山崎の戦い

明智光秀、謀叛により・・・織田信長、本能寺にて死す。
その伝令を受け取り、読み上げると彼女は無言でそれを火にくべた。燃え散る煤を見つめる眸は力強く、炎のせいなのか紅く見えた気がして、官兵衛はゆっくりと瞬きをしたあと口を開いた。

「機が巡ってきましたな」
「・・・明智光秀を、討つ」

信長公の仇を取ると、告げる彼女に囁く。ならば、毛利に背後を突かれぬようにしなければ。彼女は無言のまま、官兵衛を睨みつけるように見て、ひとつ頷くと踵を返して陣から出て行った。





毛利と羽柴との和議が成り、羽柴軍は早々に中央へと軍を向けた。これが世に言う"中国大返し"である。

「元就公、今日はいつもと違うお願いをしに参りました」
「・・・」
「我が羽柴軍と、和議を」

急ぎ本能寺へ向かいたいという、その意思は告げられずとも分かっていた。そして、これを受け入れなければこれまで以上の力を持って、毛利は悉く破滅させられるであろうとも。彼女の中でそれほどに、"身内"と"それ以外"という枠組みはかけ離れている。今回の戦で身内未満に成り下がっていた毛利など、身内の最たるに聳え立つ信長に比べれば塵に等しいのだ。

「織田ではなく、羽柴きみと?」
「・・・ええ、羽柴わたしとです」

元就はその口角を吊り上げて面白いと彼女の提案を呑み込んだ。それは、彼女のその力強い眼差しが、眸が、意思が、既に信長のその先の、天下を見つめていたからなのかもしれない。





羽柴の兵が明智軍を捉えたのは山城に入る手前、摂津を越えたあたり・・・天王山、山崎の地だった。中国からとって返した羽柴軍は途中で合流した丹羽長秀らの兵も含めて二万を超える。一方、明智方は中央の基盤を固める為に京や近江、柴田勝家側に兵を割いており、大坂方面を重要視していなかった。羽柴軍のあまりの進軍の速さに明智方は迎え撃つ準備を十分に整えることが出来ず、多大なる兵力差のままの対陣となった。

「・・・光秀、」
「秀吉殿・・・」

天王山を羽柴軍が制圧し、明智方の敗北はもう目前となっていた。兵力差の壁は大きく、また強行軍による羽柴方は疲れをみせることなくも士気を高めていた。明智軍を破るという秀吉の力強い声に、兵が応えていた。そうして追い詰められた明智光秀は、撤退を余儀なくされる。
濃紫の髪を高く結わえ、刀を斬り上げるその後ろ姿を捉えて、秀吉は馬を止めた。

「なぜ・・・と問うておいても良いか」
「貴女なら、その理由がわかっておいでかと思いますが」

涼しい表情をしながらも、その頬には返り血が散っている。明智の兵を一人でも多く逃がさんと、大将らしからぬ優しさを湛える目の前の人物に、けれど此処で引くわけにはいかなかった。
刀を交え、弾き、斬り返し、虚を突いて飛ばす。斬りつける、避ける、防ぐ。掠った刃に、肩に痛みが走った。

「信長公の仇・・・私がこの手で討たせてもらう」

動揺が走る光秀を前に、その隙を逃すことなく大剣を揮った。





負けた。
斬られた。彼女に、
そうして光秀が次に目を覚ました場所は、見慣れぬ森の中だった。山桜の巨木に身を預け、斜めに横たえられていた。

「此処は・・・、ッ」

ズキリと胸を打つ痛みに起こしかけた身体を丸める。死後になっても痛みを感じるとは。これが信長を討った己の業なのかと、自嘲して笑い声を漏らした。・・・嗚呼、笑うと余計に痛みが走る。

「目が覚めたのか」
「ッ!?」

その笑い声を聞きつけたのか、傍にずっとあったらしい気配に今更気が付いた。驚いて痛みも構わず振り返り、″彼女″を捉える。そこには依然と全く変わらない、飄々とした様子の羽柴秀吉が立っていた。

「なんだそんなに驚いて・・・死んだとでも思ったのか?」

瞳を見開いた光秀を怪訝そうに見やり、彼女はすぐ隣に腰を下ろした。これは、いったいどういう事なのか。夢か何かか、幻覚か?目の前の現実が理解できず、困惑を隠せない。だが彼女が腰元の懐刀を抜いたのを見、嗚呼、切腹をさせてもらえるのかと、どうしてそんなに優しさを突き付けてくるのかと、けれど漸くだと、そう思って瞼を下ろす。
けれどそれは予想に反して手渡される筈のそれはそのまま上え持ち上げられて光秀の結い上げられた長い髪を切り落とした。けれど、だが、しかし。先から起こる様々な出来事が光秀の予想を悉く打ち破る。想像だに出来ない現実を前に、ついていくことが出来ない。

「・・・残念だが、殺してやらない。信長公を討った、その罪深い業を背負って、お前は私が天下を治めるのを見てから死ね。
・・・勝手に死ぬのは許さない」

どこから調達したのか、僧の着る袈裟のような身体を覆う布と笠を押し付けられる。

「なぜ、」

そう問う光秀の頬を、彼女の細い指先が拭う。

「そうさな・・・敢えて言うのなら、お前が死を望んでいるように見えたからだろうか」

此度会い見えてから、当り前だが一度も目にする事のなかった彼女の笑みがそこにあった。苦く、きっと悲しみも載せられたそれは、切なさを内包した力強さを持って、柔らかく瞳を歪めていた。この眸が、苦手だ。その時々で色を変え、言葉よりも如述に語ってみせる、他人を惹きつける眸。有無を言わせぬ色をも含み、彼女は簡単に、偉大なる彼の人と同じ色をつくるのだ。

「川越へ向かえ。煕子殿もそこへ居る」
「なっ・・・!」

それきり、口を開くことなく彼女は光秀に背を向けた。なぜ、どうして、と様々な思いが胸を責め、言葉にならずに頬に熱いものが伝う。彼女の優しさがこんなにも痛い。これでは本当に、死することよりも、生きることとは余程大きな罰になるのやもしれないと、光秀は押し付けられた袈裟と一緒になっていた路銀の入った袋を固く固く握りしめた。



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