君以外いらないみたいだ

三春は手のかからない女だった。降谷が忙しくて記念日や誕生日を忘れてしまっても、自分も忘れていたと何の悪気もなく言い放つような女だった。それどころか仕事でなかなか会えなくても文句も言わず、会えると言えば嬉しそうにはするものの寂しさを感じているかと言われればそれも怪しいような、そんな淡白な女だった。
だから、その彼女の返答に降谷はらしくもなく思考を停止させてしまったのだ。

「・・・は?」
「うん。だから、零くんに何かあった時に、連絡がくる権利を私にくれないかなって」

何年か振りに彼女の誕生日に休みが取れた降谷が、夕食の途中に話の流れで何か欲しいものは無いかと聞けば、彼女はそんな事を言い放ったのだ。

「どういう、」
「・・・珍しいね、察しの悪い零くんなんて」

困惑する降谷に、彼女はくすくすと笑う。

「キミの戸籍に入れて欲しいって言ってるの」
「っ、」

そんな、踏み込んだ事を彼女が言ってくるなんて、到底思ってもみなかった降谷は言葉を失った。理解が追い付かず、困惑した顔をしていただろう。眉根を寄せた、苦々しい顔に彼女には見えていたかもしれない。

「困らせちゃったね・・・忘れて。そいえば零くん、このあいだね」
「あ、ああ・・・」

だから、彼女が小さく苦笑しながらそれだけ言ってその話題から離れた事に、降谷は心中こそりと安心していた。
彼女のことは、好きだ。けれどそれは、その手のかからなさ具合が降谷にとって都合が良いからで、そこまで彼女を大切にしている積もりはなかった。だって、大切にしていなくても彼女はいつも自分を待っていてくれたし、変わらぬ笑顔で、変に引き止めたりもせずに、いつも降谷の帰る場所で在っていてくれたから。だから、突然降ってきたその重大な話から、降谷は逃げたのだ。逃げても、それでも彼女は変わらないと、自惚れていたのだ。
それが間違いだったと気がつくのは、もう少し後のことになる。



久しぶりに休みが取れた日のこと。今日は家にいるかと電話をしたが繋がらず、取り敢えず彼女の家まで来た降谷が目にしたものは、もぬけの殻の部屋だった。

「三春、?」

合鍵で開けた気配の無い部屋の中、家具や荷物などは変わらずあったし、間違いなくそこは彼女の部屋だった。けれど部屋の中は、もう何日も何週間も帰っていないというような、生活感も温かみも感じない、無機質に整理された場所になっていた。一体、どうなっているというのか。突然、不安に駆られる。まさか、彼女の身に何か?いや、そんなに危険なものに巻き込んだりはしていない、では、何が起こっている?
彼女が、居ない。
それが、たったそれだけの事が、こんなに堪えるという事実に目を背けて実感しないようにしながら、降谷は状況の把握にと家捜しを始めた。

「・・・クソッ」

部屋の中からだけでは明確な痕跡と言い切れるものは出てこずに、彼女の職場に調べをかけて分かったのは、海外への出張に行ったようだということだった。それも、期間は未定の。何かに巻き込まれた訳ではない事に一先ず安心はしたものの、一言もそんな話は聞いていないという事実に降谷はイライラとしたものを抑えられなかった。何故、仮にも彼氏の降谷に何も言わずにそんな長い出張へと出てしまうのか。日本ではない海外なんて何処も日本ほどの治安の良さは確保できない。もしあちらで何かあったらどうするのか。家族でも何でもない、彼女の親とも会った訳ではない降谷はそれに気づくことすら出来ないかもしれない・・・とそこまで考えて、彼女が以前話した事を思い返していた。彼女のその時の言葉の意味を、降谷がやっと理解した瞬間だった。



それから彼女が日本に戻ってくるのを確認する事が出来る前に、降谷は組織への潜入捜査が決まったのだった。



本来、降谷はマメな男である。だから二人の記念日も覚えているし、彼女の誕生日なんて忘れたこともないし、いつも時間が取れなくて会えないことを内心は申し訳なく思っていた。けれど、彼女がそれをなんて事のないように、気にしていないと振る舞うから。それが無理をしているようではなくて、本当に気にしていないようだったから。いつしかプライドの高い降谷は彼女のそういうそぶりに合わせて、淡白になっていったのだった。彼女のことなど、それほど好きではないと。別に大切ではないと、変わりなどいくらでもいると、そう、己に思い込ませてきたのだ。

「零くんに何かあった時に、連絡のくる権利が欲しい」

彼女は己の事を、そこまで大切に想っていないのだと思っていたから。だから、彼女がそんな風に、少し遠回しにも、己と家族になろうという意味で言った言葉に、普段の降谷なら気付いた筈のその遠回しの意味に、彼女が本当に己を大切に想っていてくれたのだという事に、すぐに気が付く事が出来なくて。そして踏み込んだ言葉には、気後れしてしまって返答を返すことが出来なくて。それが間違いだったと気が付いた時には、彼女はこの手をすり抜けていて。降谷の帰る場所はもぬけの殻で、大切な彼女は、遠いところへ行ってしまっていた。

