幼い指切り




深淵を閉じ込めた悪天候の光のない夜間、静かに眼下を見ていた人影の外套がふわりと開けられた窓から入る夜風にはためいた

濃厚に漂うむせ返る程の血の臭いは人影ーーーD・スペードにとっては何の障害でもないらしく、人であった無惨な残骸を何処か愛しげに、それでいて蔑むようにその双眸に映しながら階下へと身軽に飛び降りて着地する



「任務は完了ですね」



スペードが請け負った任務は『最近シマを荒らすようになった悪党マフィアの壊滅』だ

非合法の人身売買やら実験やらに手を出しているという噂が目立っていた中小マフィアであり、ボスであるジョットはどのような思いで一番彼等に近いスペードを選んだのだろうかと今更におかしくなってくる

革のブーツが躊躇いもなく血溜まりに浸され、ぱしゃりと跳ねた飛沫が響かなかった断末魔のように散った

優しげな面立ちには悪意も敵意もなく、ただただ自分自身が創りだして仕上げた惨劇を確認のために見回す

悪意のない殺気、敵意のない殺意

一瞬で地獄を現実に召喚したスペードはうっそりと目を細めると赤く染まった足元を二度と見ることはなく歩きだした






届けられた報告書に目を通していたジョットの目が上げられる

向けられる先には普段通り食えない、底知れない笑顔を淡く刻んだ己の守護者が立っていた

浴びた返り血は全て落としてから来たのかそれらしき臭いはしない

それとも幻術のみで片付けたのか

どちらにせよ適任は適任だったらしいとジョットは使い慣れたペンでサインを印すと凝り固まった肩を解した



「で、お前はいつになったらその幻術を解いてくれるんだ?」



ボスの私の前でそれはないだろうとジョットが言えばスペードは軽く目を見張り、流石ですねと緩める



「手抜きをしたとはいえ気付かれるとは思いませんでした」

「………馬鹿にしているのか?」

「まさか」



そういう訳ではないんですがと困ったように眉を寄せるわざとらしい顔をじっと凝視する

幻術と言っても一カ所だけで、ジョットだからこそ分かる不自然な違和感があった

スペードの右頬あたりが靄がかって見えたのだ



「怪我でもしたのか?」


有り得るとすれば任務中の怪我だろうとジョットが机を叩けばスペードはちょっとだけ躊躇う素振りを見せてから御見通しですと肩を竦める

解かれた幻術からあらわになったのは色白な肌に掠められた怪我とも呼べない赤い赤い一つのかすり傷

意外と言えば意外なことに何事もどうでもよさげなこの守護者はプライドが高い

矜持の高さはジョットですら舌を巻くくらいで、主にそのプライドはスペード自身の強さにかかっている

たったそれだけの怪我ですら隠そうとするスペードにジョットはほとほと呆れながらも真っ白な肌には痛々しいかすり傷に殲滅されたマフィアを憎く思いながら、ああ、だけどと椅子から立ち上がり微動だにしない‘霧’に近づく



「怪我を隠すな、スペード。隠された方が辛い」

「今度は見破られないようにしますよ」

「私は『隠すな』と言ったんだ」

「貴方だって隠すじゃないですか」



不満げと言うには事実だけを述べるスペードの切り返しに心当たりがあったのかジョットが押し黙る

とは言えスペードもスペードでジョットと張るくらいには心当たりは山ほどあるはずだ

ならばと視線を上げたジョットは有能故に溜め込みがちな守護者に提案を上げる



「分かった。私もお前には言おう。だからお前も私には言え、スペード」

「秘密の共有ですか?」

「そうだ」



それならば文句はあるまいーーー言い切ったジョットを疑わしげにスペード見、半眼のまま真意を計るように残っていた距離をぎりぎりまで詰める

値踏みする時独特の色濃くなった目は怖いくらい真剣で波紋一つ映さない

永遠に向けられ続くかのような二つの眼差しは、しかし思い出したように上げられたジョットの右手に固定された

二人っきりの薄暗い部屋に落ちる微妙な沈黙



「………なんです、これは?」

「知らないか?」



面食らったように差し出された小指を見るスペードに、こいつでも知らないことがあるのかと若干嬉しくなったジョットは、しかし同時に普通ならば子供が知っていて当たり前の約束の仕方を知らない彼の幼少期を暗く思い、驚きながらも口にする
ええ。と歯切れ悪く答える彼の声には微々たる戸惑いがあり、そんなに難しいことではないと苦笑しながらジョットはスペードの手を取ると小指を絡めた

片一方だけがしっかりと絡まる幼く拙いそれ

不思議さを隠そうともしないスペードは年齢以上に子供みたいな顔をしていて、早く教えろと言うようにジョットを見遣る

滅多に見られない、と言うよりも初めての微笑ましい光景にほのぼのと和んでいたジョットはゆっくりと頷くと小指の力を強めた



「これは指切りと言ってな、」

「………指切り、ですか?」

「ああ。約束を破らないということを約束するーーー簡単な誓いの儀式だ」



こんな風にと、昔はジョットも何度か口にした小さな子供達が口ずさむ歌を歌ってやれば聞いたことがないのかスペードは馬鹿みたいに真剣な表情で小刻みなテンポに耳を傾ける

スペードの落ち着いた藍色の髪がリズムを取るように揺れ動く

短い歌を聞き終えた彼はじっとジョットを眺めると続きはないと見てとったらしい、理解し難い歌ですね。と身も蓋も無い感想を零した



「何故そう思う」

それでもジョットが尋ねると、そうですねと絡めた小指を離しながら首を傾げ



「貴方は約束、誓いの儀式と言いました。ですがこれは許諾でもある」

「………許諾?」

「‘針を千本飲ます’ことで‘貴方の裏切りを許す’とも取れます。誓いと言うには罰が明確にされすぎている気がします」



変わらない心などない

変化しない気持ちなんてない

一度聴いただけで歌詞を覚えたのか、はっきりとした旋律を零すスペードはちょうど話の中に出てきた部分に強調を置いてジョットに笑いかけた

貴方は僕が約束を、それ以上のことを裏切っても許してくれますかと言うように

針を千本飲むくらいの覚悟なんてとうに出来ているんだと言うように



「僕は約束なんて不確かなことは出来ませんよ?」



だって、スペードはジョットを裏切るから

彼は『違う』というだろうがいつかそんな日は来てしまうから

それだけは絶対の事実、揺るがない理

‘霧’の宿命なのだとスペードは消えていく小指の温もりに仄かに笑った
愛着なんて持つはずではなかったのに、自分だけは何があっても第三者でいると思っていたのに



ーーーいつの間にかスペードが一番‘大空’に憧れていた



「………そんなことを言うな。まるで明日にでもいなくなるようなことを」



伸ばされたジョットの指先がスペードの頬を滑る

震えてると思ったのは気のせいか

行き先を忘れた若きボスのため息が室内に木霊する

持ち前の鋭いカンで何かしらスペードから感じるものでもあったのだろう、明るい自由な双眸が凪を失った湖面の如く揺れていた



「………僕は此処にいますよ、ジョット」



そっと

伸ばした両腕にジョットを閉じ込めて、これではいつもと逆だなとスペードは金色を見詰めながら声に出せなかった呟きを胸中に落とす



(今は、側にいます。望まれなくても。先はわかりませんが………)



少しだけ悲しくなった

たわいもない約束を、初めて託された願いの温もりを手放さなければならないことが



ぎこちない、大人の指切り

でも、幼い指切り

本当は子供みたいなこの儀式を守りたい気持ちはあるけれど

切ない二人の関係はまるで消えていく温もりのように儚かった




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