がぼやっとした。そのなかで戸田のすこし荒い息と暑さにあてられて僅かに朱に染まった頬の色だけが鮮明に、とけきった脳に届いた。 ゆっくりおろしていそいでのむものをとりにおりないとねっちゅうしょうかもしれない、顔のまわりを意味の伴わない呪文みたいなことばにが飛びまわっていたけれど、飛びまわっていただけだった。 「相良、あちいよ」 戸田のこまったような声が鼓膜をゆらして、肩がはねた。 気づいたら、俺は床に下ろした戸田に覆いかぶさって、しっとりと濡れた戸田の首に顔を埋めていた。 ぶわーって体全部が熱くなった。それこそ猛暑日だとかほざいていた今日の気温にも負けないくらいに。同時に視界がまっ赤になって、白くなって、それかな黒くなった。 もう、ほんとうにどうしようもない。どうしようもなかった。頭なんかいっこも回らないまま、涙ばっかりがぼろぼろでた。 戸田のまえではおれは泣き虫だ。それこそ、あきれられるほど。いろいろとあふれそうな何かが、どばーっとどこにあるかもしらない涙腺から押しだされてくる。そのたびに戸田はくしゃくしゃとかきまぜるように頭をなでてくれる。戸田には小学生の弟がいるから、それとおなじようなつもりなんだろう。小学生とおなじ扱いだってわかっていてもうれしい。でも、それ以上にくるしい。 戸田の熱い手の平がおれの肩をゆっくりと押した。その力のいれかたがやさしくて、また胸がくるしくなった。 「相良さ、俺にいうことあるだろ」 おれはぼたぼたと戸田の顔に落ちる涙をとめることもできなかったし、この状態でごまかしたり話をそらせることができるほど賢くもなかった。 「戸田、おれさ、戸田がさ、戸田のことがさ」 おれがことばに句読点をおくたびに、戸田はうんうんと相槌をうってくれた。そんな戸田の顔は次から次にあふれてくる涙でぼやけてよくみえない。 戸田がものすごくちかいようで、とおい。 なんでそんなこときくの。これでおわりなの。 「すき、なんだ」 これでおわりだね、戸田。 prev | list | next |