「三春、」

彼女をいつも待たせていた降谷が、今度は彼女を待っていた。いつ終わるかも分からない出張に、彼女は連絡もよこさない。そんな彼女へ此方から連絡を入れるのは、未だ捨てきれない憐れなプライドの所為で出来なかった。離れる前の最後の時、降谷が曖昧に返事すらしなかった事は、屹度彼女を傷付けただろう。何も言わずに離れたという事は、彼女の中では終わりを意味していたのかもしれない。それを思うと、連絡など取れよう筈もなかった。
けれど、あちらで新しい男でも作ってしまっているかもしれなくても、それでも降谷は彼女を待っていたかった。連絡こそできなくても、もし彼女が帰ってきてくれるのなら、今度こそはそのチャンスを見落としたくなど無かった。
潜入捜査で前よりも忙しい中、海外へ行けば彼女の姿を探し、日本へ帰れば休みも無い合間を縫って彼女のその温もりも何もない部屋へ通う。空気の入れ替えや掃除をしながら、まだ、だって別れていないじゃないかと、己を奮い立たせた。女々しいその行動になけなしのプライドが傷付けられても、けれど彼女が帰って来たらすぐに捕まえられるように。
そして、彼女がはじめて欲しいと言ったものを、今度こそ貰ってもらう為に。





久しぶりに降り立った日本の地で、三春は懐かしいその街並みに目を細めながら、日本を出る前の事を思い返していた。

「出張、ですか」
「ああ。期間はまだ分からないんだが、あちらの支社で人手を探していてね」
「・・・わかりました」

突然入った辞令に、出張というよりは最早転勤に近いと思うところはあったものの三春はそれを受けた。三春を日本へ結びつけるたった一つにはどうせ中々会えないのだし、彼は三春の仕事を止めたりしないだろうから。
けれど、もし海外へ三春が行っている間に、彼にもしもの事があったら?逆に、海外で三春に何かあったら?ただ付き合っているだけの、しかも普通の恋人達より会わない上に連絡も少ない、何も知らない他人から見れば友人のような間柄の二人では・・・もしもがあった時に、連絡など屹度来ない。三春はいくら会えない時があれど彼を大切に想っていたし、彼が帰ってくる場所であろうといつも思っていた。だから、そんな"もしも"があった時の為にも、海外へ行く前に、そういう連絡が来るような立場になれたら、と。別に大々的にする必要はない、時間だってないし。けれど、本当に彼の帰って来る場所に、帰って来る場所である権利を名実共に得られるその権利を、得る事が出来たなら。
海外へ行ってる間、殆んど連絡などとれなくても、彼女の帰るところが彼のところで在れたなら。そんなことを、考えてしまったから。

「キミの戸籍に入れて欲しい」

唐突で、しかも直球過ぎたのは認める。だって、そんなことを考えていた三春に、彼が丁度タイミングも良く、何か欲しいものは無いかと尋ねてきたから。だから、口から溢れるように、そんな言葉が出てしまったのだ。言ってしまってから、後悔したけれど。
眉根を寄せて珍しくも分かりやすく表情を歪めた彼を見て気不味さを紛らわすように話を変えて、その顔色が安心したものに変わるのを眺めながら、三春は自分が自惚れていたことに気が付いた。彼にとって自分は多分、手のかからない都合の良い女で、そんな女が突然逆プロポーズなんてしてきたから、彼は引いてしまったのだと。もしかしたら、次に会うときは別れ話かもしれないな、楽だと思っていた女が、実は面倒くさい女であったと知ったのだから。

「・・・いってきます」

だから、三春は逃げたのだ。本当は長い海外出張になると、あの日彼に告げるつもりだったのに、とうとうそんな事は言えなくて。そして次に連絡をとってしまえば、別れ話になるかもしれないのが怖くて。何も言わずに、その長い出張に出る事にしてしまった。
そして結局すんなりとは終わらずに、色んな国を飛び歩いて、日本へ帰って来るのに3年もかかってしまった。



「ただいま…」

久しぶりに踏み入れた我が家で、癖になってしまった帰宅の言葉を口に出す。ひとりでも言ってしまうそれに少しだけ寂しくなりつつ、踏み入れたその部屋は3年前と何も変わらずにそのままだった。

「・・・?」

何も変わらずに、とは本当にそのままの意味で。埃が積もっていないその部屋に、三春は首を傾けた。普通、3年も放っておいたら部屋は汚くなる筈なのに。掃除の行き届いたその部屋は、空気も淀むことなく最近まで誰かが手を入れていてくれたようだった。それが、母だと思えないのは両親の面倒くさがり加減を知っているからで。彼女の知り合いに、そんな親切な事をしてくれる人は居なかった。そもそも、合鍵を持っている人物だって、限られるのだ。

「零、くん・・・?」

それ以外に、誰が居るというのだろうか。
まさか彼がそんな事をと思ってみても、それ以外に三春には答えが見つけられそうになかった。





彼女の部屋へ足を向けたのは、久しぶりのことだった。最近は潜入捜査も忙しく、トリプルフェイスなどと顔を使い分けた生活はどれが本当の自分なのか分からなくなるようで。こんな時に彼女が居ればと、思ってもその願望は変わらず叶わぬものだと思っていた。けれど、飽きるほど見上げたいつものマンションのその部屋には、いつもと違い仄かな明かりがついていて。

「ッ、!!」

そのまま居ても立っても居られず駆け出して、エレベーターが降りてくるのも待っていられずに階段を駆け上がる。息を切らせて人の気配のあるその部屋の前に立ってみてそこでやっと、どんな顔をして会えばいいのかと降谷は立ち竦んでしまった。

「・・・、」

こんなの女々しすぎると、いや、けれどそんな感情でこのチャンスを逃してどうするのかと。くだらないプライドなんかよりも、彼女を離さないことの方がよほど大事で、けれどもし新しい男がいたら?逡巡する降谷を余所に、目の前の扉がカチャリと、控えめな音を立てて開かれた。色々な思いでごっちゃになった頭はそれを呆然と見ているだけしか出来ずに、降谷はただ瞳を見開いていた。

「・・・零、くん?」

恐る恐ると、顔を出したのはやっぱり数年振りに見る彼女で。

「えーと・・・ただいま、?」

少し気不味げに、けれど抑えきれない笑みを浮かべて首を傾けた彼女を、降谷は何も言わずに、いや言えずに、腕の中へと引き込んだ。

「遅い」
「・・・ごめん」

華奢な肩に顔を埋めて、屹度痛いくらいに、ぎゅう、とその存在を抱き締める。もう忘れかけていた彼女の香りを吸い込むと、懐かしさに目頭が熱くなった。少し痩せた。彼女も己と離れた事を後悔していてくれたのだろうか。そっと己の背に添えられる彼女の腕に、じわりと滲んだものには気付かぬふりをして。

「おかえり」
「ただいまっ、」

彼女の声も、少しだけ震えていた気がした。



「れ、零くん・・・んっ」
「ん?」
「あの、ん・・・この体勢は、何かな・・・?」

一先ず落ち着いて、彼女の部屋に入れてもらって。少しでもその温もりを感じていたくて、ソファの隣に座った彼女を抱き上げて、久しぶりに見るその顔を眺めながら時折口付けていた。状況が読めないと、慌てながらもされるがままの彼女が可愛かったから、その言葉も邪魔していると流石に顔を押さえられる。

「・・・三春、手が邪魔だ」
「零くん、一回落ち着こう?」

苦笑する彼女の表情も、気を許してくれるその態度も、あの頃と変わらないことに幸せを感じる。いや、あの頃はこんなにも、彼女に己から触れたいと行動した事は無かったけれど。

「黙って離れて、ごめんね」

降谷がその姿勢から動く気のない事を悟ったのか、彼女は抵抗をやめてその場所から降谷の顔をじっと見つめて、そう言った。

「零くんを困らせちゃったから、もし次に会う時が別れ話だったらどうしようと思って、逃げちゃった」

へへ、と笑ったその顔は、彼女が今まで降谷に見せることの無かった寂しげなもので。彼女は態度にこそ出さずとも、きちんと降谷の事を大切に想ってくれているではないかと、漸くそれに気がつく事が出来た。嗚呼なんだか、二人とも随分と遠回りをしてしまっていたみたいだ。

「三春、好きだ」
「っ・・・うん、」
「愛してる」
「、うん・・・!」

ボロボロと、溢れる涙に唇を寄せて。初めて見る彼女のそれが、こんなにも愛おしい。

「君が居なくなって、初めて自分が自惚れていた事に気が付いた。君をどれだけ一人にしてきたかも、君が言ってくれた言葉の意味も、気が付かなかった愚かな自分に後悔した。それから、ずっと待っていた。今度は、俺が待たなくちゃいけないと思った」

嗚咽を漏らし、頷く事しか出来ない彼女の頬に擦り寄る。もう、その涙が彼女のものなのか己のものなのかも分からない。

「俺の、帰るところで在ってほしい。俺も、三春の帰るところで在りたい」

濡れた頬を離して、彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。

「籍を、入れないか」
「、はい・・・っ!」

ぼろぼろの顔で泣き笑う彼女と、微笑みあって、それから長い永いキスをした。



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